受難週主日夕拝説教 2018/03/25
『私たちのための受難』

Iペテロ2:20-24

 受難週に入った主日の一日を過ごし、昨夜を迎えました。「棕櫚の主日」から始まるこの一週間を、主イエス・キリストの十字架を見つめ、それがいったい何のため、誰のためであったのかを深く思い巡らしつつ過ごしたいと願います。今晩もともに御言葉に聴いてまいりましょう。

(1)十字架との隔たりを越える道
 今年も皆さんのお手元に、受難週のための「黙想と祈りの手引き」をお配りしています。カトリック教会にはこのような教会暦に沿った霊想の手引きが数多くあるのですが、私たちのプロテスタント教会は、このような点での貧しさを覚えます。それでも受難週はやはり特別な一週間ということで、少しでも霊性を支える助けになればと願って数年前から作り始めたものです。ぜひ朝の「日々の御言葉」の聖書日課とともに、今夕からの祈りに用いていただきたいと思います。
 受難週を覚える、十字架の主イエスを見つめ、思い巡らす。そのことの意味は一体どこにあるのでしょうか。二千年以上も前の一つの出来事を繰り返し覚え続ける意味はどこにあるのか、行ったこともない場所で起こった、一人の人の死、しかも直視できないほどに惨たらしい刑罰としての死を見つめ続ける意味はどこにあるのか。聖書を通して私たちは主イエスの十字架の出来事を繰り返し読みます。救いの出来事も、信仰の生涯を歩むことも、いつでもその中心にあるのは主イエスの十字架の出来事であると言っても言い過ぎではないでしょう。その一方で、主イエスの十字架の出来事をできるだけリアルに、できるだけありのままに受け取り、思い巡らしたいと願いつつも、いつもどこかに埋め尽くすことのできない、詰め切ることのできないある種の「隔たり」があることも認めざるを得ません。それは時間的な隔たり、空間的な隔たりということもあるでしょうが、何と言ってもその出来事が私たちの器をはるかに凌駕し、圧倒する出来事であるからでしょう。
 この隔たりを埋め、越えていくことのできる道筋はあるのか。あるとすればどのようにしてか。もちろん私たちの信仰は、基本的に神の語りかけである啓示に基づくものであり、それは上からのものです。私たちの経験から積み上げていく下からの道ではありません。しかしながら、上からの神の語りかけを私たちがどこで受けとめるかが肝心でしょう。単なる知識、単なる理論、憶測や類推で考えるのでなく、さりとて単なる経験則、感性のままに受け取るのでもないのです。

(2)苦難の経験から十字架を受け取る
 ではいかにしてか。その大事な道筋を示すのが、今晩与えられているペテロの手紙一2章20節からの御言葉です。20節から24節。「善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」。
 ここにはキリストの受難が私たちと無関係なものでない、無関係でないどころか、それは深く固く結びついたものであり、何と言ってもそれが「私たちのため」の受難であったことが明らかにされています。そしてキリストと私たちとを結び合わせる結節点が「苦しみ」にあるというのです。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」。罪のない神の子キリストが、私たちの罪をその身に負ってくださった。この出来事が私たちのためであったことを私たちが知るのは、私たちもまた苦しみの中に身を置くことを通してだとペテロは語ります。20節、21節。「善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」。ここでのペテロがこの手紙で触れる「苦しみ」とは、要するに信仰のゆえの迫害、主イエスに従うゆえに味わう苦難のことです。しかし私たちが主イエスによって救われたのは、このキリストの苦難に与る歩みをするためだというのです。その私たちが従うべき足跡、倣うべき模範、それがキリストの受難なのです。

(3)私たちのための受難
 私たちは今週、受難週を過ごします。御言葉を読み、思い巡らし、祈りの中に日々を送ります。しかしそれだけではなお足らないものがある。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」との御言葉を受け取って、その模範に具体的に従うということなしに、私たちが主イエスの受難の意味を深く確かに受け取る道筋はないのだろうと思うのです。そしてその道筋を通ってはじめて、あの主イエスの十字架の御苦しみが、「私たちが罪を離れ、義のために生きるため」であったことを知り、「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされた」という救いの恵みを受け取ることができるのです。
 主を信じて生きる日々にも困難があります。試練があります。涙する日々があり、眠れない夜があります。しかしその苦しみの只中にあってこそ、キリストの苦しみが私たちのため、いや私のためと知ることができるのです。そしてキリストの十字架がもはや私たちの苦難の根本的な解決となっていると信じることができるのです。だからこそ、私たちもまた、主イエスのために味わう苦しみをも引き受け、そこで十字架を担って生きていくのです。私たちのために受難を味わわれた主イエスに従い、結び合わされて、私たちもまた自分の十字架を負って、このお方に従っていく歩みを、今晩ここから始めてまいりましょう。



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