人と違うことの社会的コストを乗り越える

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人と違うことの社会的コストを乗り越える

著者:
Leo Babauta
原文:
原文公開:
2013-9-9
日本語訳:
日本語訳公開:
2013-10-20
日本語訳更新:
「これからは、私自身のやり方で線を描くことにする」ビル・ワターソン

気づかないうちに、私はほとんどの人とは異なるあり方を選んでしまったようだ。あり得ないくらい何度も自分について説明しなければならなかったし、人と違うという理由で私から離れていく人もいた。

それでも、煩わしさや孤立感はあっても、私は人に合わせようとは思わない。

それが私自身なのだから。そして人に合わせるということは、本来の自分から離れるということだから。

私が人と異なるところをいくつかあげてみよう。

  • ヴィーガン(絶対菜食主義)だ。
  • 子どもたちをアンスクーリングしている(学校に通わせていない)。
  • ミニマル主義者だ(そして同じ服を繰り返し着ている)。
  • 家族も私も車を持っていない。
  • 最近では砂糖・小麦粉・揚げ物を口にしていない。
  • 瞑想する。
  • 「仕事らしい」仕事をしていない(人々はブロガーのなんたるかを理解しないようだ)。
  • ほとんど目標を持たずに生きている。
  • ファーストフードを食べない。
  • 借金もなければ家も所有していない(そして近い将来そうする予定もない)。

一つとして自慢するつもりはない。そうしたからといって人より優れているとは思わないし、そもそも私が最初に始めたわけでもない。これは私という人間の一部にすぎない。そして実際、もっと目立たない面でも私が人と異なる点はたくさんある。

私にも人と同じところがたくさんある。私は失敗し、傷し、恐れ、腹を立て、シャイで、自分を疑う。私は人間であり、完璧ではない。

違いが際立つのは、人と関わるときだ。

人と違うことの社会的コスト

人との違いは私を孤立させ、説明を強制し、人と同じようにできることを減少させる。

たとえば私が人と関わろうとすると、こんなことが起こる。

  • 人と食事をするときは、自分がヴィーガン(絶対菜食主義者)であることを常に説明しなければならない。その度に、タンパク源はどうしているのか、人間が(殺して食べる前に)飼育しなかった場合動物はどうなるのか、大豆は有害ではないのか、などという質問に答えなければならない。私の菜食主義が話題の中心になり、私は人と違うものを食べる不可思議な存在になったような気持ちにさせられる。
  • みんながファーストフードやデザートを食べていても、私は遠慮させてもらう。みんな大好きなようだが、私はそうではないので、そこに加わることはできない。
  • 人と違うということは、人によっては私と何を話していいかわからないということだ。なぜなら一般的な話題が私に当てはまらないからだ。彼らにとっては、私と関係をつくることは他の人とそうするよりも難しくなる。
  • 私が人と違う点について、過剰に防衛的になる人がいる。私が子どもを学校に通わせないと言うと、通わせている自分は悪い親だと言われているように感じたり、絶対菜食主義だというと自分たちの食習慣を擁護しはじめたりということだ。
  • 冷やかされたりからかわれたりする(たいていは無邪気なものだが、それでも)。ウサギの餌を食べていることについて、空っぽの家に住んでいることについて、この肉の旨さがわからないことについて(そうでもないが)。
  • 批判される。あるいは単に異端として扱われる。
  • 時には家族さえ、彼らと同じようにしないこと、子どもに間違った教育をしていること(絶対菜食主義者あるいは子どもを学校に通わせないこと)に腹を立てることがある。
  • 人によっては、私たちと同じ食事をすることを拒否する。つまり、家にあまり寄りつかなくなる。
  • 時には私も、不健康な暮らしをしていたり、何も考えずに生きていたり、単に酔っぱらいたいだけの人とはいっしょにいたくないと感じることもある。悪い人たちだとは思わないが、楽しくないのだ。

これらは一部に過ぎないが、感じはわかってもらえるだろう。あなたに当てはまるものはあっただろうか。人と異なることで、社会的な孤立感を感じることがあるだろうか。違いの種類は私と違うかもしれないが、共通点は見つかるかもしれない。

人はこのようにときどうすればいいのだろうか。私にはいくつかの戦略がある。

社会的コストに対処する

上ではネガティブな印象を与えてしまったかもしれないが、実際にはこうした問題に対処する方法はたくさんあるし、ポジティブな面もたくさんある。

  • 違いを受け入れよう。人と違うことはちょっときついかもしれないが、悪いことではない。人と違うということは、あなたがあなたであるということだ。あなたが勇敢にも自分自身の人生を、自分自身の基準と価値観で生きようとしているということだ。メインストリームから外れる勇気があるということだ。あなたが興味深い人物であるということだ。その異質性を抱きしめ、感謝し、受け入れよう。誇りに思おう。
  • 人に何かを教える機会だと捉えよう。人と違う生き方をする理由のひとつは、今とは違う方法もあるのだということを示すということだ。消費至上主義に陥ることも、工場式畜産をサポートすることも、不健康な生活をすることも、子どもの教育に対する責任を放棄することも不要だということを示し(例えばの話だ)、見本になることだ。だから質問に答えることがどれだけ大変であろうと、実際には教え、共有し、新たな領域を開拓する機会に感謝しているのだ。例えば私はアンスクーリングについて話すことが大好きだ。反対意見があることは知っているが、私自身もかつては反対だったのであり、私が得てきた解答をぜひ他の人々とシェアしたいと思う。疲れるかもしれないが、誰かが興味を持ってくれるということは素晴らしいことでもある。好奇心は贈り物だ。
  • 一人でも平気になろう。パーティに出かけて、自分とは繋がりのない人々に囲まれても平気でいることは可能だ。一人でいるからといって、孤独だとは限らない。だからといって孤立する必要はない——次の項を参照してほしい。
  • 好奇心を持とう。パーティで孤立しても、その状況を打ち負かす方法はある。たとえば、自分が人と違うのは、普通の人が手にしているものを持っていないからだとは考えないようにしよう。周囲に対して好奇心を持とう。「彼らには理解できない」と考えるかわりに、理解できていないのは自分の方かもしれないと考えよう。人を知り、魅力や好きになれる部分を見つけ出し、なぜそのように生きているのかを理解しよう。耳を澄まし、目をこらそう。
  • 理解してくれる友だちを見つけよう。これは上に書いたことと矛盾しない。違いを受け入れてくれるばかりか、素晴らしいとさえ思ってくれる人々がいる。彼ら自身も(たとえば)絶対菜食主義者かもしれないし、単にとても個人主義的で、あなたのラジカルさをクールだと感じたのかもしれない。その人たちといろんな話をし、魅力を感じ、もっと一緒にいたいと思うだろう。こうしてあなたは何人かの魅力的で心の広い人々と出会い、繋がることができる。
  • 批判者たちは常にそうであるわけではない。私の異質性を理解してくれない家族や昔からの友人たちを私は愛しているが、もし彼らが常に私を攻撃したり腹を立てたりかげ口をたたいたりしていたら、今ほど彼らと過ごそうとは思わないだろう。また、彼らは私の人生から離れていくことも多い。なぜなら彼らは本当にオープンに議論したいとは思っていないし、そのことが関係を持つことを難しくしているからだ。
  • 違いを優位点に変えよう。人と違うことにはコストがかかるかもしれないが、実際には大きな利点がある。違うということは目立つということだ。誰もがうまく適応しようとしている世界に中にあって、これは良いことだ。また、あなたが興味深い人間だということでもある。それはあなたが他の人ほど安心安全な領域に縛られていないということであり、新しい領域を開拓できるということであり、未知のものを恐れていないということだ。そしてほとんどの人よりも多くのことを学んでいるということだ。ビジネスを始めたり、友人を作ったり、望むように生きたいと思うなら、これは巨大なアドバンテージだ。

人と違った生き方をすることが簡単だと言うつもりはない。それでも、これが私が生きる唯一の方法なのだ。

この記事は、Leo Babauta(レオ・バボータ) さんがUncopyrighted(コピーライトなし)として公開されている記事の日本語訳です。原文同様、この日本語訳もUncopyrighted(コピーライトなし)とします。当サイトの翻訳文書に関するその他の注意事項については、翻訳文書についてをごらんください。