く ら

                      神々の座

                       文責 ロドリゴ

 

第一部 「Because  it  is  there

初登頂

 1953年6月、イギリス本国は沸き立っていた。人類初のエベレスト登頂成功の報が入ったからである。この地球上での最高高度を最初に制したのはジョン・ハント率いるイギリス隊の、エドマンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイである。5月26日、第一次アタック隊のボーディロンとエヴァンズはエベレスト南峰(8754m)には達したが、頂上をおとすまでは至らなかった。28日、8504m地点を最終キャンプとしたヒラリーとテンジンは翌29日朝6時半ここを出発した。無風、快晴、上質の雪。最高の条件である。11時、ヒラリーが最後の障害となる急なステップに取り付く。巻いて登ることは出来ない。左は無理。右は絶壁の上端に雪庇が張り出している。が、岩肌の氷に入り込んで登るのに十分な幅を発見した。行けるのか?酸素は3時間半分残っている。氷にアイゼンを突き刺し、身体をよじり、喘ぎながら、ゆっくりとはい上がって行く。6500m以上の高地では睡眠中でも体力を消費する。苦しい。だが、12mのそれを彼は登り切った。テンジンがそれに続く。これを越えればのこる障害はない。現在の高度は8800mだ。恐怖も疲労も吹っ飛んだ。稜線のコブを越えつつ、一歩づつ休んでは歩く。蒼黒い天が二人を包む。二人より高い場所はもう見えない。テンジンが国旗を括り付けたピッケルを高々と掲げる。頂上に立ったのだ。

 

概要

 およそ6000万年前、インド・オーストラリア大陸プレートが、ユーラシア大陸とぶつかり、それが地殻をゆがめ、褶曲が生じて山脈を形成したのが、現在のヒマラヤ山脈である。ヒマラヤの語源はサンスクリット語で「ヒマ」(雪の)「アラヤ」(住処)から来ており、地球上の7000m以上の高峰は全てここに集中している。広義にはチベット高原を中心とした広範なアジア高原帯を含めてヒマラヤを指すが、一般的にはインド、中国、ブータン、ネパール、パキスタンにまたがるヒマラヤ山脈を指す。東西約2400km、南北200〜300kmに及び、日本列島が収まる程度の大きさである。ちなみにエベレスト(エヴェレスト)の名だが、1823年から1824年まで、測量局長官としてインドの測量に功労のあったジョージ・エヴェレスト卿を讃えて1856年にMt,Everestと命名され、それが世に広まったものである。チョモランマというのはチベット名、サガルマータがネパール名であり、それらが古来そう呼ばれていたことは容易に想像できる。この文中では第一部がほぼイギリス隊の記述であることから、エベレストの呼び方を、第二部以降はネパールからのアプローチゆえ、サガルマータの呼び方を使用させて頂くこととする。少々ややこしいがご了承頂きたい。

 

山に登るということ

 一般的に、我々が登山と聞いて思い浮かべるのはチェックのシャツに背中をすっぽり覆う大きなザック、足首までカバーする丈夫な登山靴、そしてピッケルやスキーのストックなどを身に付けたその姿だろう。私は3000m程度の日本の山にも登ったりはするが、装備にかける経済的ゆとりのある中高年の方はこのような格好で来ていることが多い。詳しくは知らないが、合理的な理由があるから大体このような格好になるのだろう。だが私の場合縦走(一つの山の頂上に登ってそれでよし、とするのでなく山の頂上から頂上へ、稜線を歩くこと。山中で3〜4泊したりする)をしたり冬山をするなどそこまで本格的にやるわけではないので、靴以外の服装は案外適当である。なぜ、それでも大丈夫なのかというと、通常我々が一般的に「登山」といっているものが、「スポーツ、レジャー、レクリエーション」としての登山だからである。「〜〜大学山岳部」や「〜〜登山クラブ」などの本格的な山岳活動になると意味は少し違ってくるが、我が国において、「登山」とは夏期の、比較的安全でレジャー的な意味合いをもって語られることも多い。誤解がないよう付け加えるが、日本の一般的な登山ガイドブックの、登山の難易度は普通で誰でも登れます、とされている山でも転落や遭難による死者は少なからず出ている。それなりの心構えは必要である。

 前置きが長くなったが、私がここで何を言いたかったかというと、「エベレスト登山」と我々が日常で言うところの「登山」は違う質のものである、ということなのだ。エベレスト頂上は北極、南極に続く「第三の局地」と呼ばれている。日本の登山気分で行けば、そこに待っているものは「死」である。

 高地では実際にどのようなことが起こるのか。よく知られているのは高山病であろう。これは低酸素の環境への急激な移行に、身体が適応できない時に起こる。症状は、軽度の山酔い(頭痛、倦怠感、食欲不振、吐き気)、それが進行した場合の高地肺水腫、脳浮腫の3つに分けられる。肺水腫と脳浮腫は同時に発症し、意識障害、運動失調や激しい息切れを起こす。3500m〜4000m以上の高度での無理な行動は、症状の進行により昏睡〜死に至ることもあるようだ。軽度の山酔いは2000m程度でも起こるといわれている。我々が国内の山に行くときでも十分起こりうるということである。富士山頂では、起こる可能性が高いと考えて良いだろう。対策は、身体を慣らしながら登ること、低地に戻ることの他はない。肺に酸素を送り込む手助けをする薬もあるが、補助的なものと考えたほうがよいだろう。

 8000m級の山を目指す登山家はその前段階で6000m級の山で身体を慣らしたりしているようだ。だが、時間をかけて高度順応をしても、人の身体は6500m程度までしか順応できない。これより上は睡眠時でも体力を消費する。これより上の世界はどんな環境なのだろうか。酸素は低地の3〜4割しかなく、気温は季節にもよるが−30℃〜−40℃まで下がる。薄い酸素は脳、筋肉の活動両方に支障をきたす。足を踏み出すその一歩が苦痛でたまらない。薄い酸素が生きるための意志さえ低下させ、誰もいないはずのそこに人がいるような錯覚に陥ったりもする。山で死んだ者の霊が囁いたり、自分の救助がすぐそこまで来ている幻覚であったり、である。極低温の乾燥した空気は喉の粘膜を容赦なく痛めつけ、些細な判断ミスが凍傷につながり、荒れ狂う烈風が登山者を谷底へと突き落とすべく唸りをあげる。雪崩、落石は日常であり、どこで起きても不思議はない。たまたまそこに居合わせた者は、死ぬ。「死」という現象が、手を伸ばせば届く、すぐそこにある。人は死ぬために山に行くのではない。が、「登りたい」意志の力である程度「死」を防ぐことはできても、抗うことの出来ない瞬間があり、抗うことの出来ない力が存在する。人は、抗し得ない自然の力にスピリチュアルな存在を見いだし、それを畏れる。そこは、神の居場所、「神々の座(くら)」なのだ。神に愛されなかった者には、「死」が与えられる。この国では、ヒンドゥーと仏教の神々が融合し、信仰が日常のものとして、生活の一部として、息づいている。自然の厳しさだけでなく、朝日を浴びて金色に輝く荘厳な山々を前にして、そこに神々が宿ると考えることはむしろ自然なことではないだろうか。

 

装備

人が生きていくには衣、食、住が必要である。衣と住で体温の調節をし、食で生命活動に必要なエネルギーを得る。いかなる時でもそれは行われねばならず、無論山においてもそれは必要である。人の生存に適さない場所であるほどそれは困難になってくる。山に登るということは、人の生活を山に上げるということにほかならない。エベレスト登頂などはそれが成否のカギを握るほど重要な事でもある。ここで、1975年のエベレスト日本女子登山隊の例をみて、「エベレスト登山に何が必要なのか」を検証してみたい。この隊の金銭的事情だが、「女性隊だから(登頂の)期待はできない」というような差別的な理由から、スポンサーからの出資が少なく、またどうしてもメンバーが主婦、OLであるという理由から遠征費が非常に少ない(4300万円程度。渡航費、登山許可料なども含めて)状況で行われた。結果、荷物などを限界まで切りつめることとなり、現地で山岳ガイドや荷揚げを手伝ってくれるシェルパやポーターに「こんな貧乏隊は初めてだ」と言わせるほど予算を抑えて行われた。そんな理由で、ここではこの隊の装備が必要最低限のものと考えても差し支えはないだろう、装備と一言でいってもただ単に着るものやザックに入れる食糧だけを指すのではない。高所順応や登山準備などにかかる2〜3ヶ月の生活の全てを、とりあえず登山の拠点になるB.C(ベースキャンプ、ネパール側からエベレストに行く場合は、標高約5500m程度の氷河下)まで上げて、そこから前進キャンプ(チーム登山なら頂上まで6つ程度)を設営するだけの物資である。15人の隊員の、日本で準備した荷の総重量は11tに及んだ。米、小麦、生鮮野菜などは現地で手に入るが、その他は全て持ってゆく必要がある。鍋、釜、調理器具、日本食の缶詰や食器、通信機、医療機器など。600人近いポーターの道中の食糧も必要になる。3億円の経費を使ったイタリア隊の隊長のテントには赤い絨毯が敷いてあり、ベッドがあったらしい。そのほかにもザイルやクレバスに設置するハシゴなど、とにかく金と労力を使うものなのである。

 

マロリーとアーヴィン

 エベレストを登山の対象として考え始めたのが1900年頃、イギリスにおいてである。20年の後、計画が実行に移され、頂上攻略が始められた。が、1953年の初登頂に至るまでの道のりは平坦ではなかった。そこまでに幾多の敗退があり、それは山の中に無数の屍を残す結果となった。その屍の中にマロリーとアーヴィンがいる。エベレストに関する公式な記録には、1953年が初登頂とされており私も前段でそれを述べた。だが、1924年のマロリーアーヴィンが、登頂に成功していないというはっきりとした証拠が、まだ見つかっていないのである。同時に、登頂の証拠も見つかってはいない。マロリーとアーヴィンは、8000m以上での高度で目撃されたのを最後に、二度と帰ってくることはなかった。事の真相は、霧の中に消えた。

 大体の流れは、以下の通りである。時は1924年。第一次、第二次遠征隊の経験をもとに、第三次遠征隊員が選りすぐられる。隊長ブルース将軍、副隊長にノートン中佐。以下マロリーやアーヴィンにオデルらの隊員複数名、カメラ担当、輸送担当、医師などが続く。三月下旬にインド北東部のダージリンを出発、チベットの高原地帯を抜け翌月末にはチベット側のロンブク谷にベースキャンプが建設された。(ネパールは、1951年にトリブヴァン国王が亡命先のインドから帰ってきて新政権をうち立てるまで鎖国していたので、1951年より前はチベット側からのアプローチだった)

 5月7日、第三キャンプを設営。ポーターと共に食糧、ルート工作のための旗付きポールやテント、燃料などの荷を上げるが夜は突風荒れ狂う猛吹雪になった。悪天候下での行動の強行は死に直結する危険を伴う。それが前進キャンプにいるときであれば進むも地獄、引くも地獄であろう。結果として、天候が落ち着くまでそのキャンプに留まることも多いのだが、それとて狭いテントの中、身を切る寒気に耐えながらただひたすら待つしかないのだ。(当然一日以上の時もある)通常我々が行うキャンプでは食事は最大の楽しみの一つであるが、高々度では大変な労力を要する。鍋に雪を詰めてそれを沸かし、それを飲料、調理に用いる。ある登山家が、このように語っていた。

「この高度では固形物(の食糧)など見たくもない。食事の準備だけでも苦労するのに、さらに大変なことはできたそれを胃に流し込まねばならないことである。」

 これらの困難を登山家達は鋼の意志で跳ね返しつつ往くのだが、現実は時として非情である。5月末、猛吹雪のなかを退却するシェルパ2人が死んだ。

 6月3日、8150mに第六キャンプまでを建設、ポーターが高山病にかかっている。翌日早朝、隊員のノートンとサマヴィルが第六キャンプを出発する。無風に近く、条件は良い。が、喉を痛めて咳がひどい。今までのアタック準備に日数がかかりすぎている事もあり疲労も蓄積している。酸素ボンベも持ってきていない。低酸素の影響も強く出ている。頂上まで高度差300mまで迫ったが、自らの生命の危険もあり引き返さざるを得なくなった。

 6月5日、マロリーは頂上アタックのパートナーに、熟練したオデルではなく若いアーヴィンを選んだ。精神的、肉体的強靱さは備えていたが、彼には経験が足りない。だがマロリーは、アーヴィンの工業技術に期待したのだ。ノートン、サマヴィル組は無酸素で敗退した。それを見ていたマロリーは酸素の使用を決意し、ボンベの不具合をすぐ修理できるアーヴィンを選んだのだろう。翌6日には、第五キャンプに「上は風がない。期待できそうだ。」という書き置きを残し、二人は第六キャンプに上がっていった。彼らを待っている運命を、この時点で知ることは当然不可能であった。

 6月8日早朝、二人は北東稜〜頂上アタックを目指し出発した。残されたオデルは第六キャンプを目指す。途中でオデルは稜線を移動する二つの小さな点を、雲の切れ間に目撃した。それらは5分間の間に、岩壁を登りはじめ、それを乗り越えた。時間は13時近く、頂上までまだ距離はある。早朝に出発したにもかかわらず二人のペースは遅い。登頂しても夜までにキャンプに戻れなければ、待っているのは死である。オデルがそれを確認すると、再び雲が彼らを覆い隠し、空は荒れ、何も見えなくなってしまった。テントには二人しか寝られない。オデルは仲間のいる第四キャンプまで戻った。

 6月9日、オデルが安定しない空の中、二人の捜索に、第五キャンプに上がる。翌10日には第六キャンプにたどり着いたが誰もいない。テントの中は二人が出発したときのままである。荒れ狂う嵐の、風の音だけが虚しく響く。この高度、この天候の中テント無しで二日も生きているのは不可能だ。嵐のなか叫んでみたところで、声は届くはずもない。二人は、死んだと考えるしかない。絶望と、孤独のなかオデルはそこを後にした。

 それから三日間、捜し、待ち続けたがそれは徒労に終わった。じきにモンスーン季(雨季)が来て空が荒れる。隊の撤収が決定された。二人を冷たい白銀のなかにのこし、旅は終わった。石を積んで慰霊碑をつくり、15日には静寂だけを残して、最後の荷がベースキャンプを去った。

その後、マロリー、アーヴィンの登頂の成否を巡っての議論がおこり、勝手な憶測や議論が飛び交った。登頂に成功したかどうかはマロリー、アーヴィン本人にしかわからない。が彼らはもう何も語ることは出来ない。場所が場所だけに真相を確かめることも出来ない。当初は人類初のエベレスト登頂の願いも込めて、彼らが登頂成功後に遭難したのだ、という意見が主流派を形成する。二人は英雄に祭り上げられ、その霊は永遠のものとなった。彼らの足跡を知るには、なおしばらくの時が必要だった。1999年の捜索隊により、ようやく、「8250m地点でマロリーの遺体を発見」の報が入ったのだ。彼のイニシャルであるG・L・M(ジョージ・リー・マロリー)の刺繍の入ったハンカチがポケットにあり、それが本人であることを決定せしめた。堅く凍てつき、身体にはまだロープが巻き付けられたまま、岩棚の上で、75年の長きに渡って横たわっていたのである。

 なぜ山へ行くのか、という問いに、マロリーが答えた

Because  it  is  there」「そこにそれ(山)があるから」

という一節はあまりにも有名であろう。彼らは今もなお・・・遥かなる天空を目指して登り続けているのかもしれない。

 

      第二部   「サガルマータ」

登高

◎9月22日

バンコクからカトマンズ行きの飛行機に乗る。30分遅れで出発。3時間程度のフライトだろうか。機が高度を下げると緑の山々が見える。トリブヴァン国際空港、カトマンズは山に囲まれた盆地にあり、そして空港ビルは少し質素なものであった。市内へのタクシーに乗る。気温は東京より少し暑いくらいであった。開けた窓からアジアの臭いが飛び込んでくる。香を焚く臭い、ドブの臭い、排気ガスの臭い・・・私は帰って来た。とうとう帰って来たのだ。ネパールは初めてだがアジア旅行はこれで4度目になる。これらの臭いは自分がアジアにいるということを強く意識させる。日本でもインドの香を買って焚いてみたりするのだがあまりパッとしない。4度目にしてやっとわかったのだが、生活の臭い全てが複雑に混じり合ってやっとアジアの臭いになるのだ。晩飯には米の飯に豆のスープ、カレー味の野菜のおかずに漬け物が付くものである。いくらかアジアの飯に慣れているせいもあるのだろうが、うまい。

 

     9月23日

 朝から旅行代理店に行く。私がネパールに来たのはトレッキングのためである。目指すは標高5545m、カラ・パタールの丘だ。ここはサガルマータ頂上から地図上の水平距離で7km〜8kmくらいの位置にあり、サガルマータの絶好の展望台となっている。カトマンズからは40分のフライトで標高2800m地点まで行き、そこからは全て歩きで、往復の全行程11泊12日、通称エベレスト街道と呼ばれる山道を歩くのである。標高4000mを越える地点までは、高地における活動能力の高さから、世界各国の登山隊のガイドとして活躍し、その名をはせた山岳民族のシェルパ族が住んでいる。そこには彼らの生活があるのは勿論、トレッカーのための、簡素だが暖かみのある宿や食堂も多数ある。歴代の(ネパール側からの)登山隊も皆辿った道であり、夢や希望、登頂を果たせなかった悔しさ、遭難死した仲間の遺体を山中に置き去りにした無念など、それらを全て運んだ道でもある。サガルマータ登頂を果たしたヒラリーやテンジン、女性初登頂者の田部井淳子などもこの道を歩いている。無論他の各国登山隊、日本の遠征隊もだ。標高5545mというと大変なように聞こえるが、ピッケルやアイゼンなど専門的な登山用具を使った登攀、登壁はない。現地の人の生活道路(車道ではない)を通って比較的軽装で行けるのがトレッキングである。それ以上の、専門的な用具で氷壁を登ったりしながら6000m以上の山のピークを狙う行為を、ネパール政府は「登山」と呼び、高額の登山料を取ってトレッキングと区別している。トレッカーには気軽に来て貰って外貨を得ようというのだろう。トレッキングは一人でも行けないことはないが、現地の言葉を話すガイドがいれば、少し費用はかさむが道案内は勿論、万一の病気の時などでも安心である。その交渉をしに旅行代理店に来ているのだ。ヒマラヤンアクティビティーという代理店のガイドは若いが何度もエベレスト街道の案内をしている、ということなので安心できそうだ。もっとも私の高山病と膝の痛みは心配だが。

 

◎9月24日

 代理店の、別のベテランガイドと共にレインウェアなどの買い出しに行く。カトマンズのタメル地区は外国人旅行者の拠点となっている場所で、安宿、みやげ屋や登山用具屋などが密集しており寝袋やザックから、ザイルやハーケンなどの専門的な登山具まで何でも揃い、しかもそれなりに質の良いものが日本より安く買える。ベテランガイド氏は行きつけの店で値下げ交渉をしてくれるという。通常観光客相手の店はたいがいふっかけてきて、それでも安いので買ってしまうのだが、彼らがレインウェアの裏打ちのテーピングがどうのこうのという細かい話までしていると思っていたら、やはり値段は自分一人で相場を聞いてまわった時より随分と下がっていた。当然日本に帰ってからも十分使える品質のものである。

 明日の早朝の出発に備えて夜は早めに寝ることにする。カトマンズは標高が1400mあるせいか夜は涼しい。快適に眠れそうだ。暑くてなかなか寝付けないアジアの真夏と違って、今の季節の夜は非常に気持ちがよい。

 

◎9月25日

 行き先のルクラの天気が悪いらしく飛行機が飛ばない。山の間をぬってのアプローチなので、雲が多く視界が利かないと着陸が極めて困難で危険なのだそうだ。朝6時に空港に着き昼まで待つが、今日のフライトは無しと決定、トレッキングは一日延期となり市内に戻る。もっとも明日飛べるという保証はないが。

 

◎9月26日

 今日もルクラは雨だそうだ。当然フライトも無し。心は焦るが自然が相手ならば手の打ちようもない。遠征隊の登山家はブリザードの中を狭いテントの中で2日も3日も天候の回復を待ったりするそうである。食事の排泄も困難な状況で、常人には理解しがたい過酷な時間が流れる事もあるのだろう。私の場合、それに比べれば問題と呼ぶほどのことでもない。空港から街に引き返して、シャワーを浴びてビールを飲んでいればそれでよいのだ。だが明後日から2日間にわたって起きるカトマンズでのストライキは少し心配である。スト中は交通機関は停止し、商店も閉まるだろう。明日朝にルクラまで飛べれば問題は無いのだろうが、もし明日飛べなければ明後日、明々後日は安宿に缶詰めになる。今は明日飛べることを切に願うのみである。

 

◎9月27日

今日もルクラは曇りらしい。朝5時半には空港に着いて11時半まで待つが結局フライトはキャンセルされた。同行のガイドも仕方ないな、という顔をしている。明日カトマンズはストに突入する。だが代理店のオフィスに寄ってストの詳細を尋ねると、外国人相手のホテルが開いているのはもちろん、商店や食堂なども100%閉まるわけでなく開けてある店もある、とのことらしい。聞けば空港業務も行われ、ルクラが晴れれば飛べるという。その場合はタクシーが営業しないので、空港までかなりの距離を歩かねばならないのだが。代理店の代表は非常に心配してくれて、「君が望むなら明日もガイドには行かせるが、空港までの往復は歩きになる。かといってスト明けまで待てば時間も無駄になるし、君の意見に従って決めよう」と言ってくれた。さらにスト中私が暇を持て余すようなら彼が自宅に招待してくれる、というようなことも言っている。だがこんなことで迷惑をかけるわけにはいかない。ストといっても激しい暴動が起こるわけでもなく、街を歩いても問題ない、ということなのでスト明けまで安宿に留まることにした。代表には「何事も経験が大切だ」と伝えたところ「良い経験ではないが」と笑っていた。今日飛べなかったのは無念である。ヒマラヤのベストシーズンにこれだけ天気が悪いのは珍しいらしい。だがスト明けまで待っていれば天気も回復するだろう。オフィスにあった本を借りて、菓子、酒などを買ってホテルにもどる。

 

         インドラチョーク(カトマンズ)の雑踏

 

◎9月28日

 朝起きてホテルを出ると、スト中だが半分くらいは店も営業している。人の往来もいつも通りで、けたたましいクラクションを鳴らすタクシーがいないぶん街は静かだ。時間があるのでヒンドゥー教の寺院に行ってみることにした。ガイドブックによると、ガンジス河の支流である聖河バグマティ河の川岸、ここパシュパティナートはネパール最大のヒンドゥー寺院なのだそうだ。近づくと髪の毛や爪が焦げる時の、あの独特の臭いがして、河の脇で煙が上がっている。火葬の煙である。ガイドブックには「異臭」と表現されているがそれほどとは思わない。河のガート(堤)での火葬はインドのガンジス河のものが特に有名だが、ネパールでも行われているようだ。河のほとりに火葬台が5つほどあり、燃えたあとの灰をそのままバグマティ河に流すのである。私が着いた時には3つの台で火が燃えていた。また別の遺体が運ばれてくる。年老いた男のそれだ。その家族は慟哭し、カン、カンと澄んだ鐘の音がどこからか響いてきた。遺体には花や米、色のついた粉などがふりかけられ、細い木の束に火がつけられる。遺体の顔をよく見ると数年前に見た祖父の死に顔と、どこか似ている気がした。ここで焼かれた者の魂は火葬の煙と共に天に昇り輪廻転生するという。この国の人々の信仰心はあつい。祈りの内に生き祈りの内に死んでいった者の焼かれる様と、聖も俗も全てを内に包む河の優しい流れを、私はしばらくの間飽かずそれを眺めていた。懸命に生きて死ぬというそれに日本人もネパール人も違いはないのだろうが、金や物質に心を奪われ、そのために生きているように見える日本人と、我々が失いつつある大切なものを信仰の内に抱えて一生を終え、ここで焼かれてゆく者との間に感じる隔たりは何なのだろうか。金が金を生む世の中。そしてそれが人の心より大事なもの、至高のものと勘違いしてのさばっているクソみたいな奴ら。その社会と体制に寄生して、すがりついて生きながらえている自分はクソ以下のものなのだろうが。

 

◎9月29日

 スト2日目。ホテルの英字新聞を見る。語学力が無いので詳しくはわからないが、ストのニュースは出ている。やはり集会のようなものは行われているらしい。現地の人の習慣や文化、政治などを十分理解した上で、その集団の主張に賛同できるなら集会の近くにいても大丈夫なのだろうが、現地の言葉もできないただの旅行者が興味本位で見に行くものではない。やはり外出はほどほどにしようと思い、本屋をひやかし昼食を取ってホテルに帰ることにした。部屋に帰ってシャワーを浴び、ウイスキーを飲みつつ日本から持ってきた「海と毒薬」を読む。明日は飛べるだろうか。

 

◎9月30日

 待ちに待ったこの日がとうとう訪れた。空港で3時間くらいルクラの天候の回復を待っていたのだが、雲が少なくなってフライトの許可が出たらしい。にわかに辺りが慌ただしくなる。機体は20人乗り程度の小型のプロペラ機である。機は小さいがちゃんとフライトアテンダントはいてアメなどを配っている。座席のポケットを見るとクルーの勤務シフト表が無造作に突っ込んである。〜日の機長は誰々、副操縦士は誰々、などと書いてあった。日本と違って万事おおらかである。機が高度を上げると国土の7割程度が山地であるというガイドブックの説明が実感できる。山の斜面に段々畑をつくられ谷に沿って道ができている。決して楽な暮らしではないのだろう。機は高度を下げ大きく旋回する。山に接近してもう着陸だと思ったらガクンと強い接地の衝撃がきた。ひどくガリガリというものが擦れる音がする。衝撃の強さと音に違和感を覚え、少し身をかがめる動作を無意識にしていた。機体はそのまましばらく直進し、速度の落ちたところで進路を少し右に曲がった後止まった。とたんに焦げ臭さが鼻に飛び込んできて、隣にいたガイドのシートの下から煙が出てきた。機が停止するまでの間は数秒か10秒程度のもので私の脳は緊急事態を今ひとつ認識していなかったが、煙と臭いではっきりそれを認識した。機内にいた人間が急いで窓を破る。火は出ないか。爆発はしないか。極限の緊張のなか、空港職員が機内の人間と私を窓から引きずりだしてくれた。外に出て火が出ていないのを確認しそれから機体を見ると、ものの見事に胴体着陸であった。後ろを見ると取れたタイヤが無惨な姿で落ちている。一連の事態に私も同行のガイドも笑うより他になかった。進路がずれて脇に突っ込んでいたら死んでいたかもしれない。助かった。生きている。今もまだ生きている!貴重極まりない体験だろうがもう二度と味わいたくない。

 興奮さめやらぬまま一応トレッキングもスタートする。標高2804mのルクラから2時間歩いてパクディン(標高2600m)へ。霧雨。やや寒い。上着を一枚着る。

 

◎10月1日

 トレッキング2日目。5時間歩いてナムチェバザールへ。昨日から840m高度を上げたここは標高3440m地点にあり、すでに日本第2位の北岳(3190m)を越えている。やや寒く、風邪には注意して汗で濡れたシャツを替えるがこの環境の変化にいつ風邪を引くかわからない。ガイドはやはり歩く速度が速く、やや遅れ気味で歩くがその後彼は私を気遣ってくれてゆっくり歩いてくれた。雲やや多く所により霧雨。

      ――――――――――――――――――――

 私は田舎の小さな漁師町の生まれである。歩いて2〜3分で海に着き、海と共に育ったといっても過言ではない。高校を出るまでは友人と海で泳いだり魚を釣りに出かけたりもした。だが海に対して別段どういう感情が育ったわけでもなかった。海から離れて暮らしている今でこそ、たまに潮風に吹かれた時は気持ちよく感じたり、子供のころは何とも思わなかった新鮮な魚が贅沢なもののように感じたりはする。だが、今、私はネパールの、ここナムチェバザールの丘に立ってその風の中にいる。

 私が初めて山らしい山に行ったのは高校を出てから、石川県と岐阜県の境にある白山だった。誘ってくれた友人が高校の山岳部であったことと、季節が残雪期であったことからついて行くのがやっとで、とにかく疲れたということと、山頂からの眺めがきれいだったことだけが鮮明に残っている。下山後の温泉、その後のビールも格別だった。しかし、その後特にのめりこむというわけでもなく、また全く登らなくなったわけでもなく、気が向いた時に手軽な山に入る程度だった。代わりに旅にはのめり込んだ。半年かそれ以上働いて2ヶ月ほど海外をまわり、アジアやヨーロッパの旅を楽しんだ。ネパール、チベット国境のサガルマータが世界で一番高い山であるということは、その名も含めて知ってはいた。だがその後仕事も忙しくなり、それに対する憧れは心の隅へ追いやられたままになっていた。

 

◎10月2日

 3日目。ナムチェバザールで高度順応のため今日もここに滞在する。昨夜は軽い頭痛のためなかなか寝付けず。食欲がないが、体力を落とさないため朝は少し無理をしてシリアルを食べる。高度障害かもしれない。こんなに早く出るとは思わなかった。目的地まではあと標高差2000mもある。心配ではあるが行ける所まで行くしかない。朝は一瞬雲がとぎれて雪をかぶった山が姿をあらわした。到着後も雲が多く山は見えず、ヒマラヤの麓に来ている実感が湧かなかったがようやくそれらを感じることができた。高度に慣れたせいか午後には頭痛は消えていた。明日からもまた長い歩きが待っている。登ったり下ったり、まさしく山越え谷越えという感じである。

      ―――――――――――――――――――――

 帰国後数年間は仕事に追われる毎日だったが、アジアを旅した日々がふと懐かしくなり、休暇の合間をぬって私はビルマ行きの機に乗っていた。懐かしい臭いのするヤンゴンを抜け、ベンガル湾沿いの小さな街でビールを飲んでいる日々だった。そんなある日、ふと出会った日本人旅行者が私に一冊の本をくれたのだ。それは分厚く読むのが面倒くさそうでありしかも下巻のみ、というものだった。しかし、私はそれをむさぼるように一気に読み終えた。「神々の山嶺」(かみがみのいただき)と銘打った、ヒマラヤを舞台にしたその山岳小説は私の心を揺さぶるに十分だった。

 『外へ出た。

 思わず、声の出そうな景観の中に、

 いきなり深町の身はさらされた。

 地上ではなく、宇宙のただ中へ放り出されたようであった。

 頭上に、銀河がかぶさっている。

 雲はひとつもない。

 おそろしいほど透明な空に、おびただしい数の星がきらめいていた。』

                      (下巻 p310)

 『濃い時間を、自分はもう知ってしまった。

 あの、骨が軋むような時間。

 ここには、吹雪も、血も凍りつくような寒さもない。

 あの、もう二度と行きたくない極寒の極限の世界―――』

                      (下巻 p428)

 そんな折の私の離職である。小説のような極限の体験をするわけではないが、少しでもそれに近づきたい――― 多くの登山家の魂を奪ったその舞台を、世界で唯一無二の最高点をこの目に焼き付けるべく、私はヒマラヤ行きを決意した。

 

◎10月3日

 トレッキング4日目。夜明け前小便に起きると月が出ている。山に入ってから夜に雨が降って朝から昼にかけて雨が止む、といった天気が続いていたので少し期待する。

 昼は雲が少なく、雪をかぶったアマダブラムが見えている。ヒマラヤにあっては高いほうとはいえない7000m未満の山だが私にとっては初めて生で見る高峰である。圧倒されないはずはない。宿泊するロッジは簡素なものだがテントや食糧を持っていく必要のないのは何よりのありがたい。おかげでザックの重量は10kg程度のものだろう。本日はタンボチェ(3867m)まで4時間半で着いた。こんな山奥でもプリングルスやスニッカーズのような菓子類、缶ジュースやビールまで売っている。値段が高いので私はチョコレートくらいしか買わないでおこう、とは思っていたが、歩いたあとのコーラやジュースなどの魅力は侮りがたい。適当に買ってロッジの収入に貢献し、節約しつつ歩けばよいだろう。今の高度ですでに富士山を越えているが明日は標高4000m越えが待っている。体調は割と良い。

           ディンボチェ周辺にて

 

◎10月4日

 朝6時頃まで降っていた雨がピタリと止んで良く晴れた。午前中に晴れて午後にまた雲が出るといういつものパターンだ。4時間歩いてディンボチェ(標高4350m)に着く。気温は何度かわからないが10度位だろう。上はまだ寒いのだろう。昼にシェルパシチューを食べると体が温まった。ロッジの入り口に、日本冬期エベレスト登山隊と日本語で書かれた箱を見つけた。冬期登山というのは12月に入ってからの登山である。条件は極めて過酷であり、厳しい登山が行われたに違いない。この登山隊が成功したのかどうか今ここではわからない。ただ、この箱が遠征隊の荷物を詰め込まれて運ばれてきて、遠征が終わった後もここにこうしてひっそりと夢の残りかすのように存在するのだ。

 

◎10月5日

 高度順応のため同じロッジにもう一泊する。体に負荷をかけて(少し上に上がって)低地で寝ると高山病は出にくい、というので今日はチュクン(標高4737m)を往復することにした。朝は雲一つ無かったのだがチュクン往復時は雲の中を歩いているので何も見えない。残念だがかわりに朝はすごかった。6時過ぎに目を覚まして外を見るとよく晴れている。寝床から出たくない気持ちを抑えて外に出ると本当に山のなかへ放り出された感じだった。朝だけ晴れてヒマラヤの本来の姿が顔を出すのである。雪煙をあげるローツェ(8516m)をはじめタムセルク、カンテガなどが雪をまとって私をとりまいている。自分がいる高度では雪がないためそれらはやはり圧倒的である。朝日が山々の山頂に触れる。やがてそれが時間を経て山々を金色に染め上げていった。朝日が山を徐々に照らしていく様をみるのは山の楽しみの一つでもある。晩飯はカレー(の味の炒め煮)を食う。ロッジのメニューは高地でも採れる野菜(ジャガイモ、チンゲンサイ、ニンジン)、保存のきく乾麺、小麦粉、米などを組み合わせてうまく調理してある。スープ、汁そば、炒麺、炒飯、カレーや茹でたジャガイモなどがトレッキング中の主なメニューだ。比較的あっさりしていてどれも食べやすく、味も良い。ビタミン剤など持ってきていないので一日一回は野菜のたっぷり入ったメニューを頼むよう心がける。少し鼻水出るも体調良し。

      ――――――――――――――――――――

 旅とういのは非日常のことでもある。旅が終わればそこには日常が待っている。我々は日常に生きているのであり非日常に生きているわけではない。日常というのは言うまでもなく朝家を出て働いて、帰宅して寝るというそれである。それが悪いことだというのではない。それが普通であり生きていくのに欠く事のできない要素なのだ。だが私は帰国後その日常を一から組みなおさねばならない。

 私の内側から声が聞こえてくる。

「逃げているだけじゃないのか」

「また逃げるのか」

私は帰国後、長野県に移住することを決めた。秋田県の賃金の低さに逃げ出して東京に住み、次は東京には自然がないといってまたここから逃げ出そうというのだ。「またか」「どうせまた同じことの繰り返しだ」と私の内なる声は言う。そうかもしれない。普通の30歳ならそれなりの社会的地位を持ち、そしてある程度の妥協もして生きているのだろう。一つの場所が飽きたからといって転々としていれば、社会に対して負うべき責任も地位もないのは当然である。私には、それが、何もない。「自由でいいではないか」という考え方もあるかと思うが、自由なだけで一生飯が食えるはずもない。20代ならそれもよいだろう。だが30を過ぎて社会的責任を負いながら生きていく覚悟のない者に、将来的に待っているのは野垂れ死にだろう。それはわかっている。帰国後、東京であれば再就職は比較的容易だ。だが私は行くだろう。長野県は日本アルプスの麓の街である。山から清浄な風が吹き、水は滞らず清く流れる。「逃げる」と考えるか「栄転」と考えるか。あるいはどちらにも当てはまるのかもしれない。

 

◎10月6日

 ディンボチェ(標高4350m)からロブチェ(標高4930m)まで上がる。割と距離があり、傾斜はきつくない。ここから私の目標地点であるカラ・パタールまでは一日で行ける距離にある。ロッジの食堂では欧米人トレッカーが「素晴らしい眺めだった」「今日は雲が少なかった」などという話をしている。カラ・パタールから帰ってきた連中だろう。明日は自分が行く番だ。雪がちらつく。好天を心から望む。

 

◎10月7日

 トレッキング8日目。今日の日程はロブチェからゴラクシェプ(標高5150m)を経てカラ・パタール(標高5545m)まで上がり、ロブチェに戻ろうというものである。午後には雲が出るので朝の5時過ぎにはロッジを出た。まだ夜が明けきっていない。濃紺の空にヌプツェの白と黒(雪と岩)のシルエットが天に突き刺さっている。思わず息をのむ。声が出ないほど美しい。朝7時、ゴラクシェプのロッジでパンケーキにピーナツバターを塗って朝食とし、ミルクティーを3杯飲んでカラ・パタールを目指す。雲一つない快晴とはいかないがよく晴れている。400mの高度差を短い距離で上げるため傾斜はきつい。酸素は低地の半分位しかなかったはずだ。高度順応は出来ているがやはりあえぎながら、ゆっくりと、立ち止まりつつ進む。サガルマータが見えた。女が男をじらすがごとく、ヒマラヤの奥まった場所にあってなかなか姿を見せてくれなかったそれが、とうとう私の目の前にその姿をさらしてみせた。地上でただ一つの、この星の最高地点である。多くの登山家を魅了し、その魂を奪った山。多くの登山家の命を奪い、また多くの夢を与え続けた神々の座。あの黒い三角形の頂点よりも高い場所は地球上に存在しないのだと考えると熱いものがこみ上げて来る。息を切らせてカラ・パタールの丘の最上部に到達した。この先に、もう道はない。そこから山を眺める。サガルマータは、何も言わなかった。人に媚びる風もなく、また人を拒む表情をしているわけでもない。ただ、そこに、それは存在していた。

 

◎10月8日

 昨日はロブチェに戻る予定だったがロッジに人がいっぱいで部屋がないということなのでその下のトゥクラ(標高4620m)まで下った。今日はペリチェ(4252m)を経てパンボチェ(3985m)まで降りる。もう高山病の心配はない。昨日は岩と砂の世界を歩いていたが今日は低木も見られるようになった。降りてきていることが実感できる。上に比べるとやや暖かくなってきている気もするが夜はまだ寒い。

 

◎10月9日

 6時過ぎに目が覚める。朝は天気がよく山々がよく見える。カンテガ、タムセルクといった山々に別れを告げてナムチェバザールまで下る。この村は、この山域の人々がバザールのために集まる村なのでかなり大きい。当然トレッカーの拠点にもなる。発電所もある。標高3000mを越してはいるが、ホットシャワーを浴びてビールを飲むとやっと下の世界に降りてきたのだという実感が湧く。明日はサングラスも日焼け止めクリームも要らないだろう。旅の終わりも近い。

 

◎10月10日

 ナムチェバザールからさらに800mほど高度を下げて飛行場のあるルクラに到着する。ナムチェからの下りは、「よくこんな急坂を登ったものだ」などと思いながらの道だった。登るときは苦しいだけだった往路だが、帰り道ではこんな短い間でも懐かしい思い出として通り過ぎるものだ。

 山に囲まれて歩いた日々、ここにまた帰って来られる日が来るかどうかはわからない。だが土地の人々とふれあいつつ歩いた日々は一生忘れることはないだろう。私はこの国が好きである。それはこの国を歩いている旅行者はほぼ感じていることだろう。しかし、この国に一生住みたいかと問われれば、首を縦に振る者は少ないだろう。だがそれはそれでよいのではないだろうか。人にはそれぞれ慣れ親しんだ故郷がある。それでも、私はこの国の自然、この国が好きだ。私達は日々の暮らしに疲れることもあるだろう。そんな時はこの国に帰って来ればよい。逃げて来てもよい。ここは何時でも私達を暖かく迎えてくれることだろう。

      ―――――――――――――――――――――

 ルクラの村でタルチョ(祈祷旗)を買う。5色の小旗が連なっているそれはチベット仏教の経文が描かれていて、それが風に吹かれる時、経文があまねく世界に渡るように、というものである。ここクーンブ山域ではチョルテン(仏塔)と共に篤い信仰のしるしとしてどこにでも見られるものである。ディンボチェの近くの丘では、サガルマータ遠征で命を落としたシェルパの墓として、チョルテンが建てられタルチョがはためいていた。部屋に飾れば良い思い出の品となるだろう。私のネパール旅行ははもう少し続くがトレッキング終了までの日記はひとまず終わりである。

 月並みな結び方だが、この旅は私にとってかけがえのない、素晴らしい旅であった。最後に、全てのネパール人、誇り高き山岳民族シェルパ、私のガイドをしてくれたケサブ君と旅行代理店のヒマラヤンアクティビティーの人々、及びヒンドゥー、チベットの神仏に感謝を捧げ、この結びとしたい。

 

           アマダブラムを背にして

 

  第三部  「THE NEPALI BUS RUNS」

        〔激走ネパリバス〕  〜ネパール裏日記

 

法政大学深酒隊ヒマラヤ遠征

 我が法大深酒隊にもヒマラヤ遠征の機が巡ってきた。多大の例ではM大チームの西稜作戦、N大チームの北東稜作戦など輝かしい功績の例もあるが、我が隊もそれに続くべく遠征を計画したものである。狙うはネパール側ノーマルルート、ポストモンスーン季であり、付随する学術調査として「ネパールの飲酒事情の調査」も挙げられた。隊員はこの私と、和楽器などを弾く才女美穂・A嬢である。彼女はその深酒のあまり、酔って居酒屋のトイレでそのまま寝てしまった、などの経歴をもち、我が隊の戦力になることは間違いない。「地酒のチャンは欠かせないな」「ネパール焼酎のロクシーはうまそうだ」など、サガルマータ攻略のための綿密な作戦が練られていたが、A嬢は就職が大変である、などの極めて現実的な理由で今回の遠征は見送り、ということになった。

 現地入りした私は早速学術調査を開始、しかしそのあまりの酔い心地のよさから「うまい」「飲みやすい」などの記録しか残せず、「ネパール人に我々深酒隊の飲酒の恐ろしさを知らしめこれを征服、後に佐渡のアルコール共和国〔佐渡市に実在、総理府は真野町役場内〕も合併して巨大飲酒帝国を・・」などという誇大妄想にとらわれる始末であった。サガルマータ攻略の方は、ベースキャンプ近くの5545mまでは上がったものの、どう考えてもトレッキング装備でこれ以上登れない、という判断と、一人一万ドルを払って登山許可を受けるのを忘れていたことから無念の敗退となった。

 

ネパール裏日記

 

◎9月22日

バンコクを出た機はカトマンズの空港に到着した。タクシーの客引きに捕まる。4ドルで泊まれるPホテルに行きたいのだと伝えるとちょうどそこの従業員だという。そこに泊まればタクシー代の250ルピー(1ネパールルピーは1.5円くらい)は要らないらしい。そんならいいか、と思ってついていく。ホテルに着いてそのPホテルのパンフももらう。部屋は安宿の、それなりの部屋である。ところが外に出て帰って来るとホテルの上にはNホテルの看板が出ている。ここはPホテルではない。騙されたのである。受付ではPホテルと書いてあったからわからなかったが、してやられたらしい。しかし部屋はそれなりで、一泊5ドルだがタクシー代は払っていないので考えようによっては悪くない。すぐばれる嘘で騙したつもりが、自分にとって悪い条件でなく金を大量に騙し取られるわけでもないのが、間が抜けているというかおおらかでいい。

 

◎9月23日

 翌朝は前述のニセホテルのオッさん撃退に手間どった。ここは旅行代理店も兼ねているらしく、自分の会社のガイドを連れてトレッキングするようしきりに勧めてきた。日本人びいきの会社らしく、日本人の「この会社は信用できます、ガイドもよかった」などというコメントノートも見せられたが昨日の件もあり、ここには決めないことにした。だが旨みのある商売とみえて相手もなかなか引き下がらない。「後で決める」というと大幅にディスカウントが進み「なぜ今決めないんだ」と言うので「なぜ今決める必要があるのか」と切り返した。実際はそんなに悪くもないんだろうがここでハイ決めます、ということになればアジア旅行者の名折れである。頑としてつっぱねた。

 

◎9月24日

 地元の人向けのローカル食堂に入る。ものは試しということでメニューはあるか、と聞いてみるが案の定ない、というのでじゃダルバートタルカリと即答する。酒とつまみの菓子を買ってホテルに戻る。菓子の賞味期限を見ると少し過ぎているが何ら問題なし。

 

◎9月25日

 自分の持っていた腕時計のアラームが壊れたので替わりを探しに行く。時間がわかってアラームが鳴ればよいので安物でよい。店に入ってそれを伝えるとやはりチープそうなものが出てきた。顔のホクロから毛が伸びている別のオヤジが出てきて時計をいじくり回し、アラームを鳴らそうとしているが鳴らない。時計を耳のそばにつけてみたりするがダメなものはダメだ。難しそうな顔をして「あんたやってみてくれ」と言って自分に手渡した。こんなものは大体どれも同じようなもんだろうと思ってやってみたがアラームは鳴った。ホクロのオヤジは現在時刻も合わせようとしたらしいが、残念ながら30分ほどずれている。ついでに電池交換も頼むがオヤジは「それはできない」みたいなことを言って電池だけを渡そうとする。電池だけ渡されたところで精密ドライバーがない旅先ではどうしようもない。その旨伝えてやらせようとするがやはりダメだった。時計屋なのに時計屋らしいことがまるで出来ないらしい。

 

◎9月26日

 昼飯にトゥクパ(チベットの汁そば)を食う。食ってびっくり非常にうまい。スープは肉のダシに塩、スパイスで味をつけてあるがそのスパイスが何なのかとんとわからない。これでは調理師失格だろうが自分をまともな調理師と思ったこともないので良しとする。

 

◎9月28日

 ヒンドゥー寺院に行く。「日本から来たのか。東京はイイ所だ」と英語で話しかけてくるインチキくさいオッサンが来た。勝手についてきて勝手に寺院のガイドをし、後で金を貰おうというのだろう。「Japan,Yes,Japan,アー?」などと言ってはぐらかそうとするが、やはり勝手にガイドを初めてしまった。この時点で自分はガイドを頼むとは一言も言っていない。後で金をせびられたら「あんたが勝手にやったことだ」といって逃げるつもりだった。だがその話の内容が案外面白く、英語もわかりやすい。「ニルヴァーナ」などという格好いい単語も出る。帰ろうとするとやはりガイド料をくれという。「ガイドは俺とあんたの合意ではない」「日本人はこういうやり方を嫌うから始める前に交渉しろ」などといって去ろうとするが、なかなか離れず「10ドルとかせめて5ドルでも・・」と切ない顔をしている。初めに交渉すれば200ルピーくらい払っても惜しくはないと思ったがやり方がよくない。だがガイドの内容が思いがけず良かったので100ルピーを妥当としそれを払おうとする。「たった100ルピーですか」みたいなことを言ってさらに切ない顔をするが、ダルバートタルカリが2回も食えてコーラなら3本飲める金額である。私が「不満があるならその100ルピーも払わない」という顔をして札をしまおうとすると奴の切なそうな顔が頂点に達したので払うことにした。相手の思惑通りハメられたとも言えなくもないが値段的には妥当だっただろう。

 

◎9月29日

 本日もすることなし。ホテルの玄関でタバコを吸う。野良犬が来る。「ダンナなんか食べるもんないですかねえ・・・」とでも言いたげな表情をして少しだけ愛想の混じった力無いしっぽの振り方をした。少し頭をなでてみるがやはり与えるものはない。すると「やはりないですか。ないですよねえ・・」といった感じで数メートル離れていって寝そべった。奴はいつもここで寝そべっていて人の往来を眺めたり寝ていたりする。この国の経済事情はよくわからないが暇そうに昼から茶など飲んで話をしている人間も多くいる。ホテルの近くの軽食屋のそばに住んでいるオヤジもその一人である。以下彼と自分のやりとりである。

「日本で働きたいからなんとかしてくれ」        「無理」

「新しい家がほしいから五万ドル投資してくれ」     「無理」

「お前が俺を日本で雇ってくれ」            「無理」

「日本人女性と結婚したいが誰かいないか」       「無理」

「その電子辞書売ってくれ」              「無理」

「俺の家すぐそこだけど見る?」            「見ねえよ」

どうも日本をなにか勘違いして理解しているようだ。日本人に頼めば一瞬にして大金持ち、のような幻想を抱いているらしい。

 

◎9月30日

飛行機が胴体着陸する。死ぬところだった。だが私はそれを写真に収めてネタにする義務がある。着陸した機をカメラに収める手は3分くらい震えてはいたが手の震えはすぐに止み、これで人に自慢できる、という喜びに満ちあふれてきた。「死線を越えた」「修羅場をくぐった」など色々自慢してしばらくは遊べるだろう。落ち着いていたように聞こえるが実際はこんな感じであった。

ウオッ(着地の衝撃)いつもこんな衝撃あったっけしかもなんかガリガリ音するしなんかおかしくねえかでもまさかそんなことねえだろどうでもいいから早く止まらねえかなこいつああスピード落ちてきただが何か進路曲がってねえかこれやべえ曲がったぞこれ斜めったもしかしてやばいかなやばいかもヌオオ煙出た煙しかもチョー焦げくせえやばいオレ死ぬかも燃えるかな爆発するかな燃えたら熱いだろうなあっ窓破った(ネパール人が)早く出ろでも破れた窓でけがしたら痛いだろうなでもお前ら早くしろ燃える爆発する死ぬ〜!結局おれが最後かよ引張り出してくれ早く〜〜!!(この間十数秒)

緊急事態は冷静に対処すべしと言われるがこんな状況では冷静になれようはずもない。

 

 

              サガルマータ

 

◎10月1日

 実をいうと、自分の体は山や長距離走には向いていない。速筋と遅筋のうち速筋が多いのは外見からでも明らかである。山に行くと必ずすぐにへばって後悔する。何で俺はこんな苦しいことをしているんだ、という感じである。だが日本の山なら1泊2日程度で帰るため後悔する時間も短いが、今回は13泊14日という狂気の日程を組んでしまった。疲れて後悔するために山を歩くようなもんである。高度が上がって山の眺めが良くなれば楽しみも増すだろうが低酸素の影響や寒さも増すと思うとますますヘヴィだ。

 

◎10月2日

 衣類を10数着地面に投げ出してその側に座っている人間がいる。何をしているのかと思ったら道行く人に売っているのであった。売れるんだろうか。アジア珍商売の一つとして、体重計を道において10円程度で体重を量ってくれる体重量り屋(?)みたいなものがあるがどちらも儲かっているのか不思議でならない。今回の旅ではカトマンズで最新式の占い付きデジタル体重計を発見し思わず5ルピー(7円)払ってやってしまった。仕事運や恋愛運など説明書きが出たが、これをタイピングしている今現在無職なうえに女にもモテず、これはあまりあてにならない。

 

               プモリ 

 

◎10月5日

 頭がかゆくなってきたので洗髪用のお湯を洗面器に一杯買う。勘違いしないでもらいたいが自分は日本では毎日シャワーを浴びる。こっちの山の中では薪をとるための森林破壊の心配や燃料が貴重なことから、数日おきに洗髪する程度にとどめているのであって自分が極めて不潔好きというわけではない。屋外で頭を洗おうとしたところ、シャワー用の囲いを使ってよいと言ってくれたのですかさず全裸になって全身洗ってしまった。少ない水でも案外体は洗えるものである。

 

◎10月6日

 トレッキングを始めて数日間は我ながら正気の沙汰ではないな、と思っていたが気が付いたら標高5000m近くまで上がってしまっていた。上に行けば崇高なことでも考えられるようになるかと思っていたが、案外頭に浮かぶのはカツ丼やテンプラそば、揚げ出しに浅漬け、ビールなどである。サガルマータまで10数キロの距離まで来ているのに考えているのは所詮こんなことである。

 

◎10月7日

 サガルマータを見られる日がとうとうやって来た。さすがに感動した。へタレの俺がよくここまで来たものだ。頭が悪いとしか言いようがないが頭の悪いのは仕方ないので勘弁して下さい。

 

◎10月10日

 ルクラに着いて一応トレッキングは終了。帰りの飛行機は胴体着陸とか墜落とかは勘弁してほしいものだ。裏日記もこれにて終了。以後の旅行記聞きたい人はメールなんかをくれれば答えます。

 

参考文献

 図書          著者         発行

 

◎ヒマラヤ登攀史      深田久弥 著     岩波新書

 

◎ネパール、ヒマラヤ    中村昌之、      山と渓谷社

トレッキング案内     内田良平 著

 

◎私たちのエベレスト    日本女子       読売新聞社

 女性初登頂の全記録    登山隊 著

 

◎マロリーは        ラインホルト     山と渓谷社

 二度死んだ        ・メスナー 著

 

◎神々の山嶺        夢枕獏 著      集英社文庫

 

 

雑記

 全行程45日の旅でかかった費用の合計は30万程度。トレッキングをしない短い旅行なら20万でも余裕で行けます。(5ドル程度の安宿泊まりなら)当然山に入らなくてもポカラなどからヒマラヤ山脈を眺めることは可能。言葉は英語でほぼ問題なし。

 山好き、シミュレーションゲーム好きならプレステソフト「蒼天の蒼き神の座」も面白い。登山隊の隊長になり隊に指示を出して山頂を目指すのだが、難易度はかなり高く敷居も高いがハマるとやめられない。「内野隊はフィックスロープ張って岡部隊はルート探索で・・と思ったら食糧荷揚げの藤田隊が雪崩に遭ったからすぐ捜索を・・」などと一人ブツブツ言いながら遊ぶのである。群馬県山岳連盟理事長の八木原氏の特別寄稿文も格好良く、『イカロスの敗北以来―――  人類は未知への挑戦を宿命づけられてしまった  そして我々も決して立ち止まることはないだろう  たとえそれが主に挑むことになろうとも―――   エドワード・J・フィッシャー』などというムービーも気分を盛り上げてくれる。重ねて言うがライトユーザー向けではないのでそのつもりで。

 

最後に

 乱筆乱文最後までおつきあい頂きありがとうございました。ご意見、ご感想、旅に関しての質問、結婚して下さいという申し込み(女性のみ)

またはご批判などありましたら下記アドレスまでお寄せ下されば幸いです。

 

 greatdivide99@hotmail.com (ロドリゴ)

 

「神々の座」〜完〜                         

 

 

 

 

 

 

 

       チョルテンと風にはためくタルチョ