Facebookのない生活

Facebookのない生活

著者:
Leo Babauta
原文:
原文公開:
2013-2-19
日本語訳:
日本語訳公開:
2013-2-24
日本語訳更新:

Facebookを止めたのは、意思を持って生きたかったからだ。

17ヶ月前、私はFacebookアカウントを削除した——停止したのではなく、削除したのだ——そして、心の底から安堵した。

もう更新をチェックする必要もないし、友だち申請に対応する必要もないし(この人の近況を知ることは私の人生に必須だろうか? 私の近況を知ってほしいだろうか?)、人生のあらゆる出来事を投稿する必要もないし、シェアされるべきでないものがシェアされることで不快な思いをする必要もないし、誰かのビジネスや関心事について聞かされる必要もないし、誰がFarmvilleのどのゲームに参加しているか気にする必要もないし、誰かのランチやパーティーの様子を見る必要もないし、「笑える」写真を見る必要もないし、投稿した記事や写真をみんなが「いいね!」してくれたかどうか気にする必要もないし……まだまだある。

他の人のしていることを責めているわけではない。ただ、ソーシャルネットワークにどっぷり浸かったときに積み重なってくるノイズの例を示したかったのだ。

Facebookのない生活のエコノミー

Facebookのない世界に暮らすというのは、興味深い体験だ。それが私だけでないことは明らかだ——Facebookから離れた人は他にもいるし、そもそも参加してもいない人もいる。

今では地球半周分離れたところに住む家族の日常を常にチェックすることはできない。重要な連絡はメールや電話で入ってくるが、興味深いディテールの一部は抜け落ちてしまう。しかし、それほど興味を持っていない他のディテールについても同様だ。そして私の経験では、Facebookがもたらすノイズと必要な情報との比率は10対1くらいだ。

私は以前よりも静かな日々を送っている。自分の内面に集中できる。必要に応じてTwitterとGoogle+は使っているが、一日一回以上チェックすることはない。かわりに文章を書く。長文の記事や小説を読む。歩き、エクササイズする。子どもたちと遊び、妻と過ごす。そして学ぶ。

私は今でも自分の考えを形にすることができる。FacebookもInstagramもPinterestもWhatsappもなしでだ(ちなみに後者三つはそもそも利用したことがない)。このブログで、そして必要に応じて自分でコーディングし、管理をしている手作りサイトを使って。サイトの管理は難しいことではないが、わずかな技術的な基礎を学ぶ気になれないという人も、数あるフリーのブログサービスを使って同じことができる。

協同作業も問題ない。私にはメールでアドバイスを求めることができ、普段一緒に作業する仲間が何人かいる(そこではGoogle Docsのような共同作業に対応したツールを使うことが多い)。SkypeやGoogle+のハングアウト機能を使えば一対一の会話ができる。ソーシャルネットワークをあまり使わないからといって、完全に孤独というわけではない。共同で作業し、自らを表現するために様々なツールを組み合わせているというだけのことだ。

ひとりで過ごす

私たちは社会的な動物であり、オンラインでの繋がりを求めること自体は自然だ。しかしその繋がりは、あちこちに書き込まれるコメントと「いいね!」と親しい誰かとのメッセージのやり取りからなる、表面的なものにすぎない。一対一でお茶を飲んだりワークアウトしたり公園で散歩したりすることの豊かさを欠いている。

私たちは繋がろうとするが、ひとりでいることを恐れているのだろうか。

空の受信箱には何か恐ろしいものでも潜んでいるのだろうか。FacebookやInstagramやTumblrやその他のソーシャルサイトがなければ、退屈のあまり死んでしまうのだろうか。

ネットを切断して、何にも邪魔されず、自分の創造性だけを連れて、ひとりでいることの恐怖と向き合う、そんなことはできるのだろうか。

試してみてほしい。一日の間、普段利用しているFacebookその他のソーシャルサイトを開かずに過ごしてみる。メールやテキストメッセージも使わずに過ごしてみる。ネットを絶ち、ただ何かを創り、じっくりと考え、記録し、スケッチし、ブレストし、歩き、ひとり座って瞑想し、本を読む。

ひとりで過ごすことは恐ろしいかもしれないが、やがて自分で自らの友人になることを、そして自分以上の友人は存在しないことがわかってくるだろう。それは価値ある学びだ。

結論

Facebookから離れることで、ソーシャルな繋がりと、友人や家族や仲間たちの最新情報を失うことになる。もう外の世界と同期していないのだ。つまり、自分自身のリズムで歩かなければならないということだ。自ら道を切り開き、自らの人生のリズムと理由を見いださなければならないということだ。

簡単なことではない。カモシカにとっては一頭で行動し、道を切り開き、ライオンに食べられる恐怖と闘うよりも、群れに加わり、他のカモシカと一緒に動く方がずっと容易だ。それでもカモシカとしてのあなたに、ほんの少しの間ひとりで過ごして、何が起こるか試してみてほしい。静けさはいろいろなことを教えてくれる。ノイズはそもそも必要なかったということ。他のカモシカも自分たちが何をしているかわかっていないということ。誰もが深く考えもせず、行き先さえ意識せず、ただ群れて走っているだけだということ。

自分ひとりで行動できるようになることは有益だ。それができるという自覚は力を与えてくれる。他人との繋がりを一日でも二日でも遮断できること、自分自身を声を聴き、自分自身で道を切り開き、自分自身の発想と意見に耳を傾けることができる……そしてやっていけるとわかっている、そういう力だ。

「チアーズ」のテーマソングが教えてくれたように、今の時代に自分自身で世の中を渡っていくには膨大な力が必要だ。おそらくあまりに多くの力を必要とするために、私たちはついソーシャル・ネットワークをチェックするという、いつもの居心地の良さへと陥ってしまう。しかし、自分自身の道を歩くために全力を尽くすというのは、価値ある努力だ。ひとりで歩く道には、魂をかける価値がある。誰も歩いたことのない道を踏みしめ、広がる大自然の空気を吸い込み、自分自身を友として歩く。全力を傾けるだけの価値がある。

「意思を持って生きること、人生の重要事のみに関わること、その教訓を学ぶこと。そして、死を前に自らが生きてこなかったという事実に気づくような事態を避けること。そう願って私は森に入った。」
(ヘンリー・デイヴィッド・ソロー)

この記事は、Leo Babauta(レオ・バボータ) さんがUncopyrighted(コピーライトなし)として公開されている記事の日本語訳です。原文同様、この日本語訳もUncopyrighted(コピーライトなし)とします。当サイトの翻訳文書に関するその他の注意事項については、翻訳文書についてをごらんください。