復活節記念夕拝  2009/04/12
『ガリラヤで会おう』

マタイ28:1-10

 主イエス・キリストのよみがえりを喜び祝う幸いなイースターの主の日が終わろうとしています。この夕べに、マタイ福音書28章の終わり、いわゆる大宣教命令に先立つ御言葉を通して、私たちによみがえりの希望に満ちた福音を宣べ伝えるようにと、その使命を託してくださる主のご期待について、ともに教えられていきたいと思います。

(1)よみがえりの朝に
主イエス・キリストが十字架に付けられてから三日目のよみがえりの朝に、その驚くべき出来事をまず最初に体験したのは女たちでありました。1節から7節。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。すると、御使いは女たちに言った。『恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました』」。主イエスは確かに十字架に付けられ、死んで葬られ、墓の中に収められた。三日目の明け方に女たちが墓に駆けつけてみると、主の御体はなく、御使いが「ここにはおられない」と告げたのです。その理由は「前から言っておられたように、よみがえられたから」なのだというのでした。この「前から言っておられた」は、単に主イエス・キリスト御自身の受難の予告を指すだけでなく、特にマタイ福音書においては旧約の預言の成就としての意味を持っている言い方です。つまり主イエス・キリストのよみがえりは、この時突発的に起こったのではなく、それは旧約以来の預言の成就であると聖書は語っているのです。
 さらに8節。「そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。すると、イエスが彼女たちに出会って、『おはよう。』と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。すると、イエスは言われた。『恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです』」。社会的な信用度から言えば、その証言の信憑性を疑われかねない女たちに、しかし主は復活の御体をもって現れてくださいました。しかし彼女たちこそが、紛れもない復活の証人となるに価する人々でありました。彼女たちは十字架の主イエス・キリストを最後まで見届け、空の墓を目の当たりにし、さらには復活の主の「おはよう」との御声を聴きました。そして近寄って御足を抱いてイエスを拝んだのです。これ以上ない確かな仕方で、この女たちは復活の主の証人となったのです。小さき者たちの中に神の国の真実を明らかにしてくださる主イエスの恵みと復活の喜びが、今この女たちに臨み、その彼女たちの喜びが今晩私たちのもとにまで届けられているのです。
 
(2)ガリラヤで会おう
 御使いが語り、そして復活の主御自身が語られた言葉の中で、今晩私たちの耳に残るのは「ガリラヤで会おう」という約束の言葉です。主の弟子たちは復活の主イエス・キリストと他ならぬガリラヤで会う、いや会わなければならないのです。もちろん他の福音書では復活の主の弟子達への顕現はエルサレムにおいてすでになされているのですが、とりわけマタイ福音書においては弟子達が復活の主とお会いするのはガリラヤなのでした。いったいそれはなぜなのか。いくつかの理由を考えることができるでしょう。まず第一に、主イエス・キリスト御自身にとってのガリラヤの意味です。それは神の国の福音宣教の開始の場所がガリラヤであったということです。ガリラヤから始められた神の国宣教が、主イエスの十字架と復活によって一つの区切りを迎え、再び今度は弟子たちを世界へと遣わされるにあたり、その開始の場所として選ばれたのがガリラヤであったということです。第二には弟子達にとってのガリラヤの意味です。すなわちそれは弟子達の召命の始まりのガリラヤでありました。あのガリラヤ湖の湖畔で主によって招かれて始まった弟子の道に、もう一度彼らを新しい献身の中に立たせるために、主は敢えて彼らをガリラヤに呼び集められたということです。いわば集め、遣わすためのガリラヤであったということです。そして第三には、それが私たちに対する救いのメッセージの語られる場所として相応しい意味を持っていたという、私たちにとってのガリラヤの意味です。マタイ4章のガリラヤ宣教の始まりをマタイはイザヤ書9章の預言との関連で理解しました。「ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、『ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。』この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』」。暗闇の中にあり、死の地と死の陰にすわっていたガリラヤに、主イエス・キリストによる救いの光がもたらされたこと、それが主イエスの神の国宣教の中心的なメッセージでありましたが、この約束の成就主イエス・キリストの十字架と復活をもってのことであることがここに至って証しされるのです。暗闇の中にある私たち、死の地と死の陰にすわるガリラヤに、まことの光が上るのは復活の主イエス・キリストの到来によってである。このメッセージを弟子達に鮮やかに伝えるために、敢えて主は彼らをガリラヤにお集めになられたのです。彼らがこれから後語る福音のメッセージがここにある。すなわち復活の主との出会いによってのみ、人は死の暗闇から解放され、いのちの光の中に歩むことができる。このことをもって彼らは遣わされて行かなくてはならないのです。
 そして第四に、それは世界宣教の広がりの中でのガリラヤということです。辺境のガリラヤから海を越え、ローマへ、そして地の果て、全世界へと拡がっていく福音。その福音のメッセージの中心こそが、この主イエス・キリストのよみがえりの事実なのです。私たちも今晩、新しく復活のメッセージを聞き、その福音を携えてここから再び遣わされていく者でありたいと願います。

 



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