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 イッカククジラの来る海で



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イッカクの牙の藻類が付着するらせん状の溝にはいったい何が刻み込まれているのだろう

第6回 牙をめぐる物語(その1)


「昨日、おまえ、寝ているとき、四頭のイッカク、タスク……」
その日、岬の岩場に登っていった僕に、チャーリー父さんがそういって両手の人差し指を交差させた。僕がテントで眠っていたときにイッカクの群れがあらわれ、その牙を空中に持ち上げてフェンシングのように交差させていたのだという。しかも四頭いっしょに。なぜ寝ているときにかぎって、と僕はくやしがる。

 牙を空中に持ち上げて交差させあうクジラがいる。それは何て不思議なことなんだろうと思う。角のような牙をもつということだけでも十分不思議なことなのに、その牙を空中に持ち上げてフェンシングのようなことまでするのだから。イッカクというクジラの存在を知るようになってから、僕はその場面に出会いたいと思いつづけている。
 昨年、この地をはじめて訪れて、幸運にもイッカクのオスが見せるその行動を目にすることができた。その日、村はずれの海岸を歩いていて、そこから見える凍った海でのできごとだった。海に張った氷のすき間からスーッと牙が突きだし、つづいてもう一本の牙が突きだし、二本の牙が交差するのを見たのだった。それは何百メートルも離れたところで起こった、ほんの数秒にしかすぎない光景だったけれども、僕にとってはここまではるばるやってきてよかったと思わせてくれるに十分な力を持っていた。

 生物としてのイッカクについて、人間が知りえたことはまだまだ少ない。そもそも海洋生物の生態を明らかにすることは大変なことだし、たとえば、海が氷に閉ざされてしまう冬期にイッカクがどこでどうくらしているか、などもう全くわかっていないといってもいいくらいだ。バリー・ロペスは「極北の夢」(草思社)の中で、「イッカクに関するわたしたちの知識は、土星の環に関する知識よりもはるかに少ない」とまで書いている。
 それでも、イッカクの牙についてはとりわけ人々の関心が集まるからなのか、いくつかのことがわかってきている。  牙は大人のオスにだけ見られる上あごの左前歯が長く伸びたものだ。だからメスや子供のイッカクには牙はない。ところが、赤ん坊の段階のイッカクの上あごを調べると、オスもメスもそこにはちゃんと2本の歯が埋もれているらしい。メスの場合はそれらはあごに埋もれたままなのだが、オスの場合、生後1年目の終わりに左側の歯だけが成長しはじめ、上唇を突き破って伸びつづけ、角のような牙となる。大人のオスの場合、体長が4〜5メートルに対して牙の長さは2メートル以上だから、体の約半分の長さの牙を持っていることになる。
 イッカクの牙にはいくつかの例外が知られている。例えば、本来は牙を持たないはずのメスだが、オス並に長い牙を持ったメスというのが報告されている。ある調査ではその出現率は2.7パーセントだというから、もしこの数字が正しければ、これはけっこう高い割合だ。牙の突き出たイッカクを100頭目撃すればその中に2.7頭はメスが含まれていることになる。また、左右両側の歯が二本とも伸びた、ダブルタスクと呼ばれる二角のイッカクもまた知られている。これはオスだけでなくメスにも例があるらしい。そして出現率は1.5パーセントという数字もあげられているから、想像以上に存在しているものなのかも知れない。

 イッカクはその牙をいったい何のために使っているのか。これについてはたくさんの説がある。エサになる底生生物を掘り起こすのに使う、魚をモリのように突くために使う、息つぎ穴をつくるために薄い氷に突き刺す、シャチなどの捕食者に対する防御手段として使う……などなど。また、体の熱を冷やすラジエーターの役割ではないか、とか、音声をより遠くに飛ばすための装置ではないか、という説が考えられたこともある。しかし、これらの説の真偽をたしかめることは容易ではない。
 科学誌「ネイチャー」に1980年、イッカクの牙の役割にかんする一つの論文が掲載された。カナダの研究者、シルバーマンとダンバーはイッカクのオスの体長、牙の長さ、そして頭部に見られる傷の関係に着目した。イッカクは体長4メートルを超えるころに性的に成熟、つまり大人になるのだが、この時期以降、牙が急激に成長し、頭部の傷の数もそれ以降増加する。また、オスの牙はしばしば途中で折れているのだが、その割合も大人になって以降の個体では61.5%に達している。一方、野外では、僕が昨年目撃したように、オスがその牙を空中に持ち上げたり、オス同士がその牙を交差させる行動がしばしば観察される。そこでシルバーマンたちはこう結論する。オスの牙は、例えばシカの角のように、オスのディスプレーであったり、オス同士の争いにおいて使われるものであり、頭部に見られる傷はその争いのときに相手の牙によってつけられたものなのだろう、と。牙はオスのイッカクが大人になった証であり、大人のオスはその牙を使って群れの中での地位を競うのだろう、と。シルバーマンたちによるこの”シカの角的役割”説が、現在広く受け入れられているようだ。
 シルバーマンたちの研究は、イッカクの体についての数多くの計測値によって成り立っている。そしてそのイッカクの体を提供したのはイヌイットたちだ。イヌイットたちは、狩る相手であるイッカクの行動や生態についても、興味深い体験や知識を持っている。
 イヌアラック家の長男ネイムンと話していてときに、イッカクの牙のことが話題になった。僕がイッカクのオス同士の争いをぜひ見てみたいといったときのことだった。
「イッカクのフェンシングなら何度も見たことがあるよ。そういえば、昔とったイッカクのことなんだが、頭の左側の部分に10センチくらいの牙の先端が突き刺さっていたんだ。あれは、他のオスの牙なんだろう。だから、きっとイッカクは牙を使って戦ったりすることがあるんじゃないかな。よくわからないけれど……」
 このネイムンの観察とそこからの推察などは、先のシルバーマンたちが論文の中でたどり着いたものとそれほど大きくは違わないだろう。

 海峡に突きだした岬の岩場に腰かけて、チャーリー父さんとニコと僕はイッカクを待ちつづけている。太陽がぐるりと回っていき、岩場は日陰となり風が冷たく感じられるようになってきた。
「タスク……。マモル、タスク」
望遠鏡をのぞき込んでいたチャーリーがそうつぶやく。あわてて僕もカメラに飛びつくがそれらしき姿は見つからない。チャーリーの望遠鏡をのぞかせてもらうと、海峡の向こう岸近く、距離にして何キロも離れたあたりの遠くの波間にようやくそれが見えた。斜めに突き出すその黒いヤリのようなシルエットは遠くにあるにもかかわらずやけにクッキリときわだっている。何秒かするとスーッとその牙は波間に消えていった。しばらくすると同じあたりにまた黒いヤリが突きだしてきた。すぐにもう一本。二頭のオスが牙を持ち上げている。お互いにより高く持ち上げようというのか、その牙だけでなくついには頭部まで水上に突きだしてくる。
 オス同士が争う、とはいってもチャンバラのように牙を激しくぶつけ合うというわけではない。それは、体のバランスからいっても不釣り合いといえるほどに長く、重く、それでいてもろい牙を、おそるおそるぶつかるかどうかのあたりでギリギリ競い合っている、そんな動き方だ。
 その不思議なイッカクの儀式、を見ていると、こちらにまで力が入ってきて思わず「うーん」と声が出てしまう。海の上にヤリが突きだしてくる。それはやっぱり不思議な光景。そしてイッカクはやっぱり不思議なクジラだ。何度もうなりながらその光景をながめていたら、チャーリー父さんがまたつぶやくようにしていう言葉が聞こえた。
「ゲーム……あれは、イッカクのゲーム……」


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