復活節記念礼拝   2008/03/23
『復活の福音』

I コリント15:1-11

2008年のイースター、主イエス・キリストのよみがえりを祝う喜びの朝を迎えました。主の復活を喜び、主にあって心からの挨拶を互いに交わしたいと思います。イースターおめでとうございます。この喜びの朝、私たちの前に開かれております御言葉はコリント人への手紙第一15章の御言葉です。この御言葉は主イエス・キリストのよみがえりの確かさと、キリストのよみがえりにあずかる私たちのよみがえりの希望を教える大切な箇所です。そこで今日はこの朝の礼拝と夕の礼拝でこれらの御言葉から教えられていきたいと思います。

(1)あなたがたが受け入れ、よって立っている福音(v.1-2)
 春を迎え、あちこちから喜びの知らせを聞く機会が多くあります。新しいいのちの誕生、新しい進路の決定、長年の祈りが聞かれた感謝、そこまでの歩みが忍耐の連続、試練の連続であればあるほど、堅いつぼみがほころんで一気に花開くように、また堅い土に覆われていた中から新しい新芽が芽吹くように、そこには弾けるような喜びが溢れ出てきます。そしてその喜びを知った人、喜びの只中にある人は、一刻でも早くその喜びを誰かに伝えたいと思う。そして喜びの知らせを携えて走り出す。こうしてひとりの人の喜びは周りの人々へと伝えられていき、喜びの輪が広がっていくのです。しかし何と言っても教会にとっての最大の喜びは、新しく主によって救われる人が起こされること、洗礼の恵みにあずかられることです。今日、私たちは一人の姉妹の洗礼式を執り行おうとしておりますが、教会にとってこれにまさる喜びはありません。そして主のよみがえりを祝うイースターに、主にある新しいいのちの誕生の喜びが与えられることは、教会への主からの最大のプレゼントであると言うことができるでしょう。
 今日開かれているIコリントの御言葉は、まさしくそのような喜びが伝えられ、広げられていく様を描き出すところなのです。1節、2節をお読みします。「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです」。ここにはくり返しくり返し「福音」という言葉が出てきます。福音とは「よい知らせ」、「喜びの知らせ」という意味ですが、この言葉のもとになったのは、勝利の知らせを伝える伝令の姿です。ちょうど夏のオリンピックに向けて各競技の選手選考が活発になっていますが、マラソン競技の始まりを思い起こしていただくとよいかも知れません。最前線で敵に勝利した知らせを一刻も早く本国に伝えるために、伝令は昼夜を分かたず走り続け、その喜びの知らせを送り届ける。この姿を思い描きながら聖書は「福音」とはまさにそのような人々に届けられるべき一番の喜びであることを私たちに伝えているのです。では私たちのもとに送り届けられる一番の福音、一番のよき知らせとはいったいどのようなものでしょうか。それが今からおよそ二千年前のイースターの朝に起こった出来事でした。ルカ福音書24章1節から12節をお開きください。そこにイースターの朝の様子が記されています。「週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。見ると、石が墓からわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった。そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。』女たちはイエスのみことばを思い出した。そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った」。この主イエス・キリストのよみがえりの出来事。これこそがパウロが受け、宣べ伝え、そこに堅く立つようにと願ってやまない福音。私たちのもとに送り届けられた喜びの知らせなのです。

(2)主イエスの死、葬り、復活、顕現(v.3-8)
 パウロはさらに続けてこう語ります。3節から8節。「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも現れてくださいました」。
 ここには聖書の語る福音の教えのエッセンスが実に端的に語られています。いったい聖書はこれだけの言葉を連ねていったい何を私たちに知らせようとしているのか。キリスト教信仰とは結局のところ何を語っているのか。パウロはそのような問いに答えるかのようにして、要するに聖書が教えている福音、私たちが信じ、受け入れるべき教えとはこれこれこういうことなのですよ、ということをここで短く、しかしはっきりと言い表しているのです。つまり、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたこと」、「この福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われる」。これが聖書の教える信仰の中身だということなのです。ここで大切なのは、キリストの十字架の死、葬り、三日目の復活、十二弟子に現れたこと。これらが単に歴史において起こった出来事だと信じるということではありません。もちろんそれらは疑うことのできない事実でありますし、それを信じることは大切なことなのですが、しかしより重要なことは、これらの主イエス・キリストのなされれた御業が他の誰でもない「私たちの罪のため」であったこと、いやもっと言えばほかならぬこの私のためであったと信じ、受け入れることなのです。
 しかし考えてみますと、主イエスの十字架の出来事、葬りの出来事を信じ受け入れることはできても、一番の躓きとなるのはやはり主イエスの復活の出来事ではないでしょうか。
しかしその一番の躓きとなる主イエス・キリストの復活が実は一番私たちの人生と深く分かちがたく結び合うものでもあるのです。なぜなら主イエスのよみがえりは、私たちの人生の最大の問題である死に対する最終的な解決を与えるものであるからなのです。このことをハイデルベルク信仰問答の第45問を手引きに学んでおきたいと思います。「問:キリストの『よみがえり』は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。答:第一に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、御自身の死によってわたしたちのために獲得された義にわたしたちをあずからせてくださる、ということ。第二に、その御力によってわたしたちも今や新しいいのちに生き返らされている、ということ。第三に、わたしたちにとって、キリストのよみがえりはわたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である、ということです」。
 ここでハイデルベルク信仰問答は復活が私たちに与える益を「すでになされたこと」、「今なされていること」、「これからなされること」、すなわち過去、現在、未来を貫くものとして教えています。第一の「すでになされたこと」とは、主イエス・キリストの十字架の死と復活による贖いの御業によって、すでに主イエスを信じる者たちが決定的かつ一回的に義と認められているということであり、第二の「今なされていること」とは、主イエスによって義と認められた私たちが今すでに主イエス・キリストにあって永遠の命の祝福の中に生かされているということであり、そして第三の「これからなされること」とはキリストの復活がやがての時に迎える私たちの復活の保証であり、初穂であるということです。ここにおいて主イエスのよみがえりは私たちを明日へと生かしめる希望となり、力となります。希望とは何か遠い先の事柄ではなく、むしろ確かな約束に基づいた、日々を生きる力、日常的で具体的な力です。その力に生きることができるところに、復活の信仰の最大の益があるといえるのです。

(3)神の恵みによって(v. 9-11)
 このように聖書の教える復活の信仰は、私たちの人生の遠く先の事柄についての希望の教えということに留まらず、その希望によって今の私たちを支え、死の恐れを乗り越えてまことのいのちに生きる人生の幸いに私たちを招くものです。9節から11節。「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです」。このパウロの告白をこの朝、しっかりと心に留めたいのです。彼は言います。「神の恵みによって、私は今の私になりました」。かつてのパウロ、キリスト教徒を迫害し、死にまで追い込んでいったパウロ、自分こそは律法を完璧に守り、その行いによって自分の救いを獲得していたパウロ。けれども彼をそのような人生に駆り立てていた一つの動機はやはり死への恐れだったのではないかと思います。それを遠ざけ、振り払うために懸命になって生きるパウロ。しかしその人生には本当の平安はなく、本当の確かさもなく、また本当の希望もなかった。しかし、そんな人生の途上で主イエス・キリストに出会い、その十字架と復活の福音を自らが聞き、受け入れたとき、彼の人生は全く新しくされ、そしてその福音に生きる者となった。その時、彼は、死を超えたのです。そしてそこで彼が言い得た言葉が「私は神の恵みによって今の私になった」というこの言葉であったのです。そういう人生がある。そういういのちの輝き方があると言うことをぜひこの朝、ここに集われたお一人一人にしっかりと受け取っていただきたいと切に願います。
 本当に私の人生を私の人生として生かすもの、私のいのちを私のいのちとして輝かせるもの。死の恐れを超えて、永遠のいのちの希望に生かすもの。それがこの復活の福音なのです。ぜひこの福音を信じ、受け入れて、まことの希望に生きる人生を、死の恐れを超えて生きる人生を歩み出していただきたいと願います。

 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.