平和主日朝拝 2012/08/12
『平和を作る者』

マタイ5:9
 
 8月第二の主日を迎えました。私たちは毎年この日曜日を「平和主日」として覚えて礼拝をささげています。この朝も、神にある真の平和がこの地にもたらされることを祈り求めつつ、ご一緒に主の生ける御言葉に聴いてまいりたいと願います。皆さんに主の祝福がありますように。
 
(1)平和を作る者
 今日開いております新約聖書のマタイ福音書5章は、主イエス・キリストによる「山上の説教」として大変よく知られた箇所です。ここで主イエスは、ご自分のもとに集まってきた弟子たちや群衆たちに、神を信じる者に与えられる新しい価値観、新しい生き方を教えていかれるのですが、特にこの朝注目したいのが平和についての教えです。主イエスは言われます。「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」。平和というのは他者との関わりの事柄です。自分と自分以外の存在との間に争いがなく、穏やかで落ち着いた状態と言ってよいでしょう。それは一番小さな単位でいえば夫婦や親子、家庭ということですし、そこから拡がって友人、同僚、隣人、地域、社会、そして国家ということにまで及ぶものです。私たちは孤独に生きる者でなく絶えず他者との交わりの中に生きる存在として、自分と自分以外の人々との間に平和を作っていくことが求められているのです。聖書は人間の心の中にある「罪」の性質を直視し、その本質が「自己中心」にあると語ります。ですから私たちが考える幸いも、自分の願いが叶い、自分の望みが満たされることにばかり向きがちですが、しかしもし人が単に自分のことだけを考えていくならば、そこには夫婦や親子の関係においてですら本当の平和を作り出すことはできません。みんなが自己主張を繰り返し、他者の心を顧みず、ただ自分の我を通すことだけに執着するならば、そこには絶えず争いが絶えないでしょう。それが家庭であろうが、社会であろうが、国と国との間のことであろうが本質的には同じことなのです。
 しかし主イエスは私たちに向かって「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」と言われます。ここで「平和をつくる者」、「ピースメーカー」と言われるのですが、そこには平和は自然に出来上がるものではなく、皆がそれを願い、意志して作り出すものだという主張が込められています。さらに、ここで「神の子ども」という表現が出て来ます。新約聖書の時代、それは世界史的にはローマ帝国の支配が広く及んだ時代ですが、当時「神の子ども」と呼ばれるのはローマ皇帝のことであり、平和と言えば「ローマの平和」(パクス・ロマーナ)、つまりローマ皇帝が強大な武力、軍事力、経済力によってもたらす平和。それが神の子の平和であったのです。平和というのは力のバランスで成り立つという考え方、今の世界も、そして日本もそういう主張がだんだん声高になり、平和憲法を変えようという動きが加速していますが、ところが主イエス・キリストは、御自身の御許に集まってきた群衆、何も持たない武器も権力も持たないごくごく普通の生活を営む人々に向かって、あなたたちが平和を作るのだ、あなたたちが神の子なのだ、と語りかけておられるのです。

(2)私から始まる平和
 このように聖書の教える平和への招きは、武力や権力による平和ではなく、私自身をその作り手、担い手として立たせるものです。それこそ主イエスがこの山上の説教を通して語っておられる新しい価値観、新しい生き方であり、それはいわば「愛によって造り上げられる平和」ということができるでしょう。武器の力、憎しみの力、支配の力でなく、愛の力、赦しの力によって造り上げられていく平和。それが聖書が示す平和の姿です。その一つの主イエスは5章38節から44節でこう仰っています。「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。このように主イエスは相手の敵意をこちらの敵意で跳ね返すのではなく、愛によって吸収し、相手の敵意そのものをなきものにしてしまうという新しい力、愛の力の実践を示されます。そうすることで相手の力を無力化し、愛の力で包み込んでしまうことができる。それが究極的な平和の教えです。そのためにはまず私たち自身が、神の愛によって包み込まれ、溶かされ、赦されていくことが必要であり、神との平和を与えられることが必要です。神と和解し、神の愛を受け入れ、神による赦しと喜び、自由と安心をまず自分自身が味わい、体験すること。そこから私たちの「平和をつくる者」としての歩みが始まっていくと聖書は教えます。主に愛されることを通して愛することを学び、主に赦されることによって赦す者とされ、主に受け入れられることをもって受け入れる者とされ、そうやって私たち自身が平和を作る者とされていくのです。

(3)和解の使者として
 このように、私たちが平和を作る者とされていくのは、まず私たちが神との平和に生きる者となることから始まっていくのですが、その要こそが主イエス・キリストの十字架です。エペソ2章14節。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です」。主イエスが私たちのために十字架に掛かってくださったことによって敵意は廃棄され、真の平和が訪れる。この主イエスを信じるときに私たちはまさしく平和を作る人、ピースメーカーとして、愛に生きる者とされていくことができるのです。
 平和を出すことを妨げる要因は数多くありますが、その中にある大きな要因の一つに他者に対する恐怖心や猜疑心ということがあるのではないかと思います。必要以上に他者を恐れたり、他者に対する疑いの心を抱くところに、いつしか「やられる前に、やってしまえ」という過剰な反応が生まれてくるのです。一部の流言飛語やデマ、人々の恐怖心、敵対心を扇動するプロパガンダによって火を付けつけられた時に、人間がどのような行動に出るかは、あの関東大震災の時に起こった朝鮮人虐殺や、1994年にアフリカのルワンダで起こったフツ族によるツチ族の大虐殺が物語っています。ですから、平和のことを語ると、すぐにそれは絵空事の甘い考えであって、現実に敵となりうる国について取り上げられ、人々の不安や恐れを駆り立てるメディアの扇動などによってますます人々の中に敵意が増していくということが起こっていくのです。かつて1934年にドイツの若き神学者ボンヘッファーがデンマークのファネーで行った講演があります。そこでボンヘッファーは「平和と安全保障」ということについて次のように語りました。「いかにして平和はなるのか。平和の保証という目的のために、各方面で平和的な再軍備をすることによってであるか。違う。その理由の一つは、これらすべてを通して、平和と安全とが混同され、取り違えられているからだ。安全の道を通って<平和>に至る道は存在しない。なぜなら、平和はあえてなされなければならないことであり、それは一つの偉大な冒険であるからだ。それは決して安全保障の道ではない。平和は安全保障の反対である。安全を求めるということは、『相手に対する不信感』をもっているということである。そしてこの不信感が、ふたたび戦争を引き起こすのである」。いみじくも、平和と安全保障の問題は、私たちの社会が現在直面している大きな問題でもあるでしょう。
 紛争地域におけるDDR(Disarmament, Demobilization, Reintegration武装解除・動員解除・社会復帰)という働きがあります。対立して互いに戦いを繰り広げている二つの軍の間に丸腰の民間人が入っていって、兵士たちの間にから武器を取り上げ、軍を解体し、兵士たちを社会復帰に促すという一連のプロジェクトのことで、内戦や紛争処理の最終段階である言われます。その働きの日本における第一人者である伊勢崎先生が言うには、そこで一番重要な道具は「言葉」であり、ねばり強い交渉力であるというのです。互いに敵対する二つの勢力、そこには互いに対する恐怖心、猜疑心があるのですが、その間に分け入って、何度も何度も話し合いのテーブルに両方を着かせ、ねばり強く互いの利害を調整しながら妥協点、一致点を探り、恐怖心、猜疑心を取り除き、そして最終的な合意に辿り着く。そういうまことに困難な交渉を通して、互いの和平を導き出し、武器に依らない平和を造り出していくというのです。
 地上の教会が歩む、究極の平和の実現までの道は決して平坦ではありません。しかし人間の言葉でさえ、時にこのようなねばり強く誠実な営みによって平和作りを推し進めているとするならばなおのこと、神の言葉によってもたらされる真の平和の実現を、神の民である教会がどうして祈らずにおれるでしょうか。剣に依らない平和を、槍に依らない平和を、私たちは祈り求めていきたいのです。人々が剣を手にし、槍を手にする時代の中で、平和の実現のために黙々と世界を耕し、人々の心を掘り起こしていく鋤を手にする教会として、人々の間から恐れや疑い、怒りと敵意の根を切り取っていく鎌を手にする教会として、平和の主なる神の光に導かれて、その小道を辿る群れとして歩んでまいりたいと思います。あきらめない心が大切です。平和を作りたいと願ってもなかなかうまく進まない。しかしそれであきらめてしまわない心です。造り上げると言う営みはあっというまのことではありません。それは地道に組んではばらし、また組み直し、立て直し、という試行錯誤の中でそれでも確実に建て上げられていくものです。国と国との平和を願う営みもどうようです。あきらめてはいけない。平和を作る使命を与えられた私たちは忍耐強さが必要です。イエス・キリストの十字架によって神との平和を与えられ、その神の愛によって生かされて、神の愛が招く真の平和の中に生き、真の平和を作り出すピースメーカーとしての人生を、ぜひここから歩み出していただきたいと切に願うものです。

 



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