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須山インタビュー
今年(2002年)9月22日、新横浜スペースオルタでのライブ主催者である北里義之さんが発行する月報「OMBAROGUE」に須山公美子のインタビューが掲載されました。北里さんのご好意で当サイトに転載させていただきます。

---マンダラ2でのライヴ拝見しました。アコーディオンを抱えてすっくと立つ姿、りりしかったですね。良質のカバレットを見ている感じでしたが、ブレヒトが生きた大戦間のカフェ音楽なんて、意識してます?

須山:

 はい。もともとベル・エポックのシャンソンには興味があって、「語りのシャンソン」とか、「文芸シャンソン」の土台を作ったと言われているアリスティッド・ブリュアンやイベット・ギルベールの仕事、特にイベット・ギルベールのうたの作り方は勉強させてもらったと思います。もうすごいうたがスリリングで、何ともいえない溜めとか突っ込みがあって、かっこいいんですよね。あれ、目の前でやられたら、どんな感じかなと思います。
 日本語であの「快感」そのものを再現出来たらすごいな、とか。よく無茶なことを考えてます。戦後もそうした伝統は残ってて、グレコなんかもサンジェルマン・デ・プレのカフェの出し物にかり出されて、キャリアを始めてますよね。 ブレヒトとか、大戦の間のキャバレーソングはそれとは別に興味があって、なんかかっこよさが似てるな、と思ってたんですが、後になってわかったのは、フランスのそうした「語りのシャンソン」や「文芸シャンソン」がドイツに入って、ドイツのキャバレーや寄席で発展したのがドイツのキャバレーソングなんですね。だからドイツでも実際、「シャンソン」と呼ばれていた。ご存じだと思いますが、ブレヒトも若い頃は、酒場でギター持って歌ってたし。いずれにしても、うたがダイレクトに大きなちからを持って、ひとに届けられた時代です。そういう意味で非常に興味を持って見てきましたし、今でもそうです。
 7月には、そうしたうたのライブを大阪で行なう予定がありますし。今、資料かかえて途方にくれてます、ドイツ語わかんないんで、いろんな人の手をわずらわせて、譜面集めてもらって。


---そうなんだ。シャンソン体験とブレヒト・ソングとの出会いにはずれがあるんですね。須山さんの本格的なシャンソン体験って、いつ頃になるんですか。

須山:

 歳がわかっちゃいますけど、ちょうど小学校高学年の頃、いわゆるフレンチ・ポップスブームで、テレビでほら、日曜日の夜でしたっけ、ほら、「サンデー・ヒット・パレード」という和洋折衷のうた番組があったでしょう? ポルナレフなんか引っ掛かってて、「シェリーにくちづけ」とか、だからロック体験の前にポルナレフが君臨してますね。夢中でしたから。アルバムは全部持ってたし、コンサートは二度行きました。譜面買って毎日弾いて、フランス語の勉強も始めた。でも「シャンソン」としては聴いてないんですよね。
 シャンソンを発見したのは、変身キリンのライブSEに、本田久作くんがダミアの「暗い日曜日」を持って来た時です。なんてすごいうたなんだ、と。変身キリンはメンバーの高畑さんがフランス留学考えてたり、比較的シャンソン好きバンドでした。で、わたしブレルのアルバム買うから、高畑さんレオ・フェレ買って貸しっこしましょとか、東芝EMIの1500円のシャンソンのシリーズ買いあさったり、そうそう、イヴェット・ギルベールとブリュアンのカップリングアルバムなんて、このシリーズにあるんですよぉ、まさにうたの宝の山を「発見」した気分でした。ざくざく聴きましたよ。気持ちとしては、ルー・リード聴いて、トム・ヴァーレイン聴いて、ハミル聴いて、ブレルやレオ・フェレに辿り着いた、と同一線上にあるものとして聴いてましたね。ダミア、ピアフ、みんなかっこいいと思いました。


---ダミアの「暗い日曜日」って、発売当時あまり自殺者が続くんで、ヨーロッパで発禁になったっていう有名な歌でしょう。変身キリンではシャンソンのカヴァーなんてやらなかったのですか?

須山:

 変身キリンでカヴァーした曲といえば、「ここに幸あり」と、「エメラルドの伝説」だけだったんじゃないかなあ。メインボーカルの本田さんはカヴァーは歌いたがらなかったですね。その二曲は、わたしがうたいましたし。
 日本語のシャンソンの発見もそのころです。当時芦屋に自宅を改造してスタジオにしてた同世代の男の子がいました。かげろうのひとたちがよくごそごそやってたところで、そのスタジオの彼が、「須山さん、絶対好きやで」と美輪明宏さんの『白呪』というアルバムを貸してくれたんですね。「従軍慰安婦のうた」なんか入ってるやつです。これがすごかったんですよ。これ聴いてなかったら、1stのB面は出来てないです。もう返したくないくらい気に入った。


---彼のどこがそんなに気に入ったんですか?

須山:

 うたの中にひとつの世界を閉じ込めるようなやりかたがまず、とても新鮮でした。その世界にも、その世界を表現するボキャブラリーにも、うたとしての表現の面白さにもハマりました。
 ロックの訳詞などを見ていると内容がすごいてんこ盛りやったりしますよね。日本語やったらこんだけ言葉入れるの無理よね、と半ば諦めていたところがありました。フォークには友部さんのようにそれに成功しているひともいますが、あれはディラン通ってで、わたしはそのあたり通ってないので、ああいう風にも出来ないと思ってました。で、美輪さん聴いて、あ、こんな風にも出来るんだ、と。娼婦のうたを通して、その向こうにある自己や、社会に対する想いや怒りを表現するとか。それは「女はすべて娼婦願望がある」なんていう、セクハラめいた解釈とは対極にある。美輪さんがどんなひとかは当時余りよくは知りませんでしたが、すごい骨太な「表現するわたし」がどーんといる感じに圧倒されました。
 で、日本語でシャンソンうたうことにがぜん興味を持ちました。あのころはフランス語もそんなに出来なかったですし、とにかく日本語でうたってるひとに出逢いたくて、朝日カルチャーセンター行ったんですね。あっ恥ずかしい。今はどこのカルチャーセンターにも「シャンソン教室」があるという、ハイソ向けカラオケみたいな事態になってますが、その頃は「走り」でして、越路吹雪さんの宝塚歌劇時代の娘役だった深緑夏代さんという歌い手さんが講師でした。私は21才で、いちばん若くて不思議がられました。教室に一年、個人レッスンに一年程お世話になり、個人レッスンでは宝塚のトップのひとたちや、プロで活動しているお弟子さんのレッスン見たりしました。深緑さんはクラシック出で、基本にウルサいひとでしたから、わたしの自己流に筋通してもらったと思ってます。とはいえ宝塚系ですから、理想は「うたって踊れる」、「若いひとは若々しいシャンソンを」なんですね。「ダミアやりたい」などというと、「あんた若いんだから、もっとビートのあるうたを選びなさい」、アダモとか勧められる。


---わはは。須山公美子のアダモって、聴いてみたいけど。

須山:

 あの年齢のひとたちにとっては、アダモって、リアルタイムな若者の象徴なんですよ。石原裕次郎。でも80年頃の話で、フレンチ・ポップスさえすっかり下火になってる時代にアダモ。私はずうっとそれまでイギリスやアメリカのかっこいいロックいっぱい聴いてるんですよぉ。で、シャンソンを「発見」したのに、なんでわざわざあんなアメリカ寄りのうたを歌わなくちゃいけないのかと、フランスはビートに関しては、日本と同じく輸入する立場で、アダモなんてもうかっこわるくて聴いてられない、なのにそのあたりしっかりやれと。
 今なら時代も違いますし、レトロでアダモってのもありですけど。でもあのころはタイムラグ小さいし、ジョークになんないですね。で、だんだんレッスンに行かなくなりました。  そのすぐ後に作ったのが1stです。シャンソンのお店で歌い始めたのはもっとずっと後で、それまではオリジナルのメニューの中にシャンソン織りまぜて、うたってました。


---たしか実際にフランスにも行かれたんでしたっけ。

須山: 

 何度か行きましたが、長い滞在はありません。音楽体験としては貧弱なものです。面白かったのは、モンマルトルのラパン・アジル。82年頃かなあ。観光の名所でもあるので、早い時間はそういうお客さん向けのメニューしか聴けない。でも高畑さんが留学してて、彼女が一緒にいたので、ずっと粘ったら、12時廻って周りは地元のおっちゃんやおばちゃんばかりになってきて、そこで聴いたうたはすごくよかったです。そこの歌い手さんのオリジナルのシャンソンでした。あそこは基本的にノーマイクなんですね。ノーマイクのうたの面白さに気がつきました。なんかでも、こういう話って、沖縄行って、地元の民謡に感動したってのとレベル変わりませんね。まあ、そんな感動の仕方だと思って下さい。エスニックなレベルの感動です。ちょっとした手拍子も、全然入れ方が違う。
 そのときよーくわかったのは、結局、当たり前のことなんですけど、わたしの思っていたようなシャンソンは、録音音源の中以外、もうフランスにもこの世界のどこにも存在しないということでした。ベル・エポックのシャンソンのオリジナリティを生み出したのは、パリ・コミューンの精神そのものでした。その精神の器として生み出されたシャンソンのスタイルは、完成されて、今後はまだわかりませんが、「一旦終わった」。
 精神が死んだとは思いません。スタイルでない精神としては、ゲンズブールなんかまだまだ元気でしたが、彼は当時はレゲエに夢中だった、ですよね。彼にとって、それがいちばん面白かったし、器としてふさわしいと思ったのでしょう。60年代においしかった歌い手さんたちは、生き残っているひとたちはもうほとんど「守備固め」の時期でした。それから考えると、ゴダールなんてしぶといですよねえ。あ、ちょっとだけ若いのかな。メディアの違いもあるでしょうが。 ただその「器」があんまり魅力的だったので、こだわり過ぎた部分はあります。今から考えると、むしろ退行だったかもしれません。特に日本のシャンソンには、美輪さんではなくて、石井好子さんを頂点とするヒエラルキーがありますから。どうしてもその中で動かないといけない部分は出て来ます。クリエイティヴなものではないのです。でもそれは関係ないと思えるようになりました。わたしはシャンソンはうたいますけど、シャンソン歌手ではありませんから。最近は楽ぅにシャンソニエでもへろへろ歌ってます。
 92年には主に南フランスに行きました。アルルのあたり、ゴッホの「色」が実際にあることにものすごく感動しました。ボーヌ川も、まるっきり絵に描かれたあんな感じで。ふぁーっとけぶって、広がっていて。ひたすら暑くて、ゴッホの病気が悪化したのはわかるような。帰りにパリのフナックに寄りましたが、アフリカやアラブ、中近東音楽のソフトでいっぱいでした。わたしもそんなのをいくつか買って帰りました。フェイルーズの古いカセットとか、いろいろ。当時はまだまだ「現地からの輸入」という感じに見えました。今はサッカーじゃないですけど、アフリカやアラブにルーツを持つフランス人音楽家のひとたちに同じ精神が受継がれているように見えますが。歌詞なんか、すごいいいらしいですね。
 一昨年にレコーディングでパリに行った時は、ショップを巡る気持ちの余裕はありませんでした。でも空いた時間には沢山散歩しまして、季節もよかったし、ノートルダムのガーゴイルゆっくり眺めたり、うたのモチーフ沢山連れて帰ってきました。「おお、これがベンヤミンくんが夜な夜なうろつき、その昔はネルヴァルがザリガニを散歩させたというパッサージュというものか」とか。


---シャンソンに引き寄せられる時期があって、シャンソンから揺り戻される時期があるんですね。そういうこととブレヒト・ソングとの出会いは関係があるんでしょうか。

須山: 

 フランスで最初にフランス人によって行なわれた三文オペラには、イヴェット・ギルベールの名前があります。もうかなりの歳だったと思いますが、何の役だったんでしょうね。
 ブレヒトソングとの出会いは、高校生の時で、人並みにドア−ズの1stのアラバマ・ソングです。日本語のライナー読んで、「ブレヒトソング」って何だろう、と思ってました。それからダグマーやアンナ・プリュクナル、ミルバ、いろいろ聴いて、なんて面白いうただろうと思いました。日本語では加藤登紀子さんのアルバムも聴きました。このあたりはほとんどヴァイルですね。アイスラーの作ったブレヒトソングは、A-Musikがよくライブで「連帯の歌」を演奏していて、すごくかっこいい曲だなあと思ってたんですが、ブレヒト/アイスラーのうただと知ったのはずっと後です。竹田さん、この曲は当時いつもMCなしで始めてたんですよ。金芝河のMCとかは、何度も聴いて覚えてるのに。
 加藤登紀子さんのアルバムの歌詞は高橋悠治さんで、過不足ないのですが、わたしの言葉にはなりいにくい気がしました。で、自分のことばで歌いたいと思ったので、いろいろ資料を集めて、ドイツ語は出来ないんですが、自分のことばに組み立て直してうたい始めました。ピアノは清水一登さんや、原田節さんに弾いてもらってました。87年ごろ、じゃないでしょうか。ヴァイルのうたは、瀬間千恵さんがシャンソン歌手としてはずいぶん歌っています。そのせいか、シャンソンの店でヴァイル歌うひとは大阪でも結構いました。でもよくないんですよ。嫌悪感を覚えることもありました。シャンソンの店でうたい始めた頃は、「海賊ジェニー」とか、「バルバラソング」なんかをレパートリーにしてたんですが、そういうよくないうたを聴いて、歌うのを止めました。何か違う、という感じがしてました。
 でも何が違うのか、よくわからなかったのです。エキセントリックにうたうひとがいて、その解釈は違っているんじゃないか、もっと計算された中に歌われるものなんじゃないかと。でも叙事的演劇とか、異化なんてことばを知ったのもずいぶん後ですから、そうした解釈が曲の意図の対極にあるということまでははっきりとわからなかったんですね。
 初期のブレヒト/ヴァイルの作品は、非常によく出来ていて、出来過ぎているくらいで、そのせいでエンターテイメントとしても充分「風変わりな面白いうた」なんですね。「あー、面白かった」で済んじゃうような。これはワイルの資質によるところが大きいと思いますが、初期のブレヒトもそういう部分があった。諷刺の域を出ていないところで、才能に支えられて成り立ってしまっている。すごい才能だと思います。特に、この時期のヴァイルは、彼の音楽人生そのものを見渡しても、ちょっとものすごいです。それ故に、ひとの依って立つところを問うていくような、何故わたしはこの音楽に引かれるんだろうと自らに問うていくような読み方をしなくても、充分に楽しめてしまう。三文オペラの発表当時の成功は、ある意味、そういう錯覚に支えられた部分が実際にあったわけで、そのあたり、わたしも勉強不足だったんですね。  
 それに音楽は、ジャズの要素を加えたキャバレーソングでしょう。最初にちょっと話が出ましたが、もともとドイツのキャバレーソングはその成り立ちにシャンソンの血が濃く流れ込んでいる。だからシャンソン的な「語り」のアプローチが容易にハマるんですね。日本語でやっても、かなりそうなる。それなりにそれらしい、というところにはいくんです。で、ちょっとインテリっぽいかんじがするでしょう? 文芸的でもあるし。 まあそれで、すっきりしなくて、うたうのを止めました。
 そんなこんなしてて、6年前になりますか、大阪で左翼系の新聞に音楽に関する雑文を書いているひとから、反戦歌のライブをしないかと誘われました。私があるシャンソン系のイベントでボリス・ヴィアンの「脱走兵」と「アラバマソング」をうたったのを聴いて、是非、と思ってくれたそうです。彼がいろいろ集めてくれた資料のなかに、トホゥルスキー/アイスラーの「塹壕」がありました。とてもうたい易い、よいうただと思い、うたってみました。そしたら、「アイスラー面白いと思われたなら、アイスラーソングだけのライブをしませんか」とけしかけられました。勉強不足をさらけだすだけの話になっちゃいますが、それで勉強を始めて、初めて、「ブレヒトって、こんなひとだったんだ!」という感じで、大変なことを引き受けたと思いました。ほんとに、真っ赤で。それまでわたしはヒューマニズムの立場からしか反戦や平和は捉えていなかったし、それで充分だと思ってましたから。反戦歌のきっかけはフランスのムルロワ岩礁の核実験の再開と、阪神大震災でもあったので、とにかく反戦を軸にして組み立ててみようとやり始めました。
 実際にうたをつくり始めて思ったのは、いままでわたしがしてきた事がすべて活かされるようなうただと思いました。シャンソン、パンク、持てるものを総動員してうたえるのは楽しいですよ。夢中になりました。ヴァイルのソングよりアイスラーのソングのほうが、けれんがなくて、肌に合うように思いました。
 シャンソンの店では、その間ずっと、なるだけ勉強と思って、古くてしっかりしたシャンソンを注意深く歌ってました。それは今もそうしています。でもこの春から、ソロライブの時に限って、アイスラーを中心にブレヒトソングを解禁しました。もうシャンソンの店でも揺るがない、色がつかないうたをうたっていかないと、と思ったからです。


---1998年に「ブレヒト祭」を企画されたことが、須山さんの大きな転機になったのですね。たしかに、アイスラーって須山さんの歌が持っているスピード感だとか反骨精神だとか世界観によく似合うと思います。関西のダグマー・クラウゼと言ってしまいたいくらい。ただ、どうでしょう、ソ連が崩壊したあとで、オルタナティヴな社会を夢見ることのできた人達の歌を歌い続けるのって、下手したらパロディーになってしまうところがないでしょうか。

須山: 

 関西のダグマー?「熱海のプレスリー」みたいですねえ。困るなあ。
 「にもかかわらず」、なんですよ。にもかかわらず、今もなお、どうしてこのうたたちに愛おしさを感じるのだろうか。ブレヒトソングに関しては、明らかに歌詞が先行しています。でもそこに読み取れるのは、プロパガンダだけでしょうか。お酒飲んでハリウッド・ソングブックなんか聴いてると、泣けてきます。もう切なくて。あんたらなあ、何でそんなに頑張ってはんねん。えらいやないか。今にも切れそうやないか。何でそんなに大変な時に、きれいな曲書けんねんって。かなり偏った聴き方だと思うから、お酒飲む時は聴かないようにしてますけど。アイスラー御自身のうたも好きです。すごく楽しそうなんですよ。一杯機嫌って感じで。ブレヒトは、レシタティヴの録音しか聴いてませんが、高めの声で、声量無さそうですね。
 わたしたちがうたと向き合う時、そこにあるのはうただけです。作り手でもプロパガンダでもありません。言葉もわからないですから、そのメロディー、響き、テンポ、そして演奏者たちがどのようにうたい、演奏しているか。それだけです。まず、それがきます。で、いいなあと思えば、そのうたの歌詞を見る。こんな事うたってたんだ、とそこで思う。
 多分、「ずれ」のようなものがあるんじゃないかと思います。わたしはすべての芸術的著作物や芸術行為は、社会の価値観をかならず反映すると思ってますが、特にある主義主張に共感して、それに添った作品を作っても、人間は非常に不確定なエレメントですから、必ず添い切れない部分が出来てきます。それが「ずれ」です。その「ずれ」を容認するかしないかが、全体主義的な方向に行ってしまうか、多様な価値観を容認しつつ筋が通った社会へと向かって行くかの分かれ目なんじゃないかと思うんですね。「にもかかわらず」は、その部分だと思うんです。それが人間のイマジネーションであり、自由であり、個人そのものなんじゃないでしょうか。で、その「ずれ」の内容が問われていくし、作品の芸術としてのよしあしや豊かさは、そこにあると思います。そして自由主義社会においてもそのずれの容認度にはずいぶん開きがあると思います。
 わたしはほんとに不勉強で、共産主義について論じられるほどの知識はありません。反戦というのは共産主義というよりヒューマニズムで、ブレヒトにおいてもやはり、ヒューマニズムです。ファシズムとの戦いは、階級闘争じゃないからだと思います。あれもまた社会主義の一形態ですから。共産主義との違いは、国を超えた労働者の横ならびの連帯か、ロマン派的な超越的自我を拡大した、おらが国至上であるかです。ブレヒトが告発しているのは、ファシズムを台頭させた、目先きの利益に一喜一憂するプチブル的で自己愛に満ちた「ものの見方」でしょう。そいつをどうにかせえと。自己変革を目指せ。東ドイツになっても、いっこも変わっとらんやないかと。いっこも変わらん、が今もそうだというのは、ヨーロッパにおける極右政党の躍進が証明しています。小泉内閣当初の支持率の高さも、通じるものがありますよね。スーパーマンが出て来て、ちょちょいのちょいって世直ししてくれるような錯覚を持っていた。実際に社会を変えるのは、細かい努力のたゆまぬ積み重ねでしかない。
 「ずれ」をさらに拡大し、豊かなものにする演奏が出来ればいいんですが。「ずれ」をそぎ落としてしまえば、おっしゃるとおりの時代錯誤あるいはとんちんかんなパロディーになってしまうでしょう。うたにおいてはすべてうたに表れますから、わたしなぞ自分の偏狭なものの見方にいつもひやひやしてしまいます。ばれたかー、てなもんで。


---具体的に、ブレヒト・ソングをどういうふうに歌おう、どんな音楽にしようというアイディアはお持ちですか。彼らの意図や音楽を忠実に再現しようとされて いるわけではないのでしょう?

須山: 

 まずは「いいなあ」からくるんですよ。いっとう最初はエルンスト・ブッシュのけれんのないうたがかっこよくて、なるだけあんなふうに歌えたらいいなあ、なんて思いました。大阪で「ブレヒト祭り」企画した98年頃は、まだそんなふうに思ってました。最初はそれでよかったと思います。ところが、共演者が「ちゃうやろ」と怒ったり。千野秀一さんとか、頭痛かったですよ、理論の実践としての演奏、という発想がなかったから。そのあたりから、なぞっても駄目、単に共鳴してもあほくさい、ブレヒトやアイスラーを祭り上げるのはもっと違う、そうした視野が開けてきました。ロマン派的にアプローチするのが最もブレヒト的でないということにも、失敗しながら気がつきました。
 で、そんなこんないろいろやって、うたわなかった時期もありますが、今は3つのやりかたで具体的にうたってます。これらのうたを「特別なうた」の場所に置くのはやめようと。余り慎重にならずに、好きなら素直に、とことん「わたしのうた」にしちまおうということで。
 まずひとつ目のアプローチは、キャバレーソングとして。シャンソンのお店なんかでも、ピアニストさん従えて、ハンドマイクでうたっちゃいます。こういうふうにやろうと腹が座ったのは、さっきも言いましたが最近です。こうでないといけない、という枠が、わたしの中で取れました。シャンソンのお店は、お客さんの年齢層も高いですし、あんまり啓蒙的にならないように、快活にと。キャバレーソングといえど、ワイルがつけたうたよりアイスラーがつけたうたは格段に歌詞内容が重いですから。でも若いひとはシャンソンのお店に来づらいですね。ちょっと格式があったりすると、チャージを自由に設定できないのがネックです。「わたしだったら高くてよう来れない」は、まずいですよね。なりふり構ってると潰れるぞー、と思ってますが。
 二つ目はオリジナルと交えて、小ぶりなうたを好きなようにアレンジする。モリタートとかシンプルなうたは、アコの弾き語りをします。楽器演奏者としてはわたしは超三流ですが、ピアノを使ってもいろいろやってみます。リハで、ベースの船戸さんと「うーん、アイデアは悪くないけど、音楽になんないすねー」とか。「モルダウ河パンクヴァージョン」というのがあって、全速力でごんごん弾くんですね。指は当然もつれます。絶対もつれるとわかってて人前で演奏する。完璧に弾けたら、きっと恥ずかしいでしょうね。むっちゃ練習したのがまるわかりになるから。とはいえ、楽器に気を取られるとうたがおざなりになるので、最終的には出来る限りうたで引っ張っていけるように持っていきます。
 三つめが、今は休止してますが、さっきちょっと触れた、ピアノの千野秀一さん、ベースの船戸さんとのトリオプロジェクトです。千野さんは御自身ブレヒトやアイスラーをよく勉強してて、こうしよう、ああしようというのを持っている。さらにもっとすぐれた音楽家たちの仕事もよーく見ている。見晴しいいんです。ブレヒトソングの何が現在に活かせて、そこから何を創造していくかまでちゃんと考えてるひとなので、眼からうろこが落ちました。このプロジェクトでないと出来ないうたが、何曲もあります。


---ブレヒトの詩やアイスラーの音楽と身近に付き合うことで、須山さんご自身の曲作りにも変化がありました?

須山: 

 わたしには絶対に書けないようなうたなんですよ。特に音楽に関しては、メロディーから和音の付け方、リズム、何から何までわたしには思いもよらない。
昨年頃、普通の一番二番三番で、それぞれにサビがあって、といううたじゃないうたが書きたくなって、ひと夏かけて一生懸命書きました。一般受けは割とよかったのですが、共演者にはさんざんこきおろされました、アイスラーが好きなのはわかるけど、それがわかってどないやねんって。クオリティが低いって。わからんって。こういううたはばりばりクラシックの訓練を重ねたひとでないと、うたいこなせないって。
 わたしはうたいながらむずかしい演奏は出来ないので、三段譜も書いたことないんですよ。でも、こういううたをするなら、せめてその程度は自分でアレンジして出すもんだって。
 もちろんアイスラーが作った曲がみんな優れているわけではないし、ヴァイルだってたるいなーと思う曲が結構あります。逆にわたしだって、クオリティだったら負けないもんね、という曲は、ありますよぉ。でも合格ラインの曲のパーセンテージは彼らのほうが遥かに高い。だって、彼ら、曲だけ書いてるんだもの。自分でうたわないもの。歌詞もほとんど書かないもの。曲づくりからみると、やっぱりハンディありますよ。また、クラシックの歌い手さんに比べれば、トレーニング量は全然少ないと思いますし。だって、彼らは曲書かないもの、歌詞書かないもの。
 言い訳し出すときりはないんですが、つまり、努力して出来ることと、出来ないことがあるということです。だから最近は出来ないことをやろうと逆に思わなくなりました。「アイスラーみたいな曲」をやりたかったら、やっていい社会に生きてるんですから、遠慮せずにストレートにアイスラーをばんばんやればいいし、須山公美子は須山公美子のうたをうたえば、それでいい。何か書きたくなったら、それを書けばいい。
 詩に関しては、ことばのレベルでは、翻訳を通してしかブレヒトの詩に接することは出来ません。同じ詩でも、翻訳者によって非常に表情が変わってしまいます。わたしはいろいろな訳を捜してくるんですけれど、個人的には野村修さんの訳が好きです。岩渕先生は演劇寄りのひとですし、長谷川四郎さんは御自身歌われるのでそっちに寄ったかんじの訳になります。ですからアプローチの違いだと思いますが、詩人である野村修さんの訳は、快活でしなやかで、いちばんすーっと入ってくるように思います。しかしそれは野村さんの個性かもしれないし、ですから、ブレヒトの詩というと、ことばのレベルでの影響というのは語りづらいですね。ブレヒトの影響というのは、やはり演奏へのアプローチであるように思います。オリジナルをやるときも、ブレヒトソングをやるときも、それはそんなに変わらないですから。
 わたしは自分はブレヒトでもアイスラーでもなくて、ヴェルレーヌやなあ、と思うんですよ。優れた詩人で、わたしが自分を例えるのは思い上がりでしょうけど、彼は絶対にランボーは越えられないんです。ランボーの凄さは彼がいちばんよくわかる。でもどうしても追いつけない。ランボーはどんどん先に行く。それを間近で見ながら、ヴェルレーヌは自分をなかなか変えられない。感性が全然違うんですね。どうしようもなく溝がある。彼は20世紀にはたどり着けない詩人です。
 それでも、ヴェルレーヌがいちばんよい詩を書いていたのは、ランボーといっしょにいた時期です。詩のテンションも、展開の仕方もダイナミックなんですよ。ものの見方に影響を受けてるんです。そしてそれは借り物ではない。その時はヴェルレーヌが自分のものにしています。芸術家にとっては、プロセスや経緯がどうであろうと、出来上がった作品がそのひとそのものの証しとなります。だからわたしもあんまり亀のように籠っていないで、ちょっとしんどいなあと思っても、自分にとってのランボーのようなひとたちとのおつき合いは断たないようにしようと思ってます。そこによいうたが残れば、須山公美子なんて、どうだっていいんですから。
 ブレヒトは、ランボー好きですね。でも彼は、ブレヒト以外の何者でもないですね。


---なんかとても教えられるところが多いです。もうひとつ、須山さんの歌にとって夢が大きな役割を果たしていると想像しているのですが、夢が作詞作曲のインスピレーションになることってあります? あるいはこれは映像的ヴィジョンというべきなのかな。直接関係するのかどうか分かりませんが、ホームページにも夢日記を書いていらっしゃるでしょう。

須山: 

 夢日記は昨年、半年くらいずっとつけてましたが、何か夢のない夢ばっかりで、止めてしまいました。昔見たヴィジョンのパッチワークだってのは、ほんとですよ。科学的に研究をするひとならともかく、あんまり創造的ではなかったです。ただ、目が覚めれば明らかに筋妻のあわないことが、夢の中ではまかり通るのは不思議ですね。JR宝塚駅の裏は嵐の海、とか。夢の中では全然変に思ってない。夢の中で浮かんだ曲や聴いたうたは、半覚醒状態の時までは覚えていて、「覚えておかなきゃ」と反復までするのに、絶対に忘れてしまいます。宇都宮泰さんは覚えてるらしいけれど。あのひとは、みんなが覚えてるって思ってますよ。
 昨夜は大学の文学部のトイレの夢を見ました。トイレに入ったら、すごく広いんですが、個室がない。和風便器がずらっと並んでる。学生さんがみんな平気でやってるんですが、わたしはとても出来ないと下の階のトイレに行くと、上の階とまったく同じで絶望しました。トイレの夢はよく見ますね。天井と床の間が 50センチ程しかないトイレとか。白鳥みたいに首を曲げるしかない。何なんでしょうね。でも「おかしい」とは思ってないんですよ。困ったな、とは思ってるんですが。
 ですから、例えば「夢のなかでも逢えたら」というのは、たわごとです。口説き文句ですよ。夢のなかではひとは逢えない。生理的な夢は、そういうものです。
 わたしにとって夢とは、いつも「見果てぬ夢」です。ドン・キホーテ。ジャック・ブレルの「ラ・マンチャの男」、かっこいいですね。うたもいいけれど、目がいい。ぎらぎらと、彼岸を見つめる目です。「見果てぬ夢」じゃなかったら、夢じゃないですよ。そういう意味で、わたしには具体的な夢はありません。夢想と夢は違います。 「そうだったらいいのにな」とかいうのも夢ではない。夢は、うたの中だけにあります。そこから何かを汲み出すものではありません。うたの中に存在させるべきものです。
 わたしの書くうたは映像的だとよく言われます。確かに「白い雲が流れる」とうたう時、行ったことはありませんが、イタリアの都市部の円形劇場なんかのあるところのあおーい空と白い雲をかなりリアルに思い浮かべてます。映画や写真などを記憶の中で合成したものかもしれませんし、前世の記憶かもしれないし、それはわかりません。でもうたに込めようと思うのは、その空ではなくて、その空をその瞬間に見ているわたしの心のふるえです。そうすれば、その空が痛いほどの青い空であることは伝わります。それと生理的な夢は、関係あるのかなあ、ないのかなあ、でも記憶の掘り下げということを考えると、うたいながら瞬間的に夢のプロセスを再現してるのかもしれませんね。


---最後になりますが、この秋にツアーを予定されている寒河江勇志さんと船戸博史さんについて、一言お願いします。彼らは『ブランクーシの庭』にも参加していましたよね。どうして彼らとの共演を望まれたのですか。

須山:

 船戸さんは最近売れっ子ですから、ライブ少しまめに行ってるひとなら、彼の演奏に接したことがあるんじゃないかと思います。本人は、「おれみたいに 安く使えるベースがいないからですよぉ」ととぼけてますが。えらく見えないとこがいいんです。彼以上にうたものでよいベースを弾いてくれるひとを捜すのは、かなり難しいと思います。ボトムは大切です。わたしはこっそり、東の松永孝義、西の船戸と認識してます。東の松永さんはすごいなめらかで音が正確かつきれいですが、船戸さんはセロ弾きゴーシュみたいで、ごつごつ、ざらざらしてる。面白いほど正反対です。昔、内橋和久さんに「船戸くんって、どう?」と聞いたら、「船戸はやめとけ。あいつは何をするかわからん」と 言われました。今は内橋さん、「えっ、そんなこと言ったっけ????」と、忘れてますね。
 その昔は、寒河江勇志さんというすごいうたもののベーシストがいてはりました。そう、寒河江さんもパリに行く前は、ベース弾いてはったんです。仙波さんの「はにわオールスターズ」でキャリアを始めて、友部正人さんや大塚まさじさんのアルバムでもかっこいい演奏してます。でもいちばんそれがよく分かる当時の録音音源は、手前味噌で恐縮ですが、わたしの2nd『夢のはじまり』ですね。ほんとですよ。
 このひとはだから、キャリアはベースで始めてますが、基本的にオールラウンドでトータルに音楽作る時にもっとも持ち味を発揮するひとです。『ブランクーシ』の時に、寒河江さんをよく知っている千野さんから、「寒河江くんに頼むなら、アルバム全部任したほうがいい」とアドバイスもらいましたが、そういうことです。プロデューサーですね。うたも含めた上でのディレクションが出来るんです。ただそのやりかたが、彼以外では考えられないようなとこから降って来る。『ブランクーシ』のdisk2聴いてもらったら、よくわかります。曲のセレクトも、曲順を決めたのも彼です。あれはフルート以外はすべてサンプリングで作ってますが、ほんとはフルオーケストラ使いたかったんですね。須山公美子にフルオーケストラですよ。でももちろん代用品じゃなくて、サンプリングの面白さも充分楽しめる、秀逸なテイクです。
 デカダンスは面白いですが猥雑な生命のカオスとしてのデカダンスを愛するのであって、その美のみを愛撫する立場にはどうしても立てません。我々のような中産階級には、飽満故の倦怠なんて、所詮文学体験としてしかわかんないから。美意識の錬磨につながらないコンビニレベルの飽満と倦怠は、確かに日本を席巻してますけどね。
 いずれにせよ我々は、この世界に留まるものです。ここにいるのですから。ボードレールは、駄目ですよ。実は好きですけど。そこであっぱれと拍手してたら、あかんのですよ。寒河江さんのあれはね、だから、あえて言うなら、ベンヤミンです。西洋的なデカダンスを描きつつも、異邦人として横切っていく批評的な眼差しを汲み取ってもらえたらと思います。我々が生きて留まりつつ表現するというのは、そういうことです。留まるということは、横切ることだから。
 そんなこんなで9月には音場舎さんにもお世話になる秋のツアーを行ないます。大阪、京都、名古屋、横浜のスペースオルタ、下北沢のアレイホールと計5ケ所を寒河江さん、船戸くんの3ショットで廻ります。「ざわめくうた」というタイトリングをしました。わたしががーっといきそうなところを寒河江さんが引き戻す。船戸くんが無責任にあおる。かと思えば、みんなで突っ込んでいく。さざ波のように、引く。押す。いろんな眼差しと息遣いが交錯する重層的なざわめくうた世界を楽しんでもらえると思います。夢は、確かにそこにあるんですよ。どうか、皆さんのライブな眼差しと息遣いをそこに重ねに来て下さい。

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