2018年復活節記念主日夕拝説教  2018/04/01
『主がついていれば』

ルカ福音書24:13-35

 主イエス・キリストのよみがえりを祝うイースターの、幸いな一日が終わろうとしています。4月から新しい歩みをスタートするお一人一人と、復活の主イエスがともに歩んでくださる。この確かなお約束に励まされて、ここからそれぞれの一週間の旅路へと遣わされてまいりましょう。

(1)約束を思い起こそう
 主イエスを信じて歩む途上にあっても、しばしば私たちは恐れにとらわれます。不安にとらわれます。本当にこの道で良いのだろうか。主はともにいてくださるのだろうか。この道を選び取ったのは失敗だったのではないだろうか。そんなことを考える自分の信仰の弱さ、頼りなさを覚えつつも、しかしそのような心があることを打ち消すことができない。私たちの足取りはおぼつかなく、その歩みも頼りないものです。
 主イエスがよみがえられた日曜日の夕刻、都エルサレムから逃げ去るように足早に進む二人の弟子の姿がありました。彼らもまた恐れと不安を抱え、自分たちの足下ばかりに視線を落として進む者たちでした。13節から16節。「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村へ行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」。
 このエマオに向けて旅する二人の心にあったもの、それは、大切な心の拠り所であった主イエス・キリストが十字架に死なれ、墓から盗み出され、もはや私たちとともにはおられない、ともに歩んではおられないという事実です。
 しかしそんな二人のもとによみがえりの主イエスが近づいて行かれ、彼らとともに歩み始められるのです。ところが彼らはその旅人がよみがえりの主とは気づかない。そしてともに旅するこの人物に過ぎ去った過去の出来事として主の受難の様子と、この日の朝、墓が空っぽで、主イエスのお体がなかったという事実を語り聞かせるのが精一杯でした。彼らが主イエスだと分からなかった理由を、聖書は彼らの目が「さえぎられていた」からと説明します。それは肉体の目のことでなく、心の眼の問題、信仰の問題です。主の復活を知ることがなければ、私たちは希望に生きることができない。未来に向かって開かれて歩むことができない。いつまでも過去に縛られて、失望と落胆の中を歩むほかない。それは信仰の持つ希望や喜びとは対極的な姿です。25節から27節。「するとイエスは言われた。『ああ、愚かな人たち。預言者の言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。』それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事柄を彼らに説き明かされた」。さらに30節、31節。「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった」。ここには主イエスを信じる信仰についての大切な真理が語られています。御言葉が説き明かされ、パンが裂かれた時に、彼らの信仰の眼は開かれ、復活の主イエス・キリストをはっきりと見ることができたのです。

(2)主がついていれば
 御言葉の説き明かしとパン裂き。それは今日ここで私たちが行っている礼拝そのものの姿です。説教に続いて今朝も主の晩餐をともに祝いますが、まさしくこの礼拝において、私たちは復活の主イエス・キリストをはっきりと信仰の目をもって見、このお方と親しく交わることがゆるされる。これこそが礼拝において主の日毎に起こる最も大切な出来事なのです。彼らは決して劇的な体験をしたわけではありません。主イエスの口から淡々と語られる御言葉の説き明かしを聞き、主の手によって裂かれたパンに与ったときに、彼らははっきりと主イエスと相まみえることができたのです。こうして彼らの目が開かれた途端に、主イエスのお姿は彼らの前から消え去るのですが、しかしもはや彼らは主イエスの不在を嘆くことはない、絶望し、途方に暮れることもない。主はどこにおられるのかと訴えることもない。とぼとぼと失意の中を歩むこともない。今や彼らは立ち上がり、新しい歩みをはじめることになるのです。32節。「そこでふたりは話し合った。『道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか』」。主の語りかけを聞く時、聖書の説き明かしに聞く時、心がうちに燃える。これは本当に素晴らしい恵みの経験です。
 御言葉を読む時、聞く時、説き明かす時、心がうちに燃える。聖霊の神が私たちのうちに御言葉とともに働いてくださる時、心がうちに燃え上がる。その証しとして、彼らはすぐさま立ち上がると、恐れを捨て、危険を顧みず、今さっきまで歩んできたばかりの道に立ち、再びにエルサレムに向かって歩き出すのです。時は真夜中。とても旅をする時間ではありません。しかし彼らのうちで燃え立つ心は、もはや彼らをエマオの村に留めることはできなかったのです。彼らはきびすを返して、今来た道、今、逃げるようにして下ってきた道を、今度は主の復活の証し人として歩き始めるのでした。彼らが歩み始めたエルサレムへの道、それは夜の暗闇の中ですが、しかし彼らの心は希望と喜びに溢れておりました。昼の光の中を歩んでいた時には失望と落胆の心であった彼らが、今や夜のとばりの中を希望と喜びに溢れて進んでいくのです。なぜならそこには復活の主が御言葉の約束においてともにいてくださるからなのです。復活の主イエスを信じて歩み始める道は、時には確かに夜の闇の中を一人孤独に進むような道であるかもしれません。しかしそこにおいても主がともにいてくださる。ともに歩んでくださる。終わりまで私たちを離れず、捨てず、時には私たちを背負うようにしてその道を歩ませてくださる。だから私たちは恐れを振り払い、不安を捨て去って、「主がついていればこわくはない」と、復活の主イエス・キリストとともに歩み出すことができるのです。



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