復活節記念主日朝拝 2012/04/08
『神は我らとともに』

ヨハネ黙示録21:1-8
 
 主イエス・キリストの復活を祝うイースターの朝を迎えました。主にあって心からの挨拶を申し上げます。イースターおめでとうございます。金曜日に私たちの罪のために十字架の上で身代わりの死を遂げてくださり、土曜日に墓の中で真の死を担ってくださったイエス・キリストは、三日目の朝、すなわち日曜日の朝に、墓の中からの死者の初穂としてよみがえってくださいました。私たちはこの朝、このよみがえられた主イエスのいのちに結ばれて、この場に集められています。
 イースターの朝、ヨハネ黙示録に記された天の御国の姿を通して、私たちに向けて今朝も語りかけられている神の確かな希望と慰め、励ましの御声をご一緒に聞いてまいりたいと思います。愛する兄弟姉妹の皆さんの上に、主の豊かな祝福がありますように。

(1)新しい天、新しい地、聖なる都
 1節、2節。「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た」。阪神の震災から二年後の1997年から2000年まで神戸に住んでおりました。神戸と言っても北区という、いわゆる港町の神戸から見ると六甲山を越えた山のむこうの町でしたが、最後の一年半、毎週日曜日に阪急六甲に近い教会に朝夕と通っていました。車で六甲山のトンネルを抜けると一気に目の前が開けて、海沿いに拡がる神戸の景色が広がるのですが、特に夕拝の時間は毎週のように綺麗な夜景を楽しんだものでした。震災から二年経ってもまだ町のあちこちに震災の傷跡が残っていて、近くにはいくつも仮設住宅が建ち並んでいた時でもありましたが、それでも二年前の全ての建物が崩れ落ち、焼け野原になったような町が少しずつ回復し、明かりを灯すようになった姿を見て、その輝きに励まされるような思いを抱いたことを思い起こします。
 長老ヨハネが見た幻はそのようなものとは全く比べることのできないものですが、それでも彼が遠くパトモス島で幽閉生活を送りながら、しかしその彼にこのような幻を見せてくださった神の励ましの心と、そして回りを見渡せば厳しい現実ばかりが取り囲むような日々の中にあって、それでもヨハネがこの都の姿を見せられたときに抱いたであろう言葉に言い表せないほどの感激、喜びを、私たちなりに少しならずとも想像しておきたいと思うのです。ヨハネが見たもの。それはいまだかつて誰も見たことがなく、聞いたこともない全く新しい光景でした。彼の目に飛び込んできた光景、それは新しい天と新しい地、そして花婿なるキリストの傍らに立つべく美しく飾られた花嫁、新しいエルサレムの姿でありました。昨年3月から教団の震災対策に関わるようになり、この4月からは組織が改組されて「震災復興支援本部」となって態勢を強化することになりました。私は事務局長という務めを仰せつかって引き続き働きに携わることになっています。しかし一つ私がひっかかるのはこの「復興」という言葉です。「復興とは何だろうか」。東北各地の被災地を訪ねた回数がもうすぐ30回を超えますが、行く先々で町の姿を見、あるいはそこに生活している方々、その方々に仕えておられる牧師たちの話しを聞かせていただきながら考えさせられていることです。果たして道路や鉄道が通ったら、家が建ったら、港が再開したら、町が綺麗に元通りになったら、それが復興ということなのだろうか。むしろ回復と更新こそが必要なことなのではないか。そんなことを考えさせられています。回復と更新。それはまさにヨハネが見た「新しい天と新しい地」、天から神の御手によってもたらされる新しい生、新しい価値、新しい人間の有り様ということなのではないか。今回の出来事を通して根本的に私たちの生き方が問われているはずなのに、いつのまにか私たちの回りはかつてと変わらない日常になり、いくつもの大事な問題がうやむやにされ、当たり前でない事柄があたかも当たり前であるかのように馴らされてしまっています。原発再稼働問題はその最たるものと言ってよいでしょう。震災以前であれば大問題になるはずの放射線量の高い地域に、今も子どもたちが生活しているのに、それが全く問題にならなくなってしまっている異常さに気づくべきです。
 私たちは新しくされなければならない。新しい人間にならなければならない。それはまさに上からもたらされるものです。こちら側からの努力や発展によって、ということではない。その限界を私たちは認め、わきまえなければならない。そうではなくて今こそ上からの神のもたらしてくださる新しい天と新しい地を認めて、神を神として生きる地平に立たなければならない。主が私たちに示してくださる新天新地の希望、救いの完成としての神の国の希望こそ、私たちの過去の経験や人間たちの思想の蓄積によって獲得されるものではなく、上から、神の恵みと自由の世界から私たちの方へ差し出されるものなのです。

(2)神の幕屋が人とともに
 さらにヨハネは新天新地を見るだけでなく、そこに大きな声を聞きます。3節、4節。「そのとき私は、御座から出る大きな声がこういうのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである』」。神の幕屋とは、生ける神ご自身が我らとともにいますことの何よりの証しです。新しい天と地とはどのようなところか。それは「神は我らとともにいます」というところです。神が我らとともにいますとはいかなる姿でしょうか。それは私たちが地上で経験するあらゆる悲しみの経験、苦しみの経験、涙の経験、そしてそれらの究極のものである死そのものがもはや過ぎ去り、主御自身が私たちの目の涙をすっかりぬぐってくださるところだと御言葉は語ります。神は我々が流す涙を否定しません。人生における悲しみの経験、叫びの経験、苦しみの経験、それがどれほど私たちの人生において大きな場所をしめるかを神はよくご存知でいてくださる。人生における苦難が位置づけられなければ、私たちは身の置き所を失うでしょう。むしろ苦難の只中に身を置くことなしには見出すことのできない神のあわれみ、神の慰め、神のいやし、神の救い、それらすべてを賜る神御自身のお姿があるのではないでしょうか。それは苦難を避け、苦難から逃げ去るだけの信仰ではなく、苦難の只中で生ける神を仰ぐ信仰と言えるかも知れません。「神よ、なぜ」と問わざるを得ないような出来事の只中で、神に怒りや嘆きや訴えの声を挙げるほかないような状況において、しかしその意味を悟ることができず、神の御心がまったく分からない中で、それでも主の御前に身を置くことをやめず、苦しみを苦しむこと、悲しみを悲しむこと、痛みを痛むこと、嘆きを嘆くこと、怒りを怒ること。それらが位置づけられる場所が私たちの信仰の世界の中に見出せないとすれば、私たちの信仰は実に底の浅いものとなってしまうように思います。
 むしろ私たちは苦難の只中に身を置くところで、まさにその極限のようなところで、十字架から復活への道を辿られた御子イエス・キリストと出会うことになるのではないでしょうか。御子の栄光のお姿は十字架の苦難をくぐり抜けてこその栄光のお姿であることを忘れてはならないように思います。それは決して容易いことではありませんが、しかし私たちの信仰の営みにとって必須の経験でもあるのだと思います。けれどもその苦難はずっと続く苦難ではない。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」。ここに私たちは私たちの涙をぬぐってくださる神の大いなる寄り添いを受け取ることができるのです。

(3)事は成就した
 こうしてついに天の御座に着く方、すなわち主なる神ご自身から万物の救いの完成を告げる勝利の宣言が高らかに響き渡ります。6節。「また言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である』」。ヨハネ自身がローマ帝国の迫害の中で愛する群れから引き離されて一人パトモスに島流しにされて幽閉の生活を送りながら、しかも主イエスとともに幻の中で巡り歩いたあのアジアの七つの教会も今もなお苦しい戦いを続けている。彼にとって見ればまさに自分自身といってよいほどの心にかけて来た愛する群れであり、兄弟姉妹たちであった諸教会が迫害の中で苦闘し、殉教の血を流していく姿、それでもなお偶像に膝を屈めず、死に至るまで主に忠実に従い抜こうとする姿、そのような地上に現れる敵との戦いの背後にあって繰り広げられる悪しき竜と獣たち、そして小羊との壮絶極まりない霊的な戦いの姿、夥しい血が流され、天と地がその基から揺り動かされ、突き崩されていくような終わりの時に大艱難の姿、しかしそれらのすべてが過ぎ去った後に残った一つの、そして確かな言葉、それが「事は成就した」との言葉であり、また「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である」との言葉だったのです。もはやこれ以上苦しめられることはない、これ以上殉教者の血が流されることもない、すべては成就したのだ。その言葉がどれほどヨハネを慰めただろうかと思います。
 しかしこのように「事が成就した」と語られた後に、なお主なる神が語られる言葉がありました。6節後半から8節。「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である」。終わりの終わりまで主なる神が語り続けられる言葉、それは救いへの招きの言葉であり、また裁きの言葉でありました。ここでも私たちは思い起こしておきたいと思います。主なる神が救いと裁きを同時に語られる時、そこでの重点はいつも前者に、すなわち「救いへの招き」にあるということです。救いを語る以上、裁きと滅びを語らなければならないのですが、しかし主のお心は絶えず私たちに対する救いへの招きにあるということを決して忘れてはなりません。ヨハネもまたこれらの言葉を聞いたとき、終わりの姿を見せられてなお、自分には果たすべき務めがある、しなければならない業があると思いを新たにしたに違いない。この幻を見たヨハネはその実現の時までの間、時の間を生きる者として、この招きの言葉を語り続けていく使命を受け取ったに違いないと思うのです。
 ヨハネだけではありません。ヨハネが書き記した黙示録を受け取って、それを読んだ後の時代の教会、いつも申し上げるようにその時代、使徒たちの手紙は教会の礼拝で公的に読み上げられました。つまり今日私たちがしているように、その手紙はまさに使徒たちからの説教として語られ、聞かれたのです。そうであればこの手紙を受け取った諸教会も、終わりの新天新地の姿、究極の神の御国の完成、救いの完成の姿を固唾を呑んで聴き続けながら、ここに来て、なお自分たちが果たすべき大切な使命があることを再確認したことでしょう。そうであればまた私たちも、その諸教会の歴史に連なる一つの群れとして、この使命をまたしっかりと受け取るものでありたいと願います。「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる」。このいのちの源なる主は、渇く人々をご自身のもとへと今朝も招いておられます。そしてこの方の元に来る人々には価なしに飲ませると約束していてくださいます。この招きの言葉を、私たちもまた声高らかに語り続けていきたいと願います。それが地上の教会の最もふさわしい天国の待ち望み方だと確信するのです。
 神は我らとともにいます。これ以上の確かな慰めはありません。このただ一つの確かな慰めの中に生きる幸いをぜひ覚えていただきたい。そしてこの慰めの中に生き、また死ぬことのできる幸いを覚えていただきたい。そしてその慰めを自らのものとするために、主イエス・キリストが差し出してくださっているいのちの水を受け取っていただきたい。価なしに飲ませると仰せくださるその水を飲み、渇くことのない永遠のいのちに至る歩みを、ぜひスタートしていただきたいと願います。



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