平和主日朝拝  2017/08/13
『悲哀の人』

イザヤ53:1-3、ルカ18:31-34

 8月第二の主日を迎えました。毎年私たちの教会ではこの日を「平和主日」として覚え、平和のために祈る礼拝をささげています。先週は広島、長崎の原爆記念日があり、明後日には72回目の敗戦記念日を迎えます。9日の長崎での式典で、田上市長が読み上げた平和宣言が印象的でした。「核兵器を持つ国々と核の傘の下にいる国々に訴えます。安全保障上、核兵器が必要だと言い続ける限り、核の脅威はなくなりません。核兵器によって国を守ろうとする政策を見直してください。核不拡散条約(NPT)は、すべての加盟国に核軍縮の義務を課しているはずです。その義務を果たしてください。世界が勇気ある決断を待っています。日本政府に訴えます。核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとり、核兵器を持つ国々と持たない国々の橋渡し役を務めると明言しているにも関わらず、核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できません。唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への一日も早い参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直しを進めてください。日本の参加を国際社会は待っています」。
 しかし現実はどうでしょうか。首相が広島と長崎で今年も同じ挨拶原稿を使い回していたと報道されました。首相周辺がいかにこの式典に重きを置いていないかのしるしです。北朝鮮とアメリカの間で緊張が高まり、両国首脳が「核の使用」を口にする事態になっています。こういう時こそ外交手腕を駆使して両国を諫め、東アジアの平和の秩序を維持するために汗を流すのが、憲法9条を持つ日本の役割と思いますが、実際には防衛大臣が早くも、米国への北朝鮮への攻撃は先の安保法制によって決まった「我が国の存立危機事態」に当たるとして、集団的自衛権に基づく武力行使の可能性を口にするなど、前のめりの姿勢がますます強まっています。このような危うい時代の中で今年の平和主日を迎え、あらためて教会の姿勢を整えなければならないとの思いを強くしているのです。
 
(1)悲哀の人
 今朝の説教題を「悲哀の人」としました。このところマルコ福音書14章の説教の中で繰り返し引用している、旧約聖書イザヤ53章の1節から3節から取られた御言葉です。「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちは彼を尊ばなかった」。ここに登場する「悲しみの人」。それは他ならぬ、私たちの罪の身代わりとなって十字架に死んでくださった神の御子イエス・キリストを表しています。
 今日の午後、平和主日にあわせて第29回教会セミナーを開催します。今日取り上げるのは戦後、南原繁に続いて東大総長を務めた無教会のキリスト者、矢内原忠雄についてです。そこで彼が1933年(昭和8年)3月に行った講演を取り上げることにしています。そのタイトルが「悲哀の人」でした。詳しくは午後にお話ししますが、彼はこの講演の冒頭でこう次のように語ります。「『いまは非常時だ非常時だというけれども、銀座を歩いてみても非常時らしいところはどこにもない』と先日ある先輩の言ったことばが妙に私の頭にひっかかっていたおりから、今朝の新聞である著書の広告の中に『非常時は慢性になった』ということが目に留まりました。・・・いったい非常時は真実なのでしょうか。それとも宣伝なのでしょうか。かかる混沌の中にあってことの真実を見とおし、真実を語る人は実に悲哀の人であります。悲哀の人とは自分自身のことを悲しむ人ではありません。自分自身のことを悲しむのは利己的です。虚偽が世に満ちてすべてに人にほんとうのことがのわからぬときたったひとりことの真相を見抜いた人、そして皆が黙っている時に一言いう人、それが悲哀の人であります。いったい真理はこの世にありてすべての人に簡単に領解されるものではありません。真理そのものにこの悲哀性があります。ゆえに真理を知る人はまた悲哀の人たらざるをえません」。
 矢内原の言う「悲哀の人」とは、このように虚偽の時代の中で、ひとり真理を見抜いた人、皆が沈黙する時代の中で、ひとり真理を語る人、皆が真理を理解しない時代の中で、ひとり真理を知る人を意味しています。彼は人々から理解されることなく孤独の道を行くことを強いられ、人々の罪をその身に負い、その身代わりとなって死をさえ引き受ける人です。そしてこの「悲哀の人」の最たる存在がイエス・キリストであると語るのです。

(2)エルサレムへの道
 そこでこの朝、私たちはまさに悲しみの人として十字架に進まれる主イエス・キリストのお姿に目を留めたいと思います。すでにこのところマルコ福音書で繰り返し学んでいることでもありますが、あらためて、今朝はルカ福音書から、この主イエスのお姿を心に刻み、その後に付き従う者とならせていただきたいと願うのです。
31節。「さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります』」。これは第一回目の9章22節、第二回目の9章43節から45節に続く、第三回目の受難予告です。
 ルカ福音書が記す主イエスの受難予告のいくつかの特徴を挙げておきます。第一にルカ福音書での第三回予告の語られる位置です。マタイやマルコでは、第三回の受難予告は第一回、第二回とあまり間を開けずに語られるのですが、ルカにおいてはエルサレムへの受難の旅路の始まりである9章で第一、第二の予告が語られてからずいぶん間を空けて、いよいよ旅の終着点であるエルサレムが近づいて来る18章で第三回予告が語られるのです。こうしてルカ福音書は、エルサレムすなわち十字架に向かって旅立とうとする主イエスの決意を示す言葉として、第一、第二の受難予告を記し、いよいよそのゴール、十字架の時が近づいて来たという旅のクライマックスで、第三の受難予告を記すのでした。
 このことは、第二の特徴として第三回予告が、これまでと違って主イエスの苦難の描写を実に生々しく具体的に記していることともつながります。「人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します」とある通り、エルサレムが近づくに連れて、その苦難もまた具体的に主イエスに迫ってくるのでした。そして第三の特徴は「人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです」との主の言葉です。これはマタイ、マルコにはないルカ独自の表現ですが、ここで念頭に置かれているのは直接的にはイザヤ書53章の預言です。主イエスのエルサレムへの道は、人を罪から救うという父なる神の使命を果たすための派遣の旅路であるのです。さらに第四の特徴は「人の子は異邦人に引き渡される」との表現です。マタイ、マルコでは「祭司長、律法学者に引き渡され」、その後「異邦人に引き渡す」となっていますが、ルカでは「異邦人」のみが出てくるのです。ここには異邦人読者を意識したルカの強調があると言われます。主イエスを十字架につけたのはユダヤ人だ、と言って異邦人クリスチャンたちがそれを他人事としないように、むしろ自分たちの罪のためであったとキチンと認めさせるための言い方だというのです。

(3)隠された真理
このように大変具体性を帯びて、それゆえにまたマルコによれば弟子たちが驚き、恐れを覚えるほどの緊迫感に満ちた主イエスの受難の予告の言葉でありましたが、肝心の弟子たちはこの言葉をどう聞いたのでしょうか。34節。「しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった」。これらは弟子たちの無知、無理解に対する単なる非難の言葉ではありません。彼らは主イエスの語られた受難の事実が分からないのではなく、その受難の意味するところが分からない。なぜなら「彼らには、このことばは隠されていた」からだと福音書は記す。主イエスの受難の意味は隠されているというのです。 
 しかしルカは、これを一つの目論見のもとに描いています。まだ弟子たちには受難の意味が分からない。でもやがてそれは明らかになる。ではそれはいつのことか。それは主の十字架の後、あの復活の光の中においてである。あのエマオ途上での弟子たちに復活の主イエスが現れてくださった時、御言葉の全体から語り、パンを裂いて祈られた時、閉ざされた霊の眼が開かれる。それはすなわち聖霊の時代の到来の予兆であり、まさしくそれは聖霊降臨によって実現した恵みの時代です。私たちは今、聖書の説教と聖礼典を通して働かれる聖霊のお働きによって、この主イエスの十字架の意味を真に悟ることができるのです。
 私たちはこの朝、ここに記された主イエスの受難の予告と、それが実際に主イエスの受難物語の中で実現していった様について黙想し、思い巡らしたいと思うのです。主はこれからご自分の身に起こる苦しみ、暴力、屈辱を具体的に知っておられました。「あざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられ、むちで打たれ、そして殺される」悲哀の人の姿です。そこには許し難い暴力があります。見過ごせない罪があります。けれども聖書は最終的にこの苦難の道を進まれる主イエスを圧倒的な勝利者として描くのです。この暴力を退け、報復し、相手を打ちのめすのではなく、むしろその苦難をご自身の身に吸収していくことでむしろ相手の敵意を無力化し、武装解除させるのです。それが主イエスの戦い方であり、愛の力であると聖書は語るのです。
 ある注解者が言いました。「受難予告の暴力に満ちた言葉は、イエスが我々のために負った苦難の代償について黙想するように促すだけではない。それは暴力に報復するならばその苦難を増し加えることになるという警告の合図でもある。我々は日々十字架を背負ってイエスに従うよう呼びかけられている。立腹した人々が相手を侮辱し、今まで傷つけられていた人たちが他人を傷つけようとする時、彼らのために十字架につけられたキリストの愛の証人となるのは誰であろうか。教会はキリストを礼拝し、傷口に包帯をし、お互いに信仰を守るよう励まし合い、そして放っておけば敵意によって人間生活がすっかり破壊されるかも知れない場所に戻るために、集まっている。教会は、キリストの経験が我々の経験でもあると言うことを経験して来た。・・・彼らは裏切られ、侮辱され、殴られるであろう。時には殺されるかも知れない。しかし暴力が勝利することはない。イエスの復活は、暴力は決して最終的手段ではないという神の断言である。最後には人間を救う神の愛が勝利を収めるであろう。それが福音である」。これはまさしく今の世界に向けての言葉であると私は確信します。だからこそまた、私たちは主イエスのエルサレムへの道に、私たちもまた従い行くことを改めてこの朝、決断したいのです。
 
(4)預言者として生きる
 矢内原忠雄は、講演「悲哀の人」において、この主イエスに従って生きる私たちもまた「悲哀の人」すなわち預言者として生きるように召されていると語りました。「キリストの霊を受けたるキリスト者もまた、他人の罪を自分が負う者でなければならない。他人の罪によってみずから苦しみを受ける者、これすなわち悲哀の人である」。今日、キリスト者である私たちは、またキリスト者の群れである教会は、この召しに対する覚悟と応答を求められているでしょう。そしてそのためには、教会の説教が問われるのです。旧約の時代、偽りの平和を語る偽預言者に対して、エレミヤは涙を流しつつ祖国への神の裁きと悔い改めを語りました。パウロは愛弟子テモテへの遺言で「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳を背け、空想話にそれて行くような時代になる」と警告しています。まさに今日の日本の教会も、偽りの平和を語って安逸の中に生きるのか、それとも神のさばきと悔い改めを語って悲哀の人として生きるのかが問われているのではないでしょうか。
主イエスは弟子たちに「さあ、これからわたしたちはエルサレムに向かっていきます」と言われました。「わたしは」でなく「わたしたちは」と言われたのです。エルサレムへの道、それは主イエス一人が赴く道ではありません。それは今私たちが立っている道でもあり、また聖霊によって励まされながら歩んでいく道でもあるのです。主イエスの十字架を高価な恵みとして受け取り、主に従い行く私たちでありたいと願います。



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