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夏のはじまり

 なくなりそうでなくならない海の氷。それを待つ間、毎年いつごろブレイクアップするのか、と何人かに聞いてまわったことがあった。ところがこれがあまりはっきりしない。今年は遅れているのか、とたずねても、ある人は「そうだ。とっても遅い」といい、別の人は「いや、こんなもんだ」という。8月のはじめだという人もいれば、7月だという人もいる。どうやら総合すると、7月の最後の週前後というところらしかった。
 海が開けるというのは彼らにとってはイッカク狩りシーズンの開幕を意味する一つの大きなイベントだ。だからかなり正確にその時期をはあくし予測しているんじゃないかと思ったのだけれど、意外にというかやっぱりというか、そのあたりはけっこうアバウトなのだった。まあ考えてみれば一週間や二週間ずれたとしてもそれは大したことではないのだろう。ただ、一ヶ月という限られた期間だけ滞在し、その間にイッカクをできるだけ多く見ようとしている僕にとって、それはけっこう大きいということだけなのだ。

 8月4日のこと、ついに氷がブレイクアップし海が開けた。その日、村から見える範囲の海峡に氷の姿はなくなっていた。数日のうちにあけるだろうという予想はみごとに裏切られて、ポンドインレット入りしてから13日間待ちつづけていたことになる。
 氷がブレイクアップしたその日から、チャーリー一家とイッカク狩りに出かけた。昨年新調したばかりのチャーリー自慢の大型ボートでだ。夏の海をボートで突き進む、というとさぞかしすがすがしいイメージになるかもしれない。たしかにそれがきれいにぬけた青空の下、おだやかな海面を疾走するということであれば、風が身を切るほど冷たいことをのぞけば、それは実に気持ちのいい旅になる。しかし実際にそんな日にはなかなかめぐりあわない。
 夏のはじまりのボート旅がそれほど快適ではない理由の一つは、氷にある。海が開けたとはいえ、すべての氷が一斉に消え去ってしまうわけではない。
 村から一時間も進んだところでボートは氷の迷路に入り込んだ。はじめのうち、チャーリーのルートファインディングは的確で、その浮き氷の中にある水路を見つけだして進んでいたのだが、ついにその水路もとぎれてしまった。
 そうなるとボートを人力で押して進めなければならない。まわりの浮き氷に下りたって進行方向のすき間を広げボートを進める。氷にはタタミ何畳分もある大きなものもあるけれど、水に浮かんでいるから、ボートに手をついて足を踏んばれば人力でもジワジワと動かすことができるのだ。ただし氷はときに薄くなったり穴が開いているから足を下ろす前によくよくたしかめなければならない。じゃまをしていた氷がゆっくりと動き、ボートをふたたび水路に進めれば、しばらくは乗ったままでいられる。しかしそれも次の氷にはばまれるまでの間のことだ。行き止まりになればまた氷に降りて押す、このいやになるほどのくり返しが、夏のはじまりのボート旅だ。
 もう一つ、この時期のボート旅が快適でないのは天候のためだ。このエリアの夏のはじまりとは、雨期とでもいいたくなる季節のはじまりでもある。現にそれまで暖かくおだやかな晴天の日もポツポツあったのに、イッカク狩りに出かける日から、空はどんよりと重たく曇り、加えてシトシトと冷たい雨が降りつづくようになった。
 もともと砂漠的環境である北極地方では雪も雨も少ない。たとえば同じバフィン島にある町イカルイットの年間降水量は430ミリ(東京が1460ミリ)だ。しかしこの時期に過ごしていると、もっと降水量があるんじゃないのと思いたくなってくる。ただ土砂降りにはならない。ひたすらシトシトと降りつづく。そんな日には空は暗く鉛色になり、それをうつして海も鈍い鉛色となる。
 そういうわけで、僕たちは全身びっしょりとぬれながらボートを押し、雨と霧でかすんだ鉛色の中をゆっくりと進んでいった。

Copyright © 2004 Mamoru Yasuda