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トゥガーリ(2)

 イッカクの牙。これほどイッカクという北極海にすむ不思議なクジラを象徴するものもないだろう。そして人は古くからこの牙にさまざまなかたちで魅せられつづけてきた。
 たとえば中世ヨーロッパ。この時代、それは一角獣の角であって強力な解毒作用があると人々に信じられており、金の20倍もの価格で取り引きされていたほどだった。貴族たちは毒による暗殺をおそれ、イッカクの牙を粉にして飲み物に入れ、あるいはイッカクの牙で酒杯をつくっていた。ほとんどの人々にとって、北極地方は現代とは比べものにならぬほどにはるかに遠い世界であって、ましてやイッカクという生きものが存在していることなど想像もできなかったに違いない。これはかの有名な一角獣の角なのだといわれれば、きっと誰だって信じてしまうにちがいない。
 もしも僕が今でもイッカクという生きものの存在を知らなかったとして、その牙だけが目の前に差し出されたとしたら、それを何だと思うだろう。
 2メートルを超える長さ。角のようなあるいは象牙のような色と質。先端からみると反時計回りに走るたくさんの溝。まるで誰かが磨き上げたようにツルツルとした先端部分。溝のへこみは黒っぽくていかにも重厚そうに見え、実際手に持てば想像よりもさらにズッシリとした重さがある。これはだれかのつくった槍?あるいは何かの動物の角?それとも……?。
 ひょっとすると、その質感や意外に奥深く入り込んでいる内部の空洞の存在から、象牙のようにある種の動物の牙かもしれないというあたりまでは気がつくかもしれない。しかし万が一まちがったとしても、クジラの牙だなどという答えは出てきそうもない。
 北極圏の夏、海の氷がとけるころ、ランカスター海峡周辺海域に足を運び、多少のしんぼうをして待っていれば、人の想像さえもおよばないその不思議な牙、トゥガーリをもったクジラに会うことができる。

Copyright © 2004 Mamoru Yasuda