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 イッカククジラの来る海で




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その群れは突然のように目の前にあらわれ、そして消えていった

第5回 声を聞く


 目が覚めて時計を見ると昼の1時だった。寝坊したわけではない。寝袋に入ったのは今朝だったのだ。昨日僕たちは、ボートを海へ出してイッカクを探し、氷山に登ってイッカクを待ち、陸地の高いところに上がって入り江の遠くをながめ、川の河口に行ってアークティック・チャー漁をし、とフル回転だった。それでもこんな時間に目が覚めたのには理由があった。それは寝ている間もずっと気になる音が聞こえつづけていたからだった。
 今回のキャンプ地が海岸線にあって波の音がよく聞こえるということだけではなかった。
「……ザバッ」
「ブフォ……」
「……フィー……」
「…………ブォーン……」
遠くてかすかな音ではあったが、僕にとっては聞き流すことのできない音が波の音に混じる。これらはイッカクたちの発する音や声なのだ。それがテントのキャンバス地をとおして響いてくる。こんなすてきな音を聞かされてはのんびり寝てなどいられない。ここはイッカクの声が満ちあふれた海なのだ。
 カナダ北極圏のバフィン島には、最終氷期の氷河のなごりなのだろう、たくさんの水路状の入り江がある。そのどれもが曲がりくねった川のように陸地の奥深くまでのびている。その一つ、幅が5キロほどの入り江の奥近く、曲がり角に小さな岬がひとつ。その岬が急角度で海に没する波打ち際にせいぜい六畳くらいの小さなスペースがある。ハンティングキャンプに出てから四日目。それまでベースとしていた水路のどんづまりにある砂浜のキャンプをたたみ、この岬のふもとに移ってきた。チャーリー父さんは、入り江をのぞむ最前線基地とでもいうべきこの岬でイッカクを待つことにしたのだった。
 僕は眠気をふりはらってテントを出た。ゴツゴツとした岩を少し登ると目の前に海が大きく広がった。しかし天気はあいかわらず悪くうす暗い。どんよりと曇った重たい色の空を映して鉛色の波がゆれている。少しかすんでいるが、対岸には岩とツンドラの陸地が広がっているのが見えた。
 そして遠くの波間にはときどき黒い背中がいくつもあらわれては丸いカーブを描いて消えた。イッカクの群れだ。イッカクはたいてい2〜5頭ほどの単位で小さな群れをつくって行動していて、いくつかの背中がほぼ同期しながらあらわれたり消えたりをくりかえしている。岬から見わたすと、イッカクの群れをあっちでもこっちでも目にすることができた。
 いずれの群れも遠かったが、風が弱いこともあって、ここからはテントの中でも聞こえていたあの音たちをよりはっきりと耳にすることができた。イッカクが浮上するときの「ザバッ」。呼吸するときの「ブフォッ」。そして、イッカクの声。
 昨年はじめてこの地を訪れたときにもイッカクの声を一度だけだが聞いていた。七月半ば、海の氷がなかなかとけきらず、それでもどうしてもイッカクに会いたくて、一人で村を出て歩いたときのことだった。ツンドラの海岸線を凍った海をながめながらひたすら歩いた。そしてとうとう遠くの氷のすき間にイッカクの群れを見つけたときにその音を聞いたのだった。「フィー……」。笛を鳴らすような何とも不思議な高い音が遠くから聞こえてきて、イッカクが声を出すということを僕はそのとき初めて知った。
 この岬からはその「フィー」という笛のような声とともに、イッカクのもう一つの声が聞こえた。ニコにいわせると「トランペットのような音」だというのだけれど、僕にはこの「ブォーン……」という声は、たとえばチューバのようなもっと大きな管楽器を短く力強く吹いたような音、に聞こえた。
 イッカクの唯一の親戚に相当するベルーガ(シロイルカ)は、”海のカナリヤ”と呼ばれるほど様々な音を発し、それらの音には見通しの悪い水中でのエサとりやコミュニケーションの役割があるだろうといわれている。イッカクはあの笛やラッパのような声を誰に向けて発しているのだろう。
 テント上の岬の岩場に座って海をながめていると、あちこちから「ザバッ」「ブフォ」「フィー」「ブォン」という音が耳に届き、波間に黒い背中があらわれては消えた。
 極北の風景はシンプルで美しいけれども、たいていは生きものの気配がまったくといっていいほど感じられないことが多い。このとき岬から見える冷たい海には、イッカクの声が響くことで、生命が集まり満ちている、そんな美しさがたしかにあった。
 岬からはイッカクの群れがいくつも見えていた。しかし狩りをするイヌイットハンターにとってはいかんせん遠すぎた。ライフルでねらいをつけるチャンスがあるとしたら、それは群れがよっぽど岸近くにやって来たときだけだろう。だから今はチャーリーたちも岬の岩場に座ってイッカクの黒い背中が遠くに見えかくれする海をただひたすらながめ、そのときを待つしかなかった。

 イッカクを待つ時間。僕はイヌーキーやニコやチャーリーと話をする。
「そういえば一度、こんなことがあったよ」
次男のイヌーキーがイッカク狩りの話を聞かせてくれる。
「まだカヤックを使って狩りをしてたころのことだ。僕は一人でカヤックにのって、あるオスのイッカクを追っていたんだ。そのイッカクはそれまでカヤックから逃げるように泳いでいたんだけれど、あるときなぜかクルッと向きを変えた。そしてカヤックのすぐ前に出てこちらを向いて、だからタスクの先をこちらにグッと向けたんだ。これにはびっくりしたよ。それでどうするかと思ったら、そのイッカク、今度はカヤックのまわりをグルグルと回るんだよ。もう恐くてさ。狩りどころじゃなくて何もできなかった……」
 イヌーキーの話で、キャンプ地の隅におかれた一艘のカヤックのことを思い出した。聞けばチャーリー父さんが昔使っていたカヤックなのだという。イヌーキーの話に出てくるカヤックとはこのことなのだろう。木製の枠組みに防水加工された布製の皮をはった一人乗りの小さなカヤック。しかしそのカヤックの皮には大きく裂け目があってもはや使えない状態だった。どうして裂けてしまったのか、とチャーリーに聞くと、手でひっかくようなしぐさをしながら、
「ポーラーベアー、壊した」
という。現代のイヌイットたちの海での移動手段はほとんど船外機つきのボートに変わってしまっている。布一枚のカヤックで冷たい海を漕ぎ、イッカクを追いかけ、ポーラーベアーに出会っていたころの狩りは、いったいどんな世界だったのだろう。

「……ブフッ……ブフッ、ブフッ、ブフォッ!」
それはいきなりのことだった。イッカクの群れが僕たちの待つ岬のすぐ近くにあらわれたのだ。今岩場に出ているのはニコとそして僕の二人だけ。チャーリーとイヌーキーはテントの中。ニコはあっという間にライフルをつかみ岩場を飛び跳ねるように駆け下りていく。
 イッカクの群れはどうやら四頭で、ゆっくりと岸に沿って泳いでいる。と、先頭を行く大きな体の先にタスクの先が浮上してきた。ホレボレするほど長く伸びたタスク。二メートル以上はあるだろう。その長いタスクをまるで見せびらかすかのように半ば浮いた姿勢のまましばらくスーッと泳ぐと、いきなり他の三頭とともに「ザバッ」と潜ってしまい、その後二度と姿を見せてはくれなかった。
「長いタスクだったなあ……。でも頭を上げたのは最初の一度だけ。あとは頭を見せてくれなかった。こんなチャンスはもう二度とないかもしれない。でもまあ、気分はいいけどね……」
とニコがなげく。イッカクくらいの大きな生きものをライフルでしとめるには、頭部に弾を正確に命中させなければならない。そのためのチャンスは呼吸のために浮上するはじめの一瞬にしかないのだ。ニコは、イッカク狩りが最も難しい狩りだ、ともいう。

 長いタスクのオスの群れが消えると、それまであちらこちらに見えていたはずの他の群れもいつの間にか見えなくなっていた。海を渡る風が強く吹き始め、その風に冷たい雨がまじるようになってきた。海はいっそう暗い鉛色になった。そうなるともう目の前の海は、まるで生きものなど何もいないのではないか、と思いたくなるような陰鬱な景色となった。
 それでも僕たちはイッカクを待ちつづけた。極北の生命、とくにイッカクのような回遊性の生きものは、あるときある場所にだけ集中してあらわれるものなのだ。それがこの地にほんの少しだけれども身をおいて、おぼろげにわかってきたことだった。もしも今僕の目の前にはいなかったとしても、生命はきっとどこかに満ちあふれている。そしてそれを待ちつづけていれば、いつかはまたきっとその声を聞くことができるだろう。

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