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 イッカククジラの来る海で



814-07
ワモンアザラシほどイヌイットの暮らしに深くかかわる生きものはいない

第3回 エイジド・フード


「9月にはこの村を出て、イカルイットに引っ越すんだ……」
一年ぶりに再開したイヌアラック家の次男、イヌーキーがそういう。イカルイットは、ケンタッキーフライドチキンの店までもが進出するヌナブト準州一の大きな街だ。奥さんのシルビアにイカルイットの小学校の先生になる口ができたためなのだという。彼自身もあちらで新しい仕事を探してつくことになる。
「狩りができなくなるね」
「そうだな。でもしかたがない。一年に一回はここに帰ってくるつもりさ。イッカク狩りのためにね……」
 イヌーキーだけではない。一年しかたってないにもかかわらず、イヌアラック家の人々の生活はみな多少なりとも様変わりをしていた。
 村の給水車ドライバーとしての仕事についたために毎朝早起きをしなければならなくなった長男のネイムン。ビジネスについて学ぼうと大学への進学を決め、秋からは大都会オタワで暮らすことになっている四男のニコ。新しく買ってもらったマイクロソフト社製のテレビゲームに毎日夢中になっているネイムンの息子のマイケル。
 こうして生活スタイルを「現代化」させる彼らが、それでもこの地で生まれ育ってきた人たちなのだとあらためて知ったのは、キャンプに出かけたときに出会ったある食べものによってだった。

 その日の夜、チャーリー父さん、ニコ、そして僕の三人は、静かな海峡でエモノとなるイッカクを待っていた。夜中に海に出てしばらくするとお目当てのイッカクがあちらこちらとあらわれたものの、いずれもメスの群れであったりはるか遠くであったりで、彼らのライフルが発砲されることはこの夜とうとう一度もなかった。
 ここらが潮時と判断したチャーリー父さんが向かったのは、しかしキャンプを設営した岬とは反対側の浜だった。数センチ大の石ころが堆積するジャリ浜に上陸すると、チャーリー父さんはあっちこっちと何かを探してウロウロと歩き回っている。そのうちに場所を決めたのか、まず足で少し石ころをかきだし、つづいてアザラシ狩りに使う柄のついたフックでジャリの中を探るようにかき混ぜはじめた。少しするとフックに何やら重たいものがひっかかる気配。引きずり出されてきたものは長さ80センチほどの丸太のような物体だった。
 薄茶色に変色しているのではじめは何だかわからなかったが、よく見るとそれはワモンアザラシの死体だった。色具合からしても明らかに腐敗している。日当たりのいい石ころの浜では夏の間地面近くがそれなりに暖まることもあるために、気温の低い北極圏とはいえ腐ることもあるのだ。
 しかし、と疑問に思う。この浜のこの場所にどうしてアザラシが埋まっていることを知っていたのだろう、そしてこの死体をどうするつもりなんだろう。と、チャーリー父さんはアザラシのそばにひざまづきナイフを取り出してその腐ったアザラシを、まるで今とれたばかりのアザラシをさばくかのようにお腹から開きはじめた。そして中の肉片を切り取り、口にほうりこんだ。そしてうなるようにこうつぶやいたのだ。
「ママクトーアール」
 イヌイット語で”おいしい”は「ママクト」という。”すごくおいしい”はうなるようにひねりをきかせて「ママクトーアール」という。つまりチャーリー父さんはこの腐ったアザラシの肉を食べて、すごくうまい、とつぶやいたのだ。
 僕はようやく理解する。これはたまたま見つけたアザラシの死体ではなく、腐っているわけでもない。聞くと、このアザラシは1ヶ月ほど前にこの付近でとったあと、この浜に埋めておいたものなのだという。これはれっきとした発酵食品なのだ。それにしても、少し離れていても感じられるこの臭いは強力だ。
 なかば感心して見ていたら、チャーリー父さんが肉片を切り取って僕に差し出した。少し迷ったが思い切って口の中に入れてみる。
「ンッ!!」
味わう間もなく強い臭いが鼻に突き抜けた。アンモニアとかメタンのようなタンパク質が腐敗したときの臭み。肉自体は生のものよりもやわらかくなっているが、何よりもこの臭みが強く、肉類の発酵食品というものに免疫がない僕にはかむことによって臭いが口の中に広がっていくのがきつい。味はほとんどわからない。それでも彼らが食べているものなんだからと、涙目になりながら飲み込んだ。そのあとも、口の中にはまだしっかりとその臭いが残っている。
「ハハハ、アザラシのエイジド・フードはマモルには強すぎるかい?」
僕のそんな姿を見ていたニコが笑う。
「実は僕もこれはあんまり好きじゃないんだ」
イヌイットでも好きじゃないのか、と安心していたら、こうも言う。
「でも、セイウチのエイジド・フードは大好きさ。あれはたまらないなあ」
 それで、昨年食べたセイウチ肉のこれまた強烈な臭いを思い出した。昨年、イヌイットたちと生活して初めて食べたいくつかの動物の生肉。初めはどうなることかと心配していたが、思っていたよりも食べやすかったのだ。思えば日本では魚を生でよく食べるし、シカやウマの肉など生で食べる機会だってあるから慣れやすいのかもしれない。それでも食べにくい肉があって、それがセイウチだった。口の中に含んだとたんにやってくるアンモニア系の強い臭み。しかも肉質がゴム状にかたくなかなかかみ切ることができない肉だった。
 とりわけ、ある日食べさせてもらったセイウチの肉にその臭みが特別強く、飲み込むのに苦労したことがあった。今考えるとあれはセイウチの生肉そのものではなく、やはり発酵させたエイジド・フードだったのだろう。
 ニコはそのセイウチ発酵肉がたまらなくおいしい、と言っているのだ。僕はのべ三ヶ月目になるイヌイット生活で、かなりの動物の生肉は普通に食べられるようになってきていたが、このエイジド・フードにはまだ抵抗が大きい。アザラシとセイウチ、どちらのエイジド・フードがおいしいかどころではない。
 それでもこれはたとえば日本人にとってのしょう油や味噌や納豆なのだろう、と想像する。食べものはその土地とかたくむすびついているもの。そしてエイジド・フードには、その名の通りさらにその土地のエイジ、”とき”までもが込められている。エイジド・フードがたまらないほどおいしい、と感じるようになるまで、人とその土地とのむすびつきができるまでに、いったいどれほどの時間がかかるものなのだろう。飲み込んだあとにもまだしっかりと残りつづける発酵アザラシ肉の臭いに少しむせながら、この極北の地とイヌイットたちのつくりあげてきた長いときを想った。

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