2005年復活節記念礼拝  2005/03/27
『主はよみがえられた』

ルカ福音書24:1〜12
 
 主イエス・キリストの御復活を喜び、心から御名を賛美します。今朝は私たちの信仰の核心である主イエス・キリストの復活の出来事を通して、私たちに与えられている信仰の希望についてともに教えられたいと願います。

(1)主イエスのからだはなかった(v.1-3)
 1節。「週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた」。主イエス・キリストの十字架による死と葬り、そして墓の中での安息日を過ごして後の「週の初めの日」、まだ主イエスの遺体への葬りの整えを終えていなかった女たちは、安息日が明けた翌日曜の朝早くに香料を持って出かけていったと聖書は記します。愛する者の死を経験した者にとって意外なことと感じられることの一つに、それでも当たり前のように時間は過ぎて、変わらない日常が繰り広げられるという事実があるでしょう。そこには死という出来事によって大きな断絶が生じているはずなのに、それでも当たり前のように時間は過ぎ、日は巡り、まるでその死の事実を忘れようとし、その悲しみを紛らわせようとするかのごとくに人々はいそいそと立ち働くのです。ここでの女たちもまたそのような悲しむ人間の姿を表しています。みな無言で、それぞれがそれぞれの役割を淡々とこなすために出かけていくのです。そしてそれが淡々としていればいるほどに、彼女たちの心に溢れそうになるほどの悲しみがあることが私たちにも伝わってくるのです。
 ところが、そのような淡々とした静かな悲しみが一気に破られる時が訪れます。2節、3節。「見ると、石が墓からわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった」。ここに驚くべき出来事が起こりました。今日の箇所については当然のことながら四つの福音書のいずれもが一大事件として書き記しているのですが、例えばマルコ福音書は「墓の入り口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」(マルコ15:3)と女たちが相談していたと記し、マタイ福音書は「大きな地震が起こった。それは主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである」(マタイ28:2)と説明を与えます。しかしルカはそういう補足説明を一切省いて、ただ墓の入り口の石が動き、女たちが中へ入って見ると「主イエスのからだはなかった」と記すのです。この「なかった」は厳密には「見つからなかった」ということで、このことをここで指摘しておきたいと思います。なぜならこのことは小さいことのようで、後で大きな意味を帯びてくるところなのです。

(2)主はよみがえられた(v.4-7)
 そして4節。「そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た」。さらに驚くべきこととして、ここに「まばゆいばかりの衣を着たふたりの人」が現れます。他の福音書では「天から降りてきた主の使い」とされていますが、女たちと天の御使いの登場は、ルカ福音書の始まりの記事を私たちに思い起こさせるものでもあります。主イエスの物語のプロローグに登場したのが女性たちと天使たちであったのと同じように、主イエスの物語のクライマックに登場するのもまた女性たちであり、天使たちでした。その二人の人が恐れおののく女たちに語りかけます。5節から。「恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう』」。ここでこの主の使いがマタイやマルコでは一人の人物であるのに対して、ルカとヨハネはこれがふたりであったことの意味が明らかにされます。つまり彼らは主イエスがよみがえられたことを女たちに証しする証人の役割を帯びてここに立っているのです。
 それにしても、この御使いの言葉には重要なポイントが込められています。そのひとつは「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」との言葉であり、いまひとつは「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」との言葉です。十字架で死なれた主イエスがここにはおられない。この現実を前にして決して人間が語ることの出来ない答えを御使いは語ります。「ここにはおられません。よみがえられたのです」と。ここに私たちの信仰の核心があるのです。「誰かに盗まれた」とか「墓を間違えた」とか、人間が想像するような可能性には一切触れられず、さも当然のことであるかのように、「いるわけないではないか。よみがえられたのだから」と答えられるのです。そしてこの人間にとってはあり得ない驚くべき出来事が、しかし神にとっては当然の出来事として現実に起こったところにキリスト教信仰の拠って立つ土台が固く据えられたのです。ここで私たちは先ほどの「見つからなかった」と、ここでの「捜す」という言葉の意味するところを考えておきたいと思うのです。これまで見てきたように、ルカ福音書が好んで用いるテーマの一つに「捜す、見つかる」という形式がありました。15章や19章がその代表例です。そしてそれと同じテーマがここにも現れているのです。しかしこれまでのテーマが「捜す」「見つかる」であったのに対して、今日の箇所では「捜す」けれども「見つからない」、そして「ここにはおられない」となるのでした。これまでの箇所では捜して見つからないことはなかったのに、肝心のこの復活物語では捜すけれども見つからない、となってしまうのです。しかしここに大切な真理が隠されていることに注目しましょう。すなわち、これまでの15章や19章、その他の「捜す、見つかる」形式では、捜すのは神であり、捜されるのは失われた人間です。そしてやがてついに人は神によって発見され、見出され、そこには天における大いなる喜びが湧き上がるのでした。発見の喜びの物語です。ところが、今日の箇所では捜すのは人であり、捜されるのは主イエス・キリストです。けれども彼らはイエスを見つけることができない。なぜなら彼はよみがえられたからだ、というのです。つまり、神が人を捜すことにおいては見つかることが喜びなのですが、人が神を捜すことにおいては見つからないことが喜びなのだと言うのです。なぜなら、私たちの神は死せる者の神ではなく生きている者の神であり、私たちを生かすための永遠の命を賜る真の神であられるからであって、そのお方を死人の中に捜しても見出すことは出来ない。主イエスは「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と仰せになるお方なのです。
 さらにもう一つのポイントですが、イエスを捜し出すことのできない女たちに御使いは命じます。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう」。ガリラヤにおられたころにお話になったこと、それはあのエルサレムへの旅の始まりの直前に語られた主イエスの受難予告の言葉です。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そいて三日目にはよみがえらねばならないのです」(9:22)。このように御使いはこの主イエスの受難と復活の約束の御言葉を思い出せ、思い起こせと促すのです。そうです。確かに主は語っておられた。しかも「必ず」という強い言葉をもって受難とともに「よみがえらねばならない」ことをも約束しておられたのです。確かに今、彼女たちの目の前にあるのは空っぽの墓と二人の御使いの姿です。肝心の主イエスのお姿はいくら捜しても見つからない。しかしこのところにおいて御使いが命じるのは主イエス・キリストの御言葉のお約束を思い起こせ、ということなのでした。

(3)思い起こせ、約束を(v.8-12)
その時に起こったことは何か。8節。「女たちはイエスのみことばを思い出した」。彼女たちは思い出しました。思い起こしました。そればかりではありません。彼女たちはその約束を理解し、確信し、信頼し、そしてその確信を携えて弟子たちや多くの人々のもとへと赴いて行ったのです。9節から。「そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した」。この女性たちは主イエスの十字架の死を最後まで見届けた人々であり、また8章1節からを見ると、ずっと主イエスの付き従って来た弟子たちでした。それゆえに彼女たちはエルサレムを目指すあの主イエスの決意を間近に見て、そして主イエスの口から語られた受難と復活の予告の言葉を聞き、そしてその成就としての十字架を目の当たりにして悲しみに沈みかけていたその時、主イエスのよみがえりの約束を思い起こすことによって再び悲しみの淵から立ち上がることができたのです。
 しかし、全ての人がそうではなかったと福音書は記録します。11節から。「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った」。弟子たちの中にはこの女性たちの証言を信用できない人々がありました。ペテロが墓へと走ったのも、女性たちの証言を確認する意図があったのかもしれません。ともかくルカはこの主イエスがよみがえられた週の初めの日の日曜日の朝早く、主イエスの弟子たちの中に動揺や戸惑い、混乱があったことを率直に記すのです。この混乱ぶりは、そのままルカが福音書を記した当時の初代教会における復活信仰への人々の反応、そしてまた今日の私たちの復活信仰への戸惑いの反応をそのまま映し出していると言えるのではないでしょうか。「主イエスの教えは分かる。その愛の姿にも共感する。十字架も受け入れよう。しかし復活を信じることは・・・」。このような反応はしばしば起こり得るものです。では主イエスの復活がキリスト教信仰への障害となっているのならば、いっそのことその教えを省いてしまえば良いのか。決してそうではない。それでは「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになる」(Iコリント15:14)のであり、「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」(同15:17)とパウロが語る通りです。
 ではどうすればよいのか。実はルカ福音書24章は大きく三つの部分に分けられるのですが、それらがあたかも一つの真理を三つの方向から記しているような書き方になっているのです。詳しいことは省略して、今朝はその一番大事なポイントだけを申し上げたいと思います。24章のポイントとなる御言葉は三つです。第一は8節の「思い出した」。第二は31節の「目が開かれた」。そして第三が45節「心を開いた」です。主イエス・キリストが私の罪のために十字架にかけられて死なれ、葬られ、そして三日目に死人の中からよみがえられた。このことを私が信じることができるのは、ただひたすら御言葉の約束によって思い起こさせられ、パンが裂かれることによって目が開かれ、そのようにして主イエス・キリスト御自身によって私の心が開かれていくことによってのみ起こるのです。まとめて言えば御言葉と主の晩餐、すなわちこの礼拝において主イエス・キリスト御自身が私の心を開いてくださる。それによって私たちは復活の信仰の喜びにあずかり、そのいのちに生き始めることができるのです。

 



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