復活節記念朝拝 2015/04/05
『復活の主と歩む』

ルカ24:1-35

2015年の復活節、イースターの朝を迎えました。私たちの罪のために十字架に死なれた主イエス・キリストが、三日目に死人の中からよみがえってくださり、私たちの罪の赦しと永遠のいのちの祝福を勝ち取ってくださったのです。この主の復活を喜び、互いに主にある挨拶を交わしましょう。
 また今日は宣教50年を迎える私たちの教会にとって、新たな歩みを踏み出す時ともなりました。長橋和彦伝道師をお迎えし、福音の宣教にさらに進んで行く今日からの歩みとさせていただきましょう。愛するお一人一人によみがえりの主イエス・キリストからの祝福が豊かにありますように。

(1)土曜日のキリストから日曜日のキリストへ
 2011年3月の東日本大震災が起こってから半年あまり経ったその年の10月、ようやく落ち着いてこの出来事について考え始められるようになった頃に、聖学院大学が主催する講演会を聴きに駒込に出かける機会がありました。牧師、神学者、聖書学者、精神科医という多彩な講師が、まだ起こって間もない震災について何かしらの言葉を得ようと懸命に語る姿は、誰もがこの出来事の前に言葉を探しているのだということを強く印象づけるものでした。講演会は、そこで大木英夫先生の「土曜日のキリスト」と題する講演を聴き、深く考えさせられました。大木先生はその講演の中で、スイスのバーゼル美術館に展示されている16世紀の画家ハンス・ホルバインの作品、「墓の中の死せるキリスト」という絵を紹介されました。文字通り、主イエスの亡骸が墓の中に横たえられているのですが、やせこけた身体、釘の傷跡が生々しい手と足、脇腹には兵士の槍に刺された傷があり、目はうっすらと半開き、体全体が次第に土色に変色し、死後硬直してこわばっている様子が描き出される、大変生々しい絵です。まさにそこにはキリストの圧倒的な死の現実が描き出されています。金曜日に十字架に掛けられたキリストは、その日のうちに息を引き取られ、そして墓に収められました。土曜日のキリスト、それは使徒信条の言葉で言うならば「死にて葬られ、陰府にくだり」という姿です。大木先生はこの「土曜日のキリスト」が、しかし死からいのちへの架け橋であるとその講演を結ばれました。
 後日、クリスチャン新聞から求められて、この日の講演の様子をレポートしました。その結びには次のように記しました。「十字架に死なれ、墓の中から日曜の朝によみがえられた主イエス・キリストの手足には釘の跡が、脇腹には槍の刺し傷が残されていたことは象徴的です。今回の出来事は天災、人災の複合的な事象であり、今なお先の展望を描くことすら難しいものです。この国に建てられた教会が、このような出来事の只中にあってなお希望を語ることができるとすれば、それは一切のことがあたかも起こらなかったかのように忘却の彼方に追いやる言葉ではなく、土曜日のキリストが、日曜日の朝に確かに御体をもってよみがえってくださったこと、しかもその栄光のお姿にはなお十字架の傷跡が残されていたこと、しかしその傷跡にこそ私たちの救いが印し付けられていること、このキリストが私たちのすべてのすべてとなってくださるということ、このキリストを語る言葉以外にはなく、このキリストのお姿を見つめるところからこそ真の信仰と教会の再建が始まるのだと思い定めています」。
 
(2)見つからない喜び
 墓の中に横たわった死せる土曜日のキリストは、しかし横たわったままのお方ではありません。土曜日のキリストは日曜日の朝を迎えられました。その朝こそ、よみがえりの朝、死からのよみがえりの朝、死への全き勝利の朝なのです。1節から7節。「週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。見ると、石が墓からわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった。そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう』」。
 愛する者の死を経験した者にとって意外なことと感じられることの一つに、それでも当たり前のように時間は過ぎて、変わらない日常が繰り広げられるという事実があるでしょう。そこには死という出来事によって大きな断絶が生じているはずなのに、それでも当たり前のように時間は過ぎ、日は巡り、まるでその死の事実を忘れようとし、その悲しみを紛らわせようとするかのごとくに人々はいそいそと立ち働くのです。ここでの女たちもまたそのような悲しむ人間の姿を表しています。みな無言で、それぞれがそれぞれの役割を淡々とこなすために出かけていくのです。そしてそれが淡々としていればいるほどに、彼女たちの心に溢れそうになるほどの悲しみがあることが私たちにも伝わってくるのです。ところが、そのような淡々とした静かな悲しみが一気に破られる時が訪れた。それは復活の朝の出来事でした。
 ここで私たちが目を留めたいのは、まばゆい衣を着た人の言葉です。「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」。
主イエスのからだが墓の中に見つからず途方に暮れる彼女たちに、それは当然ではないかと言わんばかりに、「いるわけないではないか。よみがえられたのだから」と答えられるのです。そしてこの人間にとってはあり得ない驚くべき出来事が、しかし神にとっては当然の出来事として現実に起こったところにキリスト教信仰の拠って立つ土台が固く据えられたのです。ルカ福音書が好んで用いるテーマの一つに「捜す、見つかる」という形式がありました。15章や19章がその代表例です。しかしこれまでのテーマが「捜す」「見つかる」であったのに対して、今日の箇所では「捜す」けれども「見つからない」、そして「ここにはおられない」となるのでした。これまでの箇所では捜して見つからないことはなかったのに、肝心のこの復活物語では捜すけれども見つからない、となってしまうのです。しかしここに大切な真理が隠されていることに注目しましょう。すなわち、これまでの15章や19章、その他の「捜す、見つかる」形式では、捜すのは神であり、捜されるのは失われた人間です。そしてやがてついに人は神によって発見され、見出され、そこには天における大いなる喜びが湧き上がるのでした。発見の喜びの物語です。ところが、今日の箇所では捜すのは人であり、捜されるのは主イエス・キリストです。けれども彼らはイエスを見つけることができない。なぜなら彼はよみがえられたからだ、というのです。つまり、神が人を捜すことにおいては見つかることが喜びなのですが、人が神を捜すことにおいては見つからないことが喜びなのだと言うのです。なぜなら、私たちの神は死せる者の神ではなく生きている者の神であり、私たちを生かすための永遠の命を賜る真の神であられるからであって、そのお方を死人の中に捜しても見出すことは出来ない。主イエスは「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と仰せになるお方なのです。

(3)御言葉の約束を思い起こせ
 さらにもう一つ目を留めたい言葉がこれです。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう」。そうです。確かに主は必ずよみがえると語っておられたのです。空っぽの墓を前にして女たちがすべきこと、それは主イエスの約束の御言葉を思い起こすことでした。8節。「女たちはイエスのみことばを思い出した」。彼女たちは思い出しました。思い起こしました。そればかりではありません。彼女たちはその約束を理解し、確信し、信頼し、そしてその確信を携えて弟子たちや多くの人々のもとへと赴いて行ったのです。9節から。「そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した」。この女性たちは主イエスの十字架の死を最後まで見届けた人々であり、また8章1節からを見ると、ずっと主イエスの付き従って来た弟子たちでした。それゆえに彼女たちはエルサレムを目指すあの主イエスの決意を間近に見て、そして主イエスの口から語られた受難と復活の予告の言葉を聞き、そしてその成就としての十字架を目の当たりにして悲しみに沈みかけていたその時、主イエスのよみがえりの約束の御言葉を思い起こしたのです。
 彼女たちだけではありません。13節から記されるエマオ途上の二人の弟子たちもまた同様でした。13節から16節。「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村へ行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」。彼らはエルサレムから離れてエマオへと向かう旅の途上にありました。彼らの心の中はもはや主は私たちとともにはおられない、ともに歩んではおられないという思いで覆い尽くされていました。しかしそんな二人のもとに復活された主イエスが近づいて行かれ、彼らとともに歩み始められるのですが、彼らは主イエスとは気づかない。そしてともに旅するこの人物に過ぎ去った過去の出来事として主の受難の様子と、この日の朝、墓が空っぽで、主イエスのお体がなかったという事実を語り聞かせるのが精一杯でした。彼らが主イエスだと分からなかった理由を、聖書は彼らの目が「さえぎられていた」からと説明します。それは肉体の目のことでなく、心の眼の問題、信仰の問題です。主の復活を知ることがなければ、私たちは希望に生きることができない。未来に向かって開かれて歩むことができない。いつまでも過去に縛られて、失望と落胆の中を歩むほかない。それは信仰の持つ希望や喜びとは対極的な姿です。
 25節から27節。「するとイエスは言われた。『ああ、愚かな人たち。預言者の言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。』それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事柄を彼らに説き明かされた」。さらに30節、31節。「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった」。ここには主イエスを信じる信仰についての大切な真理が語られています。御言葉が説き明かされ、パンが裂かれた時に、彼らの信仰の眼は開かれ、復活の主イエス・キリストをはっきりと見ることができたのです。

(4)復活の主と歩む
 御言葉の説き明かしとパン裂き。それは今日ここで私たちが行っている礼拝そのものの姿です。説教に続いて今朝も主の晩餐をともに祝いますが、まさしくこの礼拝において、私たちは復活の主イエス・キリストをはっきりと信仰の目をもって見、このお方と親しく交わることがゆるされる。これこそが礼拝において主の日毎に起こる最も大切な出来事なのです。彼らは決して劇的な体験をしたわけではありません。主イエスの口から淡々と語られる御言葉の説き明かしを聞き、主の手によって裂かれたパンに与ったときに、彼らははっきりと主イエスと相まみえることができたのです。こうして彼らの目が開かれた途端に、主イエスのお姿は彼らの前から消え去るのですが、しかしもはや彼らは主イエスの不在を嘆くことはない、絶望し、途方に暮れることもない。主はどこにおられるのかと訴えることもない。とぼとぼと失意の中を歩むこともない。今や彼らは立ち上がり、新しい歩みをはじめることになるのです。32節。「そこでふたりは話し合った。『道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか』」。主の語りかけを聞く時、聖書の説き明かしに聞く時、心がうちに燃える。これは本当に素晴らしい恵みの経験です。
御言葉を読む時、聞く時、説き明かす時、心がうちに燃える。聖霊の神が私たちのうちに御言葉とともに働いてくださる時、心がうちに燃え上がる。その証しとして、彼らはすぐさま立ち上がると、恐れを捨て、危険を顧みず、今さっきまで歩んできたばかりの道に立ち、再びにエルサレムに向かって歩き出すのです。時は真夜中。とても旅をする時間ではありません。しかし彼らのうちで燃え立つ心は、もはや彼らをエマオの村に留めることはできなかったのです。彼らはきびすを返して、今来た道、今、逃げるようにして下ってきた道を、今度は主の復活の証し人として歩き始めるのでした。彼らが歩み始めたエルサレムへの道、それは夜の暗闇の中ですが、しかし彼らの心は希望と喜びに溢れておりました。昼の光の中を歩んでいた時には失望と落胆の心であった彼らが、今や夜のとばりの中を希望と喜びに溢れて進んでいくのです。なぜならそこには復活の主が御言葉の約束においてともにいてくださるからなのです。復活の主イエスを信じて歩み始める道は、時には確かに夜の闇の中を一人孤独に進むような道であるかもしれません。しかしそこにおいても主がともにいてくださる。ともに歩んでくださる。終わりまで私たちを離れず、捨てず、時には私たちを背負うようにしてその道を歩ませてくださる。このイースターの朝、私たちもまた復活の主と相見えるこの礼拝において、御言葉の説教を通し、主の晩餐の礼典を通して、心燃やしていただき、復活の主とともに歩んでまいりましょう。



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