記録しない生活:測定のストレスから自分を解放する

Renji Talk Top > レオ・バボータ関連翻訳 > Zen Habits > 記録しない生活:測定のストレスから自分を解放する

記録しない生活:測定のストレスから自分を解放する

著者:
Leo Babauta
原文:
原文公開:
2012-11-13
日本語訳:
日本語訳公開:
2012-11-17
日本語訳更新:
「測定できないものは管理(manage)できない」——マネジメントに関する古い格言
「喜びなくして達成(manage)はない」——レオ・バボータ

マネジメントに関する古い格言が社会の潮流となり、私たちの仕事や生活を動かしているように思える。曰く「測定できないものは管理できない」。「あなたは自らが定めた限界そのものだ」。「あなたは自ら定めた限界通りのものを手に入れる」。

私自身もその罠にはまっていたことがある。ワークアウト、ランニング、食べたもの、達成した仕事上の全タスク、目標に向けた進捗状況、体重、体脂肪率、習慣を実行した月間日数、1日に書いた文章量、読んだ本、支出、収入、夫妻、サイトのビジター数、広告クリック数、ツイート数、フォロワー数などなどを繰り返し記録してきた。いくつか同時に記録していたこともある。

私だけではない——人生のディテールを常に記録し続けている人々がいる。心拍数から歩数から睡眠時間(そして睡眠の質)から送信したメールの数まで。私たちの社会は、かつてないほど物ごとを記録し、測定しているのだ。

その背後にはどんな考え方があるのだろう。その考え方は正しいのだろうか。そして必要なのだろうか。

測定の背後にある考え方:測定しなければ良くなっているのか悪くなっているのかわからない。何が良くなっていて何がそうでないのか測定しなければ改善ができない。

あるところまで、それは正しい。

執筆時間を測れば、執筆時間が増える可能性は非常に高い。それは測定しているからであり、より意識するからであり、よりフォーカスするからであり、数字に対する動機付けができるからという単純な理由からだ。あるいはランニングの距離を測れば、距離はおそらく伸びるだろう(怪我をするか燃え尽きてしまうまでは)。

しかし、超えてきた丘の数や、ときどきスパートしてみたことや、景色が素晴らしかったことは、どのように測ればいいのだろう。走りながら交わした妻との会話の素晴らしさは。走りながら頭に浮かんだアイデアは。走ることによる健康への影響は。新たに探検してみた場所は。全てを記録してみてもいいだろうが、そうするとただのランニングのはずが、20種類の物ごとを記録し続けることになる。

仕事も同じだ。生産性を1指標でも10指標でも使って測定したとして、それで読者や顧客とあなたとが築いた関係性を測れるだろうか。仕事をどのくらい楽しんだかは。失敗からどの程度学んだかは。誰かの人生をより良くすることで味わった純粋な喜びは。やってみるといい。

特定の指標、例えば時間数や金額や距離を記録するということは、測定できない物ごとよりそれらが重要だと言うのと同じことだ。あなたはそれを、他の全てを犠牲にしてでも改善するべき事項として頭の中心に置く。しかし人との関係や喜びはどうなるのだろう。それらは重要ではないのだろうか。

あらゆることを記録し、測定することには他の問題もある。

  • 記録と測定には時間がかかる——それは何かを行ったり、生活したりするための価値ある時間のはずだ。
  • また、常に改善し、常に測定し、常に管理し、常に改善して改善して改善し続けなければならないというマインドを作りあげてしまう。では、ありのままの自分に満足することはどうだろう。喜びや思いやりや愛する人について考えることは。改善はいつ終わるのだろう。満足できるときは来るのだろうか。それが生活する中で重要なことなのだろうか——終わることのない向上や、常に改善することや、現状では決して満足できないことが?
  • たくさんのことを記録し、測定すればストレスがかかるし、数字が良くならなければ、あるいは望んだほど良くならなければ、失望する。
  • それに何か測定する対象を選んだとして、その選択が正しいとどうしてわかるのだろう。それこそが唯一重要なのだとどうしてわかる? それは人生の見方を狭めている。
  • そんなことをしても幸福を増してはくれない。満足させてもくれない。今の瞬間に私たちを留めてもくれない。

まだまだ続けることができる。記録や測定はツールであり、用いることに何の問題もない。もちろん私も何度も用いてきたし、今でもほとんどの人にお勧めする。ただ、他の考え方も検討し、定説を疑い、何が自分たちにとって最善なのか試してみるべきだと考えているだけだ。

記録しない生活:仕事と生活のもうひとつのあり方

記録することも測ることもしなかったら、どのように仕事や生活をしたらいいというの? 今日ランニングをしているとき、妻のエヴァがたずねた——彼女は向上と持続への動機付けのために、走った距離やタイムやペースを記録したいという思いが強いのだ。その必要はない、と私は答えた。

子どもを持つ夫婦を例にしよう——私たちは改善と継続への動機付けのために、全ての行動を測定するだろうか。

  • 抱きしめる回数
  • 子どもたちに本を読んだ時間
  • 子どもたちの食事を作るために使った時間
  • 子どもが何かやらかした後始末
  • 運動場や公園に連れていくこと
  • キャッチボールをすること
  • シャワーや着替えを手伝うこと
  • 何か新しいスキルを教えること
  • 一緒に寝転んだりだらだらすること

などなど。そんなことはない。私たちはこれら全てをただ行い、他にもたくさんのことをする。なぜだろう? 記録することによる動機付けなしで、どうしてこれだけのことができるのだろう?

単純なことだ。私たちはそうすることが好きだからしているのだ。子どもたちを愛しているからしているのだ。

親としてもっと学び、もっと良い方法はないか探りたいという気持ちも動機になる。記録したり測定したりすることによってではなく、子どもを持つ喜びや、より良い親になりたいという気持ちからだ。そこには記録など必要ない。

ランニングはどうだろう? 走る喜びのために走れないのだろうか。自らへの愛が動機にはならないのだろうか。それに、私たちが走った距離を誰が気にするというのだろう。そんなものは実際には意味のない、恣意的な目標にすぎない。すごく楽しいからという理由で走ればいい。自然や素晴らしい景色を楽しむために走ればいい。愛する人と会話するというシンプルだが限りのない楽しみのために走ればいい。

仕事はどうだろう。測定していないからという理由で、私たちは突然仕事の手を止めてしまうのだろうか。そんなことはないと私は思う。

ここのところ私は仕事に関して何も記録していないが、驚いたことにちゃんと仕事を続けている。それが喜びを与えてくれるからだ。そして親愛なる読者の皆さんへの愛があるからだ。支払いがなくても私はそれを続けるだろう。何かの測定値がどんどん低下して闇に消えてしまったとしてもだ。私たちが何かをする理由というのはそういうものだ。数字を良くするためではない。数字は無意味で、恣意的で、限定的で、狭く、そして心がない。

そのこと自体への愛を、あるいは他者への愛を動機にしよう。それは測定不能であり、本当の意味で人生を変える力を持っている。

この記事は、Leo Babauta(レオ・バボータ) さんがUncopyrighted(コピーライトなし)として公開されている記事の日本語訳です。原文同様、この日本語訳もUncopyrighted(コピーライトなし)とします。当サイトの翻訳文書に関するその他の注意事項については、翻訳文書についてをごらんください。