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 イッカククジラの来る海で




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エクリプス海峡もときにはおだやかな顔を見せるときがある

第13回 たくさんの(その2)


 二回目にあたる今年の旅では、出会うことをただひたすらに楽しむということができない自分に気がついてきていた。もちろんそういう場面もたくさんあった。しかし一方で、たとえばイヌイットたちのくらしの中に、さまざまな難しい現実があるということに、おくればせながら気がついてきたからだった。
 キャンプでイッカクを待っていたある夜のこと、イヌーキーにこんなことを聞かれたことがあった。
「マモル、人生のゴールって何だと思う?何のために生きてるんだ?」
突然の根元的な問いに、僕はなかなか答えられずにいた。
「僕もそれを知りたいと思っているけれど……うーん、僕はそれをずっと探しつづけているという気がするよ」
そう答えるのが精一杯だった。
イヌーキーはつづけてこんなこともつぶやくように言う。
「神がいるならば、なぜ神は悪魔を地獄へ送り込んでしまわずに、この世界へよこしてしまったのだろう……」
クリスチャンである彼がこう言う。その背景にあるだろう彼の経験は、僕が想像したところで及ぶはずもなかった。
 イヌイットの特に若者たちの中によこたわっているもの、その一つは、親しい人の死とそのことによる喪失感ではないだろうかと、僕は後に聞いたニコからの話から想像するようになった。
 あるキャンプからの帰りのボートでのことだ。夜中の寒風に吹かれながら、いつものように陽気に冗談ばかり言っていたニコが、しばらく黙っていたと思ったら、こんなことを話し始めたのだ。
「僕はアークティック・ベイ(ポンド・インレットの隣村)で生まれ育った。だから親友と呼べる友だちがあっちに四人いたんだ。ところがそのうちの二人までがすでに死んでしまった。二人とも自殺したんだ……」
親しい人たちの半分までを自殺によって失ってしまう。できごとがわかっても、その喪失感は僕にはとても想像することができなかった。ヌナブト準州はカナダで最も自殺率の高い地域だとされている。村はどこも数十人から千人の規模であり、お互いに知り合いの関係だ。ここでは誰もが喪失体験をへて生きている。昨年来たときに僕が会って話をしたこともあるマークという青年が昨年自殺したということを知った。小さな息子一人を残して亡くなってしまったのだという。それぞれの自殺の原因について、ニコは結局のところよくわからない、といっている。

 村の方角からハンターたちが三々五々、ライフルを抱え崖を降りてきた。ボートのエンジン音も遠くに聞こえはじめた。イヌイットたちにとって、こんなチャンスはめったにないはずだ。村の岸近くをたくさんのイッカクが通っているのだ。
 このとき僕は、できることならばイッカクを撃たないでほしい、と勝手にも願っていた。それまでほとんどそう思ったことはなかったのに、だ。この現実とは思えない光景を、おそらく写真にだってとらえきれていないこのできごとを、できることならいつまでも見ていたかったのだと思う。
「バーン!」
一人のハンターがどこかで発砲した。それが命中したのかどうかはわからなかったが、イッカクの群れには一瞬にして変化が起きていた。さきほどまで群れのいたあたりの海面はあいかわらず波立っていたが、そこにイッカクの姿は一頭も見えなくなっていた。発砲と同時にすべてのイッカクが水中深く潜ってしまったのだ。そんなはずはない、あれだけたくさんいたのにと思い、あたりを見渡すが、一頭も見つけることができない。100頭の、たくさんのイッカクは一瞬にして消え去った。
 あらわれたことも夢のようであれば、消えた後こそまるで夢のようなできごとだった。僕にはフィールドノートをつける習慣がある。その記録によれば、イッカクの群れを発見したのは19時58分のこと。そして一人のハンターが発砲してその群れが消え去ったのが20時06分。それは、自分では信じられないが、8分間というごく短い間のできごとだったらしい。わずか8分間の夢だったのだ。

 人のくらしやありようが変わってきたのだとしても、ここ極北の地で変わらないものがもしもあるとすれば、それは生命の姿ではないだろうか。極北の生命がときに見せる有と無。あるとき、あるところにだけ生命は集中して存在している。イッカクの群れはこうして大移動をくりかえしていて、もしもその途上に立っていれば、その人はあるれんばかりの生命を目の当たりにすることができる。が、それ以外にはほとんどその存在を感じることがない。そういう極北の生命のありようは、おそらく太古の昔からずっとつづいてきたことなのだろう。

 ライフルを肩に下げたまま、しばらく海をながめていたハンターたちは村へと引き上げはじめた。イッカクの群れは遠くに去ってしまったのだ。
 太陽がバイロット島の稜線の向こう側へと降りていき、少しずつ欠け、やがてすっかりかくれた。目の前にはまるで何ごともなかったかのような少し波立つエクリプス海峡。その上には、何時間もかけ夕焼けから朝焼けへとつづいていくだろう赤く染まった空があった。それはまるで昨日とかわることのない極北の夏の終わりの夜の光景だ。

 たくさんのイッカクとの短い出会い。そのことによって自分が何を得たのか、今はまだはっきりしない。ましてやそのことで何かしら現実の問題が解決されるわけでもない。
 イヌイットの生き方をかいま見るとき、いつも問われているのは、僕自身のあり方だ。生まれ育った日本という地で、何をうけつぎ、何を選び、どこを見すえて、どう生きていくのか、ということがいつも自分に帰ってくる問いなのだ。それはまだ依然としてはっきりと見えてこない。
 そんな自分が北極までやってきて、あるときたくさんのイッカクに出会う。それはとても不思議な気がする。そしてたくさんのイッカクと出会うことで、「次に進んでいけるかもしれない」そう感じるようになる。それだけの存在の大きさが極北の生命にはあるように思う。だからこそ僕は今年もこうして旅に出てきたのだろう。

 自分の中の、形にならない、それでも生まれた何かを感じながら、僕はポンド・インレット村のイヌアラック家への道を歩いていた。さらにこうも思い始めていた。極北の自然がごくまれに見せてくれる夢のような光景に出会うためになら、またこうしてこの地にくることになるだろう、と。
 歩いている目の前には海峡が広がっていた。海といっても、ほとんどの季節は凍った氷の世界だ。氷が融け去って水の世界となっても、生きものの姿を見ることはまずない。
 それでも僕は知っている。ここは、ごくまれにたくさんのイッカククジラがやってくる、そういう特別な海だ、ということを。(終)


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