2017年復活節記念主日朝拝説教   2017/04/16
『なぜ泣いているのですか』

ヨハネ福音書20:1-18

 主イエス・キリストのよみがえりを祝うイースターの朝を迎えました。死に打ち勝ってよみがえられた主イエスにあって心からの挨拶を申し上げます。イースターおめでとうございます。主のよみがえりの朝の出来事を記す御言葉に聴いて、今も生きておられる主の御臨在の前に進み出て参りましょう。お一人一人の主の祝福を祈ります。

(1)よみがえりの朝に
 受難週の一週間を過ごし、イースターの朝を迎えました。今年の受難週は朝には『日々のみことば』の聖書日課に基づいてヨハネ福音書の御言葉に聴き、夕べには先週お配りした『黙想と祈りの手引き』に基づいて、「ローズンゲン」の選んだ御言葉を味わいつつ過ごして来ました。金曜日の受難日祈祷会も、朝夕とも例年以上の方々が集われて、よき時となったことを感謝します。個人的には水曜日の夜から少し体調を崩し、木曜日は一日布団の中で過ごしたのですが、肉体の弱さを覚えながら、あらためて主イエスの十字架の御苦しみに思いを馳せる時となりました。
 明日の月曜日、中谷先生と一緒に盛岡を訪ねることにしています。昨年の4月に主の御許に召された熊谷誠兄のご両親のもとをお訪ねし、しばしの記念の時を持ちたいと願っています。熊谷さんのご両親とは、その後も時々にメールのやりとりなどを通しての繋がりが与えられていますが、この度、召天一年を記念してぜひ会いに行きたいとお伝えすると、とても喜んでくださいました。主イエスにある復活の望みと、それがもたらす上からの慰めをお届けする時になればと願っています。死の向こうに主イエスにある確かなよみがえりのいのちがある。これが私たちに与えられている確信です。主イエスはよみがえられた。そして主イエスは今も生きておられる。ここに私たちが立つべき拠り所があり、私たちの見つめるべき希望がある。ここにこの朝、私たちもしっかりと立ちたいと願うのです。
 この朝与えられているヨハネ福音書20章には、主イエスの受難の金曜日、墓の中での土曜日の後の、日曜日の朝の光景が描かれます。1節。「さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た」。ヨハネ福音書はこの後、主イエスの復活の出来事を記すに当たって繰り返し「週の初めの日」を強調します。私たちがこうして集う日曜の朝。それは主イエスのよみがえりの朝であり、よみがえられた主イエスとの出会いの朝なのです。
 しかし福音書は肝心の復活の主イエスのお姿を示す前に、空っぽの墓へと私たちの目を向けさせます。マグダラのマリヤが主イエスの葬られた墓にやってくると、横穴を掘った墓の入口をふさぐ石が取りのけてあった。そこで2節から10節。「それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。『だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。』そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。ふたりは一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロより早かったので,先に墓に着いた。そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして、見て、信じた。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った」。
 ここで私たちが目を留めたいのはこの言葉です。「そして、見て、信じた」。弟子が見て,信じたのは復活のキリストではなく、空っぽの墓ではないか、という声も聞こえてきそうです。でもそれでよいのだと聖書は言っているのです。彼は墓が空っぽなのを見て、ああ、墓は空だと信じた。それが何を意味するのかをはっきりと知り、理解し、信じたわけではない。でもそれでよしとしている。それが信じることの始まりだというのです。ここにはあるべきものがない。その空虚さの中に弟子はあるべきものの姿を見始めている。絶望の中に彼は希望を見始めているのです。

(2)主の御声を聴いて
 さらに場面はマグダラのマリヤと主イエスとの印象深い出会いの光景へと進みます。11節から16節。「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。彼らは彼女に言った。『なぜ泣いているのですか。』彼女は言った。『だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。』彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。イエスは彼女に言われた。『なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。』彼女は、それを園の管理人だと思って言った。『あなたが,あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。』イエスは彼女に言われた。『マリヤ。』彼女は振り向いて,ヘブル語で『ラボニ(すなわち,先生)』とイエスに言った」。
 涙に暮れるマリヤは御使いと言葉を交わしあい、そして振り向きざまによみがえられた主イエスのお姿を見る。ところが彼女はそれが主イエスだとわからず、園の管理人だと勘違いして、主イエスの亡骸の消息を尋ねるのです。けれどもここでも私たちが目を留めたいのはこのやりとりです。マリヤは主イエスに名前を呼ばれて、主イエスに応答する。姿を見てもわからなかった彼女が、主イエスの御声を聴いて「ラボニ」、「先生」と思わず呼びかける。「マリヤ」とその名前を呼ばれて復活のイエスだと分かる。それは主イエスとの人格的な交わりが回復させられたことのしるしです。ある注解者はここに、ヨハネ福音書10章の羊飼いと羊のたとえを思い起こし、羊飼いの声を聴き分けてついて行く主の弟子の姿があると教えています。またルカ福音書の復活の日の夕方、エマオの途上にあった二人の弟子が、主イエスがパンを割く姿を通して眼が開かれた姿を思い起こします。今日、主の晩餐を祝いますが、私たちもこの朝、主イエスのお姿に触れるのです。
 ともかくも、弟子たちにしてもマリヤにしても、一度で完璧な答えを出しているわけではない。迷いながら,疑いながら、不確かながら、それでも彼らは一生懸命見えないものを見て、一生懸命御声を聴いて、そして一生懸命に信じていく。それが復活の時に主の弟子たちが示した信仰の姿なのだということを覚えておきたいと思います。
 
(3)なぜ泣いているのか
 主イエスのよみがえりの朝、涙に暮れるマグダラのマリヤに、二人の御使いが、そして主イエスご自身が掛けられたお言葉がありました。それが今日の説教題でもある13節、「なぜ泣いているのですか」、そして15節。「なぜ泣いているのですか」です。この問いかけを聞いて、皆さんはどのように感じられるでしょうか。私はある種の違和感を覚えました。愛する主イエスが死んで葬られ、しかも墓に行ってみるとその亡骸がなくなっている。泣き悲しんで当然ではないか。「なぜ泣いているのか」などとなぜ問うのか、とむしろ問い返したくなるような言葉です。「見れば分かるでしょう」、「そのくらいの想像もつかないのですか」、「あなたは愛する者を喪う悲しみを知らないのですか」と。
 もしかすると、キリスト教信仰において復活を信じるということについて、このように感じている方がおられるかもしれません。クリスチャンは復活を信じるなどといって、死の痛みや悲しみを小さいこととしているのではないか。葬儀の際にも「死は別れではない」と言って、強がっているのではないかと。もっと言えば、私たち自身がそのように愛する者との死別の悲しみやつらさ、苦しさを思っていても、教会の中で口にしづらい、ということがあるかもしれない。「復活を信じる信仰」が十分に悲しむことや嘆くこと、悼むことを疎外してしまうということがあるのではないか、とさえ思うのです。しかし、聖書が語るよみがえりの信仰は、それが死の悲しみを先回りして封じてしまうようなものではありません。主イエスご自身のお姿を思い起こしてみても、主イエスは人の死に接するとき、悲しみを隠すことをなさいませんでした。ラザロが死んだときも、ナインのやもめの息子が死んだときも、むしろ感情を露わにされながら死を悼み、はらわたがねじ切れるほどに死を悲しまれたのです。
 にもかかわらず、ここで御使いも、そして主イエスご自身も、まるでマリヤの悲しみを顧みることがないかのようにして「なぜ泣いているのですか」とお尋ねになるのはなぜなのでしょうか。それは本当の死の悲しみを知っておられるのが、主イエスご自身であることによります。主イエスだけが本当の死を死なれたお方です。主イエスだけが私たちの罪の身代わりとなって父なる神に捨て、死んで葬られ、陰府にまで降るという、本当の死の恐怖、悲惨、悲しみを誰よりも深くその身に体験なさったお方です。その主イエスが、その死の力の及ぶ最後の所において、その死に対して勝利してくださった。それが復活という出来事です。今日のローズンゲンの御言葉、一コリント15章54節、55節が次のように言う通りです。「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか』」。
 こうして死に勝利され、今やよみがえられた主イエス・キリストだからこそ、なお死の前に佇むマリヤに、そして私たちに「なぜ泣いているのか」と問われる。それは、死の悲しみを知らない方の言葉ではない。誰よりも死の悲しみ、痛みをその身に味わってくださった主イエスだからこそ、そしてその死に打ち勝ってくださった主イエスだからこその言葉なのです。

(4)わたしにすがりついてはいけません
 最後に17節、18節。「イエスは彼女に言われた。『わたしにすがりついてはけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る」と告げなさい』。マグダラのマリヤは、行って、『私は主にお目にかかりました』と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた」。「わたしのすがりつくな」と主イエスは言われます。主イエス・キリストがよみがえられたということは、キリストがもはや私たちを屈服させる死の現実、私たちをいつまでも縛り付ける別れの悲しみの中に留まられることなく、死の現実、別れの悲しみから解き放たれていることを意味します。主イエスにすがりつくマリヤの姿。それはいつまでも死の現実の中にくずおれつづけ、佇み続ける私たちの姿です。別れの悲しみに捕らわれ続け、立ち上がることのできない私たちの姿です。けれども主イエスはそのような死の現実、悲しみの現実を振り払われる。そればかりでなくこうも言われるのです。「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る」。キリストのよみがえりは私たちと無関係な出来事ではない。いやむしろキリストのよみがえりは、私たちのための出来事なのです。
 この朝の礼拝で、5名の兄弟姉妹たちがこの教会に転入会なさいました。牧会役員会で試問をし、一足先にそれぞれのお証しをうかがいました。教会が大きなチャレンジをしているこの時に、その重荷をともに担うために加わってくださる仲間たちがいることを本当に感謝しました。皆さんそれぞれこの教会に加わるにあたっての経緯があるのですが、そこには教会を愛するがゆえの痛みを経験して来られたことを思います。しかしその痛みもまた復活の主のいのちがいやしてくださることを覚えます。主イエスの復活のいのちは私たちをも立ち上がらせ、生かすいのちです。主イエスにあって私たちもまたよみがえり、教会もまた復活する。どんな試み、悩み、痛み、悲しみ、不安、恐れ、困窮の中にあっても、それでも主イエスが死に打ち勝ってよみがえってくださったことにより、私たちもまたそのいのちに生かされている限り、決して「もうだめだ」ということはないのです。
 よみがえりの朝に、主イエスは私たちに希望を与えてくださる。そしてこの希望に生かしてくださる。主が私たちを振り払われることによって、私たちはこのいのちの中に解き放たれる。そこにあるまことの自由、まことの喜び、まことの勝利の中に私たちは今日から新しく生き始めるものでありたい。死を打ち破られた勝利の主イエス・キリストをいただいた教会、主のいのちに生かされた神の子どもたちの集まりとして、希望を指さし、心を高く挙げて、希望に生きる歩みを今日からまた進み出してまいりましょう。



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