2017年復活節記念主日夕拝説教  2017/04/16
『聖書の目的』

ヨハネ福音書20:30-31

 主イエス・キリストのよみがえりを祝うイースターの、幸いな一日が終わろうとしています。主イエスは復活の日曜日の夕べにも、愛する弟子たちのもとに来てくださいました。そして「あなたがたに平安があるように」と言ってくださいました。今夕も、私たちはこの礼拝において復活の主イエスと親しくお会いできることを感謝します。主イエスからの恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますようにと祈ります。

(1)聖書のあとがき
 30節、31節。「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」。
 イースターの夕べに味わいたい御言葉は、ヨハネの福音書の「あとがき」のような言葉です。実際にはまだ21章が残っているのですが、それでもヨハネ自身はよみがえられたイエス・キリストが弟子のトマスに向けて語られた「信じる者になりなさい」との呼びかけを記したときに、もうこれが結論、そして締めくくりに進もうと考えたのではないか。そしてそこで一番大切なことを書こうとしたのではないかと想像するのです。「主に愛された弟子」として主イエスとともに生きてきたヨハネは、これまでのところで主イエスの語られた言葉、なされた御業の一つ一つを思い起こしながら、まさにそこに込められた主イエスのこの上ない愛を、愛された者として書き綴って来ました。そしてそのイエス・キリストの愛の極み、クライマックスである十字架と復活の出来事を心震えるような思いで書き記したに違いない。しかもそれは単なる自分自身のための記録、思い出や記念のための記録という個人的なものではなく、これから主イエスを知り、信じていく人々、主イエスによって愛された多くの人々のために言葉を選び、考え込み、時には呻吟し、時には涙しながら、一番伝えたいことに向かって筆を進めて来たに違いない。そうやって書いてきた福音書の終わりに、彼はそのメッセージをあらためて一言で言い表そうとしているのです。
 そこで30節です。「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた」。ヨハネの福音書は「しるしの福音書」と呼ばれます。2章のカナの婚礼での奇跡を皮切りに、4章ではカペナウムでの王室の役人の息子のいやし、5章では38年も病に伏せていた人のいやし、9章では目の見えない人のいやし、そして11章のラザロをよみがえり。これらの出来事を通してイエス・キリスト御自身が、自らを神の子と証しするためのしるしを積み重ねて来られたことをヨハネは記して来たのです。ところがここに来て、実はまだ他にも主イエスは多くのしるしを行ったというのです。ではヨハネはなぜそれらのしるしのすべてを福音書に記さないのか。しるしが指し示す先にあるもの、主イエスが神の子、キリストであることを証しするもの、それが主イエスの十字架と復活の出来事でした。その出来事が実現した今や、私たちが見るべきはしるしではありません。私たちが見つめるべきお方は、今はこの目では見えないけれども、この復活の日曜の朝に、御言葉と聖霊によって私たちにはっきりと御自身の臨在を表していてくださる、十字架に死に三日目に復活されたよみがえりの主イエス。キリスト御自身なのです。
 
(2)聖書の目的
 そこで31節。「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」。ここでこの御言葉が語っているのは、単にヨハネ福音書の目的ということにとどまりません。それは聖書そのものの目的であり、主イエス・キリストが私たちのもとに来られたことの目的であり、十字架と復活の目的であり、そしてひいては愛する御子イエス・キリストを私たちにお与えくださった父なる神の目的そのものなのです。イエス・キリストを私たちを罪から救い、まことのいのちに生かす神の子、救い主と信じてほしい、そしてそのイエス・キリストが十字架に死に、三日目によみがえられて勝ち取ってくださったまことのいのちに生きてほしい。あなたに本物のいのちを生きるものとなってほしい。その愛の結晶がここに込められているのです。
 かつて神学校時代に説教演習で毎回問われたのは、「今日の説教で言いたいことを一言で言いなさい」ということでした。それは福音の把握に懸かってくるのです。私自身はかつては聖書を深く読み、それを見事に説き明かす説教をしたいという思いが強くありました。論理展開の巧みさや、聞き手があっと驚く結論を示したい、そんな憧れがあったのです。けれども牧師を二十年続けてきて、少しずつ変えられてきました。もっとストレートに、もっとシンプルに神の愛を語りたい。神の愛のありのままを届けたい。生きておられるキリストの愛をそのままに差し出したい。そのことを強く願うようになりました。特にこのことを強く考えさせられたのは、やはり人の死を看取る経験を重ねてきたことと関わりがあると思います。特に病床で信仰にお導きするという経験です。私たち夫婦は今月で結婚24年を迎えるのですが、結婚式の二日前がお葬式でした。初めて病床で信仰に導いた方が天に召され、前夜式まで司式をし、葬儀の準備をして後を主任牧師にお委ねして夜行列車で上京したのを思い出します。それ以来、病床で何を語るか。その一言にいのちが懸かっている場面で、くどくどとは話せません。私自身の福音の把握が問われ、信仰の確信が問われる。そこできっぱりと言い切れる一言の言葉。それがこの「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため」というメッセージなのです。
 イエス・キリストのいのちに生きてほしい。いのちがますます粗末にされていく時代にあって、私たちはこのメッセージに存在をかけて生きていきたい。そしてそのいのちに生かされていきたいのです。



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