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 イッカククジラの来る海で




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その解体を終えたあと、岬一帯は丸一日嵐となった

第7回 牙をめぐる物語(その2)


「キラルーガ、○×△□……!」
 チャーリー父さんの叫ぶ声がテントの外から聞こえ、目が覚めた。その声の調子とただひとつ聞き取れた単語によって何が起きたのかすぐに理解する。イッカクの群れがやってきたのだ。その証拠に、となりで寝ていたはずのニコはすでに長靴をはいてテントから飛び出していくところだ。僕も遅ればせながら飛び起きた。

 昨日の夜もボートからイッカクを探していた。風もなく波もなく静かな夜だった。夜、といっても北極圏の夏のこと、真っ暗になってしまうわけではない。それでも季節は8月も半ばにさしかかり、夏の間出っぱなしだった太陽は、夜中には背後の岩山あるいは海の向こうに完全にかくれるようになっていたから、ほの暗い夜ではあった。
 イッカクはとても物音に敏感なのだという。だからキャンプ地の岬から海に出てもボートのエンジンは止めたままだった。その中でもできるだけ物音を立てるな、といわれた。ボートは潮にのり、ゆっくりと流されていった。
 しばらくするとイッカクの群れがあらわれた。
「ザバッ、ブフォッ……フォッ、ゴボッ」
波もなく音もない海に、イッカクの発する重量感のある音が響く。
「グォバッ、ブファッ……ファッ、ゴバッ」
ときにはボートに向かってきて、鼻の穴が見えるほどの近さで呼吸して、ボートの下を潜っては通り過ぎる群れもあった。暗い時間帯だったから、僕は写真にするのをあきらめ、音を聞き、姿を眼で追う、そんな夜になった。
「ニコ、どうやってオスかメスか、大人か子供かを見分けるんだい?」
「うーん、そうだな。例えば体の大きさでもわかるよ。オスは大きいしメスは小さい。体の大きいオスは白っぽい。それから呼吸する音でもわかる。大人のオスはブフォッ!って大きな音だ」
 しばらくしたころ、空には恐ろしいほどに赤く染まった雲が広がった。何かが起きるかもしれない、そんなことを思わせるような真っ赤な空だ。低い軌道をえがく太陽は夜中になって姿が見えなくなっても、地平線のすぐ下あたりにいて、北の空をずっと赤く染めつづけた。そして夕焼けはそのまま朝焼けへとつづいた。
 一晩中ボートを浮かべていたにもかかわらず、体が白く大きな呼吸音を発し長い牙を持つオス、ビッグメイル、が近くにあらわれることもなく、チャーリーたちが発砲することは一度もなかった。僕たちは朝方、テントへと引き上げ、寝袋にもぐりこんだ。
 それがついさきほど、一時間ほど前のことだった。

 カメラをひっつかみ飛び出すと、目の前の海は激しく流れる川のような有り様と化していた。その川をグレーの丸太が何本も流れ下っている。
 イッカクの群れがテントの前せいぜい20メートルといったあたりを岸に沿って通りすぎているのだった。イッカクは数頭ごと横並びになり、浮上したりもぐったりをくり返しながら泳いでいく。それにより海は波立ちうねっていた。その数頭のグループが次から次へとやってきた。海はまるで大雨のあとの川のようであり、体長4,5メートルのイッカクたちはまるでその激流を流れ下る丸太、のように見えた。
「グワッ!ブワッ!バッファッ!……!」
水面から飛び出し、激しく呼吸し、ガバッともぐりこむ。僕はいきなり近距離で遭遇したこのイッカクの群れに恐れまで感じていた。
 そういえば昨日寝る前に、ニコが「夜、向こうに出て行くイッカクが多かったから、朝方ここを通るかもしれないな」と言っていたのを思いだした。夜、入り江の外に出ていったイッカクたちが、今ほぼ一斉に入り江に向かってなだれこんできており、それも僕たちのテントが張られた岬のすぐそばを通りすぎているのだ。イッカクがそういうルートで移動することがあるということを知っていたからこそ、チャーリー父さんはこの入り江に突き出た岬の下にわざわざキャンプをかまえたのだろう。一体どれくらいの規模の群れだろう。何十頭いやひょっとすると100頭に達するだろうか。
 イッカクの群れに見とれていた僕は、ふと我にかえってカメラのファインダーをのぞいてはみたものの、シャッターを押すことができない。普段、イッカクを遠くから見ているときには、その頭部や牙は波間にかくれていて見えないことが多い。かなり遠いと背中が少し見えるだけだったりする。ところが、今こちらに向かって泳いでくるイッカクたちはみなその頭部を水面上に突き出して浮上し、そうすると大人のオスたちはその牙をまるで僕に見せびらかそう、とでもいうように一斉に振り上げて飛び出してくる。それが波状攻撃のようにつぎつぎにやってくるのだ。情けないことに、いきなりこんな豪華な状況になってしまうと、僕は目移りがしてしまい、どこをねらえばいいのかわからなくなってしまったのだった。半ばあきらめてふと見ると、ニコも同じような状況にあるらしいことがわかった。ライフルを構えてはいるが、そのほこ先がまったく一定していない。二人で目が合ったときにはお互いに笑うしかなかった。
 そのときだ。
「バーンッ!」
と破裂音が響いた。上の岩場でチャーリー父さんがライフルをかまえたまま何ごとかを叫んでいる。
 今度も言葉はわからなかったけれども、やるべきことはわかった。僕はニコとともに岩場を走り、ボートを海へ出した。岸のすぐ近くで、ひときわ白く大きな体をしたイッカクが半ば浮いているのを見つける。ニコが浮子のついた金属製のモリをそれに向かって力一杯に投げ、突き刺した。そのイッカクはモリが刺さってもまったく動きを見せることはなかった。チャーリー父さんの放った一発の弾丸が頭部を正確に打ち抜いており、すでに絶命していたのだ。
 その体の前方には、太くて長いほれぼれするような立派な牙が伸びていた。それは、チャーリー父さんが、こんな状況にあっても僕やニコのように決して迷うことなく、冷静にイッカクの群れを観察し、ただ一頭のビッグメイルに狙いをさだめ、その頭部が浮上した一瞬に引き金をひくことができる、そういうハンターだということを意味していた。

 波打ち際に半ばその体を浮かべたまま解体が始まった。大きくて三人の力では岸まで引き上げることができなかったからだ。いつものようにお腹と背中に切れ目が入れられた。大きなナイフとフックを使って、マクタックが切り取られていく。マクタック、とは皮膚とその内側の脂肪が合わさった部分のことをいう。口に入れると、外側の皮膚がプリプリ、その内側がコリコリして、そこに脂肪のほのかな甘みがまじって、僕はそこにしょう油を少したらせばかなりの量を食べることができてしまう、おいしい食べものだ。解体作業をつづけながらときどきそのカケラを口に放り込む。
 皮の切り取りが終わり、チャーリー父さんが小型の斧を器用にあやつりながら頭を割りはじめた。いよいよその牙が取り出されるときだ。頭骨の奥深くにまで入りこんでいた牙の根元が露出すると、チャーリー父さんは牙をしっかりとつかみ、ゆっくりと回しながら引き抜きはじめた。牙が抜かれるとともに赤黒くてどろりとした組織が流れ出てくる。イッカクの歯髄、だ。  イッカクの牙はあくまでも歯なのであり、中には歯髄があり、血管や神経も通っている。僕は、牙から出てくるその血の混じった赤黒い組織を見るたびに、固く無機質に見えるイッカクの牙も実は生々しい生きものの体の一部なのだ、ということを実感する。

 僕はイッカクの牙と歯髄を見つめながら、いつか聞いた言葉を思い出していた。ある日、僕がイッカクの牙を手にとってながめていたとき、そこにやってきたチャーリー父さんがいった言葉だった。
「イッカクの牙、血、流れてる……」
イッカクの牙を指さしながらチャーリー父さんがそういう。
「カリブーの角、血、流れてる……」
そんなこともいう。白くて固いカリブーの角も、はじめは毛の生えたやわらかな袋角の中でつくられていく。だからカリブーの袋角の先端は柔らかくその中身は食べることだってできる。
 そしてチャーリー父さんは、自分の二の腕のあたりをナイフで切るしぐさをしながら、話の最後にこうつけくわえた。
「血、同じ血、流れてる……」

 イッカクたちの姿はすでにどこにも見あたらない。少し前から雨が降り始めた。イッカクの解体を終えるころ、岬には強風が吹きつけ、鉛色の海にはうねりが出てきた。さすがにクタクタになった僕たちは、イッカクのマクタックを食べ、寝袋にもぐりこむ。気温も下がってきたようだ。ニコが無線で聞いたところでは、となり村のアークティック・ベイで雪が降っているらしい。このキャンプ地では嵐のような天気がつづくことがよくある、という。そんなこれからの荒天を思わせるように、テントの重たいキャンバス地がバタバタと強くはためきだした。


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