復活節記念礼拝   2007/04/08
『心うちに燃えて』

ルカ福音書24:13-35

主イエス・キリストの復活を喜び、主にあってご挨拶をいたします。イースターおめでとうございます。この喜びの朝、私たちの前に開かれております御言葉はルカ福音書24章のエマオ途上での2人の弟子と復活の主イエス・キリストの出会いの場面です。この場面は古くから聖書の中で最も美しいストーリーの一つと言われてきたところですが、今朝はこの復活の日の出来事を通して、復活の主とともに歩む人生の幸いについて御言葉から教えられたいと願います。

(1)エマオ途上にて(v.13-24)
13節から16節。「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村へ行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」。
 名もないクリスチャンが記したと言われ、私たちもよく賛美で歌う「フットプリンツ」、「足跡」という詩があります。「ある夜、私は夢を見た。私は主とともに浜辺を歩いていた。暗い夜空にこれまでの私の人生が映し出された。どの光景にも砂の上に二人の足跡が残されていた。一つは私の足跡、もう一つは主の足跡であった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上の足跡に目を留めた。そこには一つの足跡しかなかった。私の人生で一番辛く悲しい時だった。この事がいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。『主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛い時、一人の足跡しかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか私にはわかりません』。主はささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしはあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや苦しみや試みの時に、足跡が一つだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていたのだ』」。先日ある説教に関する論集を読んでいて、この詩についての活発な議論を目にしました。そこではこの詩の中には悔い改めがないではないかという指摘や、苦難の中で主がともにいてくださらないと感じることなど信仰者にはありえないという指摘、あまりにセンチメンタリズムに過ぎるという指摘など刺激的な言葉が多くあり、おおむねこの詩に対して批判的な意見が多くありました。確かに感傷的に過ぎるきらいがないわけではない詩ですが、しかしこれを読むときに私自身は素朴な思いで、「ああ、主が私とともにいてくださるのだ」ということをありがたく思うのです。そしてこの詩を読む度に思い起こすのが、今日開かれているエマオ途上の旅人の姿なのです。
  私たちの人生においても、時にこのようなエマオへの道を歩まされることがあります。深い悲しみを抱いて、顔を上げることもできず、話しをすることもできず、ただ疲れ果ててとぼとぼと肩を落として歩むほかない、そんな旅路があるのです。しかしそんな絶望と失意と孤独の道を歩む信仰者の傍らに歩み寄ってくださり、ともに歩んでくださるお方がおられると聖書は語ります。復活の主を信じる幸いはまさにここにあると言えるのです。 ここに登場するふたりの旅人は主イエスの弟子です。主がともにおられない経験があるとするならば、まさしく彼らこそがその最も深い経験をした人々であったと言えるのではないでしょうか。その日、彼らはエルサレムから離れてエマオへと向かう旅の途上にありました。旅の目的は、おそらく主の弟子としての歩みに終止符を打って故郷に帰るためか、主の弟子であるゆえに迫り来る危険を逃れるためであったことでしょう。いずれにせよ失望と落胆の中、重い足取りで無言のまま旅を続けたのだと思います。彼らの心の中はもはや主は私たちとともにはおられない、ともに歩んではおられない、という思いで覆い尽くされていました。しかしそんな二人のもとに復活された主イエスが近づいて行かれ、彼らとともに歩み始められたと聖書は記します。それでも彼らはこの方は主イエスとは気づかない。そしてともに旅するこの人物に過ぎ去った過去の出来事として主の受難の様子と、この日の朝、墓が空っぽで、主イエスのお体がなかったという事実を語り聞かせるのが精一杯でした。彼らが主イエスだと分からなかった理由を、聖書は彼らの目が「さえぎられていた」からと説明します。それは肉体の目のことでなく、心の眼の問題、信仰の問題です。主の復活を知ることがなければ、私たちは希望に生きることができない。未来に向かって開かれて歩むことができない。いつまでも過去に縛られて、失望と落胆の中を歩むほかない。それは信仰の持つ希望や喜びとは対極的な姿です。

(2)説き明かされるキリスト(v.25-27)
 しかし主はそのような彼らに語りかけられます。25節、26節。「するとイエスは言われた。『ああ、愚かな人たち。預言者の言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか』」。一読すると大変厳し主イエスの御言葉のように聞こえますが、その一方で少々ほっとする思いにもなります。主の弟子たちでさえ復活をすぐには信じられなかった。実はこの日の朝の弟子たちの中にもそういう人々はおりましたし、今晩夕拝で読むヨハネ福音書20章の疑い深いトマスもそうでした。誰もすんなり主の復活を信じられたわけではなかった。このことに少し安心するというか、ほっとする思いがするのです。救いを求めて御言葉に聞き続けていく中で、いわば最後の難関といってよいのが主の復活を信じるということではないかと思います。今日の「牧師室だより」にも書きましたが、復活などという荒唐無稽なことさえ言わなければ、他のことについては信じることにやぶさかでない。でも死人の復活を信じるなどとてもできない、と立ち止まってしまうことがあるのではないでしょうか。でも、それはそれでよいし、またそれはある意味で至極当然のことだと思うのです。そうすんなり信じられることではない。復活の信仰とはそれぐらい私たちの常識を超えた事柄です。しかし、ではそれをパスしていっていいかというと決してそうではない。復活なしの福音はないし、復活なしの救いもないのです。ではどうすればいいのか。その一番の秘訣を主イエスご自身が示してくださっています。27節。「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事柄を彼らに説き明かされた」。
 先週のガラテヤ書の説教でも学んだことがここでも繰り返されています。要するに聖書の御言葉に聞くのだということです。復活を信じられない弟子たちに主イエスは何度も現れてくださいましたし、今ここでも復活の主に気づかない心の目の閉じたままの彼らに懇切丁寧に聖書全体のなかでご自身について説き明かしてくださった、説教してくださったというのです。分からないならだめ、ということではない。主イエスは心が鈍く、頑なで信じることのできない私たちに何度でも何度でも御言葉を通して語りかけてくださる。信じるようになるために語りかけてくださるのです。しかもここで大切なのはいつも申し上げることですが、「聖書全体の中で」という一文です。ここで「聖書」と言われるのは旧約聖書のことですが、実際に旧約聖書を開いても、そこに主イエスが直接登場してくるわけではない。けれども主イエスが聖書の全体からご自分を説き明かされたという時、そこでは聖書の中心、聖書の主人公はイエス・キリストご自身だということがはっきりと示されているのであって、御言葉の説教はなによりもこのキリストを説き明かすことだということがわかるのです。そして聖書全体の説き明かしによって明らかにされたのは、「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか」ということでした。聖書全体が語り指し示すメシヤ、救い主キリストとは、苦しみを経て栄光に至る救い主、私たちの罪を贖うために身代わりとして十字架に死に、そして三日目に復活されたお方、罪の赦しの権威をもつ救い主、贖い主としての主イエス・キリストご自身にほかなりません。聖書の全体が証しする主イエス・キリストに聴き、聖書の説き明かしを通して主イエス・キリストと出会う。これが聖書の目的なのです。

(3)心うちに燃えて(v. 28-35)
 さて、やがて一行は目的地エマオに到着します。28節、29節。「彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先に行きそうなご様子であった。それで、彼らが、『いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。』といって無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた」。そして彼らは夕食の食卓に着くと、そこでついに彼らの閉ざされていた心の眼が開かれる時を迎えることになるのです。30節。31節。「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった」。ここには主イエスを信じる信仰についての大切な真理が語られています。御言葉が説き明かされ、パンが裂かれた時に、彼らの信仰の眼は開かれ、復活の主イエス・キリストをはっきりと見ることができたのです。御言葉の説き明かしとパン裂き。それは今日ここで私たちが行っている礼拝そのものの姿です。説教に続いて今朝も主の晩餐をともに祝いますが、まさしくこの礼拝において、私たちは復活の主イエス・キリストをはっきりと信仰の目をもって見、このお方と親しく交わることがゆるされる。これこそが礼拝において主の日毎に起こる最も大切な出来事なのです。彼らは決して劇的な体験をしたわけではありません。主イエスの口から淡々と語られる御言葉の説き明かしを聞き、主の手によって裂かれたパンに与ったときに、彼らははっきりと主イエスと相まみえることができたのです。こうして彼らの目が開かれた途端に、主イエスのお姿は彼らの前から消え去るのですが、しかしもはや彼らは主イエスの不在を嘆くことはない、絶望し、途方に暮れることもない。主はどこにおられるのかと訴えることもない。とぼとぼと失意の中を歩むこともない。今や彼らは立ち上がり、新しい歩みをはじめることになるのです。32節。「そこでふたりは話し合った。『道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか』」。主の語りかけを聞く時、聖書の説き明かしに聞く時、心がうちに燃える。これは本当に素晴らしい恵みの経験です。
先週火曜日の夜、新狭山福音教会に4月から新たにお出でになった折戸先生の牧師就任式に出席しました。この教会はいろいろな事情で今は信徒がほとんどおられなくなってしまい、同じ宣教区の牧師たちで先生の就任をお祝いしようと言うことで駆けつけたのでした。ある意味でゼロから開拓以上の教会を生き返らせていくという大変な御労を担われることになりました。先生はもうじき七十歳を迎えられる大ベテランの牧師で、長年にわたり安城の教会で牧会され、教団の理事として奉仕してこられた先生です。しかし私が知る限りでも多くの試練を通ってこられた先生でもあります。私とほぼ同世代の息子さんが以前に交通事故に遭われ、重い障害が残っておられます。またつい先年には奥様を天に送られたばかりです。実際には引退も考えられたという先生がそれでも敢えてこの困難な働きに改めてご自身を献げていかれようとする姿に深く教えられたのですが、特に就任式のご挨拶の中で語られた言葉が心に強く残りました。先生ご自身も確かに引退を考えないわけではなかった。しかし、自分の心にあったのは聖書を語りたいというその一心だったというのです。聖書の御言葉を説き明かしたい、一人でも多くの方に主の福音の言葉を聞かせたい、そういう思いが心の中で燃えて燃えて、その情熱を抑えることができなかった。だからいろいろなことは若い時のようにできないけれど、残された生涯、主の御言葉を語ることに専心したいと仰られたのです。御言葉を読む時、聞く時、説き明かす時、心がうちに燃える。無理矢理に心を鼓舞したり、感情をあおり立てたり、センチメンタルをかき立てることはない。聖霊の神が私たちのうちに御言葉とともに働いてくださる時、心がうちに燃え上がる。それはばっと燃え上がってすぐに消えてしまうような炎ではなく、静かに、しかし消えることなく燃え続ける信仰の炎です。しかしまたその炎はその人のうちに燃え上がり、その人を新しい人生に生かしめる炎です。
 その証しとして、彼らはすぐさま立ち上がると、恐れを捨て、危険を顧みず、今さっきまで歩んできたばかりの道に立ち、再びにエルサレムに向かって歩き出すのです。時は真夜中。とても旅をする時間ではありません。しかし彼らのうちで燃え立つ心は、もはや彼らをエマオの村に留めることはできなかったのです。彼らはきびすを返して、今来た道、今、逃げるようにして下ってきた道を、今度は主の復活の証し人として歩き始めるのでした。彼らが歩み始めたエルサレムへの道、それは夜の暗闇の中ですが、しかし彼らの心は希望と喜びに溢れておりました。昼の光の中を歩んでいた時には失望と落胆の心であった彼らが、今や夜のとばりの中を希望と喜びに溢れて進んでいくのです。なぜならそこには復活の主が御言葉の約束においてともにいてくださるからなのです。復活の主イエスを信じて歩み始める道は、時には確かに夜の闇の中を一人孤独に進むような道であるかもしれません。しかしそこにおいても主がともにいてくださる。ともに歩んでくださる。終わりまで私たちを離れず、捨てず、時には私たちを背負うようにしてその道を歩ませてくださる。このイースターの朝、私たちもまた復活の主と相見えるこの礼拝において、御言葉の説教を通し、主の晩餐の礼典を通して、心燃やしていただき、主とともに歩みはじめてまりたいと願います。

 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.