小鮎塚と石川千代松博士

2008年2月23日、3月6日訪問
米原の醒井養鱒場に、苔むした小鮎塚がひっそりと佇んでいます。
彦根の「あゆの店きむら」のメールマガジンVOL.45に「小鮎塚」が紹介されていましたので、彦根の帰りに寄ってきました。

フラッシュをたいたので、不気味な画像となりました


彦根市船町に建つ石川千代松像


@皇紀奉祝の石碑?


養鱒場玄関から少し中に入った山際に、苔むした小鮎塚がひっそりと佇んでいました。
漢字だらけの石碑から、読み取れる文字を拾い集めてみました。 右から左に大きく「小鮎塚」、その下に小さな文字で、「琵琶湖から全国へ配送されていた」、「小鮎は他の鮎と同種である」と読み取れます。 皇紀二千六百年十一月十日の日付もありました。 さて、なぜここにこんな石碑が建っているのか? なぜ皇紀なのか? 建立当時はどんな時代であったか考えてみました。 皇紀二千六百年は昭和15年にあたります。 前年の9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し大平洋戦争が始まり、日本中が天皇を神と崇め、否応なしに「一億一心」と戦争モードに突入していった時代だったようです。
当時の政府 大日本帝国の狙いは、鬱積した大衆の不平・不満をこの奉祝会に向けさせることでした。 そんな時代だから、皇紀二千六百年の石碑は、政府への忠誠の証であったものと思われます。 こんな山奥の養鱒施設においても、県の施設であるが故奉祝の意を表わさないといけなかった、それが皇紀歴の石碑の存在理由と考えます。

@なぜ「小鮎塚」であるのか?

これも、あれやこれやと想像を膨らませてみました。

滋賀県のホームページに次のように紹介されています。
「醒井養鱒場」は、はじめ「琵琶湖のサケ」とも呼ばれるビワマス(琵琶湖固有種)の増殖事業を目的とした県営ふ化場として、明治11年に設立されました。 その後、一時民間に払い下げられましたが、 昭和4年に水産試験場附属醒井養鱒場として県営に復帰し、こんどはアメリカから導入されたニジマスの養殖振興を目的として再スタートしました。 昭和44年ごろからは、 日本在来のマス類であるアマゴやイワナの種苗生産供給にも着手し、県内の河川漁業振興の中心的役割を担っています。

小鮎の養殖について、一説に、1909年(明治42年)に石川千代松博士が現在の滋賀県高島市の滋賀県知内養魚場において小鮎の養殖に成功し、1913年(大正2年)6月多摩川上流の放流を皮切りに全国の河川に放流が始まったと言われています。

管理人の父(昭和5年生れ)に聞いてみました。
「姉が米原に嫁いでおり、若い頃に嫁ぎ先に遊びに行ったことがある。当時、醒井養鱒場から流れきている丹生川にはコンクリートで固められた護岸や堰堤は無く、天野川から遡上してきた小鮎や、養鱒場から逃げ出してきたマスを釣った記憶がある」と言う。 当時の環境では、養鱒場まで小鮎が遡上していたと十分考えられます。 あるいは、養鱒場の小鮎が逃げ出してきたのかもしれません。

滋賀県水産試験場は、1900年(明治33年)犬上郡福満村大字平田(現在の彦根市平田町)に開設されました。 現在の水産試験場(彦根市八坂町)の東辺りです。 マス類だけではなく、琵琶湖の水生動植物の研究、特に小鮎の研究には適した立地であったと考えます。 小鮎の養殖研究が彦根で行われていても不思議ではありません。 立地の良さから想像すると、 小鮎の研究は知内養魚場だけでなく、彦根の水産試験場や米原の醒井養鱒場も少なからず関わっていたと思います。

養殖・放流に成功した当時の研究者達は、皇紀の奉祝に銘打ちながら、小鮎の研究成果は偉大である事を後世に残したかった、小鮎の供養も望んでいたに違いありません。 小鮎塚に託したのでしょう。 この場所だからこそ、それが出来たのでしょう。


独断と偏見で想像を膨らませ、好き勝手に紹介しました。 いろいろなご意見もあると思います、ご意見お待ちしています。 間違った表現がありましたら、 速やかに対応いたします。

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