復活節記念夕拝    2007/04/08
『信じる者になる』

ヨハネ福音書20:19-31

 主イエス・キリストのよみがえりを喜び祝うイースターの主の日が終わろうとしています。朝にはルカ福音書を通して、復活の主によって心の目が開かれていく弟子たちの姿から学びましたが、この夕にはヨハネ福音書に記されたトマスの姿を通して、復活の主イエスを信じる者になる幸いについてご一緒に学びたいと思います。

(1)復活の夕べに(v.19-23)
 19節、20節。「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ」。主のよみがえりの朝から始まった日曜日の一日が終わろうとした矢先のことです。マグダラのマリヤから「私は主にお目にかかりました」との言葉を聞き、復活の主とのやりとりについての知らせを聞いたものの、なお半信半疑であったであろう弟子たちのもとに復活の主御自身が現れてくださいました。三年半付き従ってきた主を失い、生きる希望をなくしてしまった彼ら、しかも自分たちの置かれている現実の深刻さから来る不安、明日からの生活に対する恐れ、そんな思いを抱え込んで部屋に閉じこもっていた弟子たちの真ん中に、「平安があるように」、「シャローム」と復活の主が立ってくださったのです。それは霊や幻ではありません。確かに手には釘の、わきには槍の傷跡が生々しく残る主イエス御自身であられます。よみがえりの主は私たちにあらゆる人生の不安や恐れ、悲しみや涙に対する根本的な解決をもたらし、まことの平安と喜びをもたらしてくださるお方です。しかも主は彼らに「聖霊を受けよ」と息を吹きかけ、「父がわたしを遣わしたように、私もあなたがたを遣わします」と彼らに新しい使命を与えてくださいました。復活の日の夕べに起こったこと。それは弟子たちの新しい人生の始まりであったのです。

(2)トマスの疑い(v.24-27)
 しかし、このような素晴らしい復活の主との交わりの席に加わっていない弟子がおりました。一人は主イエスを裏切ったイスカリオテのユダ、そしてもう一人の人物が今日の主人公トマスです。24節、25節。「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に『私たちは主を見た』と言った。しかし、トマスは彼らに『私は、その手に釘の跡を見、その指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。』と言った」。トマスという人物は私たち現代人と通じるところがあるように思えます。自分の目で確かめなければ気が済まない。そうでないものは信じられない。何でも疑い、ついには神さえも疑ってかかる人間の姿です。あるいは他の弟子たちが口々に「私達は主を見た」と喜ぶ中で、自分一人出遅れてしまい、その輪の中に入っていけない寂しさが彼を余計に頑なにしてしまっているのかも知れません。しかしそういう疑いとともにここには彼自身の真剣さ、自分の目で復活のイエスを確かめてみたいという彼の真実な態度が表われているようにも思えます。つまりここでのトマスの態度は彼の真剣な誠実な求道の姿勢とも言うことができるのではないかと思うのです。
 しかしそんなトマスにもはっきりと答えが与えられる時がやって来ました。26節。「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って『平安があなたがたにあるように。』と言われた」。主は復活の日曜から一周間後、前の時と全く同じ状況で弟子たちに現れ、しかも今回は特にトマスに出会うために現れてくださったようです。主はトマスに向かって語りかけられます。27節。「それからトマスに言われた。『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい』」。まるで主イエスは一週間前のトマスの言葉をそばで聞いていたかのように彼の疑いを一つ一つ明らかにして行かれます。そしてついには「決して信じません」と言い切ったトマスに対して、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と信仰への招きをされたのです。その生々しい釘で刺し通された手足の傷痕、槍で刺された脇腹を目の当りにして、復活というその圧倒的な事実の前に「信じる者になりなさい」とトマスは招かれたのでした。ここまで来てトマスは一体どうしたのでしょうか。

(3)信じる者になる(v.28-31)
 28節。「トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神』」。トマスの真実な信仰告白です。主イエスの復活の姿を目の当たりにし、その圧倒的な臨在に触れて彼は「私の主、私の神」と告白したのです。これに対して主は言われます。29節。「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです』」。これは一読すると見て信じたトマスを責めるような言葉に聞こえますが、よく読むとそうでないことが分かってきます。主はトマスを不信仰者と責めてはおられません。主はここで見て信じる信仰と見ないで信じる信仰を比較して、見ないで信じる信仰の方が優れているとは言ってはおられないのです。確かにここで復活の主を見ないで信じた人は一人もいません。先の10人の弟子たちも主を見て信じたのであり、トマスも同じく主を見て信じたのです。そもそも主はトマスに「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われたのであって「見て信じる者になるな、見ずに信じる者になれ」とは言われていないのです。
 つまり今日の御言葉の一番のポイントは、見て信じることと見ないで信じることの信仰の比較ではなく、ともかくどんな方法であってでも主を信じることが幸いなのだということです。よく「神がいるなら見せてみろ」、「見えない神を信じるなんてばかげている」と言う言葉を耳にします。科学主義、実証主義の世界の中で見えない神を信じ、復活を信じることほどばかげた話しはないかも知れません。けれどもよみがえられた主は今晩私たちにもまた「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と招いておられるのです。ではどうすれば弟子たちのように、またトマスのように主を信じる者となることができるのか。今、私たちにはっきりと復活の主イエス・キリストのお姿を示していてくれるもの。それが聖書の御言葉なのです。30節、31節を最後に読みましょう。「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」。このように今は私たちもこの目で主イエスのお姿を見ることはできませんが、しかしこの聖書の御言葉を通して主イエスが神の子キリストであられることを知ることができ、またこの方を信じてまことのいのちを得ることができるのです。これがイースターのもたらす大いなる祝福です。さらに私たちが毎週日曜毎にささげる礼拝こそが、よみがえられた主イエスとお会いする時なのです。御言葉の説教を聴き、聖礼典に与る時、聖霊の神の恵みによって生ける主イエス・キリストがここに臨在してくださる。それがこそが礼拝の祝福です。まだ主イエスを信じられない方も、この礼拝の場が主イエスとの出会いの場であることを覚えていただきたい。そして聖書の御言葉を通して主イエスが御自身のうちにあるいのちと救いを私たちに与えてくださることを覚えていただきたいのです。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。これこそがよみがえらえた主の私たちに対する御心なのです。

 



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