復活節記念夕拝      2007/03/23
『眠った者の初穂』

I コリント15:12-22

 主イエス・キリストのよみがえりを喜び祝う幸いなイースターの主の日が終わろうとしています。朝の礼拝に引き続き、今晩も第一コリント15章の御言葉を通して、わたしたちに与えられている復活の信仰の確かさについて、ともに教えられていきたいと思います。

(1)宣教の実質、信仰の実質(v.12-19)
 火曜日から木曜日にかけて行われた教団総会の最終日の朝、教師の准允・按手と派遣礼拝に先立って、昨年天に召された二人の先生方、6月に召された遠藤嘉信先生と11月に召された本間進先生の追悼の時が持たれました。御遺族を代表して遠藤先生の実弟の勝信先生が本間先生の奥様の惠子先生がご挨拶に立たれましたが、お二人それぞれの言葉を聞きながら、伝道者としてその召命に応え、最後の最後まで主イエス・キリストの福音を証しすることに情熱を燃やし続けた先生方のお姿を思い、死に至るまで忠実に歩まれた信仰のよき模範の姿を心に焼き付けたことでした。それとともに私自身の心に深く刻まれたのは、主イエス・キリストにある復活の希望の確かさです。主イエス・キリストによって救われた者には、天の御国の約束とやがてのよみがえりの希望が与えられている。これ以上の慰めがないことを改めて教えられた次第です。
 この信仰の真髄ともいうべき復活の信仰については、この朝ご一緒に御言葉から聞いたのですが、しかしこの信仰の真髄が同時に信仰に導かれるにあたっての最大の躓きでもあることは確かです。主イエスの生涯も、その御業も、十字架も、それらの事実は受け入れ、認めることができたとしても、多くの人々はこの復活の事実の前ではしばし立ち止まってしまうのです。それは何も現代人だけの問題ではありません。主イエス・キリストの十字架の後、十数年の間にもすでにその事実を疑う声はあちこちに起こっていたのでしょう。そこで使徒パウロはこのコリント人への手紙において、キリストの復活の確かさと、キリストの復活によって約束されたキリストにある者たちの復活の希望について語っているのです。12節から19節。「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です」。つまりもし復活がなかったら、それこそ「私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるので」あり、「それどころか、私たちは神について偽証をした者ということにな」ってしまうのであって、地上に残された者たちはただ悲しみに暮れるばかりとなり、また誰もが死の陰に怯えながら生きるほかなくなってしまうでしょう。

(2)眠った者の初穂(v.20-21)
 さらに、もし復活の出来事が人間の常識にそぐわないからといって、これをキリスト教信仰の中から取り去ってしまったらどうでしょうか。主イエスの隣人愛の教え、高い倫理道徳観、自己犠牲的な博愛の精神という、それはそれで確かに人間に必要で有益な教えは語れるかも知れません。けれどもそこでは一番決定的なことが失われています。すなわちそれこそが死に打ち勝つ復活の信仰、永遠のいのちの希望です。これがなければキリスト教信仰はもはやキリスト教信仰でなくなってしまう。それこそ何の意味も持たないものになってしまうのです。しかし私たちが今晩あらためてしっかりと心に刻みつけておきたいのは次のパウロの確信に満ちた言葉です。20節、21節。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです」。
 「今やキリストは死者の中からよみがえられた」。この宣言ともいうべき言葉を、そのまま自らの信仰の告白として言い表すことができることほど幸いなことはありません。パウロは12節からの議論で「もしも復活がなかったら」、「もしもキリストがよみがえらなかったのなら」とくり返し仮定の言葉を綴りました。私たちの「もしも」は「そうでなかったら」という不確かさを含むものですが、聖書の「もしも」は実に確かな事実を際立たせるための反語的な表現です。つまりこれらの「もしも」は、歴史に「もしも」はない、と言われるように、あり得ない「もしも」、仮定すること自体が本来ナンセンスともいうべき「もしも」です。つまり「本当はキリストの復活がなかったなどということはあり得ない。キリストは確かによみがえられたのだが、それでももし仮に復活がなかったとするならば・・・」ということなのであって、パウロが最初から最も確かなこととして力を込めて言いたかった言葉こそが、この「今やキリストは死者の中からよみがえられた」、今や、確かに、事実として、現実として、主はよみがえられた、という高らかな宣言です。 しかもここには単に主イエスの復活の確かさだけが言われているのではない。キリストは、「眠った者の初穂として」よみがえられたと言われます。つまりキリストの復活は、私たちの復活、すでに先に天に召されたあの人この人、あの先生この先生、そういった数多くの信仰の先達たちの復活の初穂なのです。これは何と深い慰めに満ちた言葉でしょうか。主イエスのよみがえりは私たちの復活の初穂である。やがて時が来れば主イエスにあるすべての穂が実りを迎え、復活の朝を迎えることができる。その先駆けとして、今日私たちはともにイースターを祝うことが許されたのであって、やがての時にはすべての聖徒たちとともに復活の主の御前にともにあることが許される。この希望こそが私たちの信仰の真髄なのです。この信仰の生かされて、私たちもまたよみがえりの朝を待ち望みつつ、明日からまたそれぞれの持ち場にあって、主の業に励む者でありたいと願います。

 



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