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 イッカククジラの来る海で



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太陽がバイロット島の山かげに沈むころ、それは別の存在にでもなるかのよう

第2回 北極からの使者


「今年は氷のブレイクアップが少し早くて、しかも割れたと思ったらすぐに流れ去ってしまったんだよ。イッカクの群れも通りすぎて、このあたりではそれほど見かけなくなってしまった……」
今年から村の水配給の仕事についたというイヌアラック家の長男ネイムンがそうなげく。それを聞いて僕も窓から海をながめる。同じ家同じ窓からの風景だが、昨年と大きく違うのは、海に氷が張っていない、ということだった。今そこには白い氷原のかわりに、どんよりとした空を映した鈍い色の水面が広がっていた。風が少し強くなればその鉛色は大きくうねりだし、まるで冬の津軽海峡といった雰囲気さえ漂わせることになる。
 ただしこの海には、ここが日本などではなくまぎれもなく北極地方であることを思い出させてくれるいくつかの白い巨大な塊が存在している。氷山。昨年も氷山を見てはいた。しかしそれは氷原にあらわれる氷の山であって、僕の中にそれほど強い印象を残すことはなかった。だが今、舞台が八月の氷のない海になると、そこに浮かぶ氷山はあざやかなコントラストをもってその存在感をはなっていた。僕にとって、氷山はここが極北の地であることを知らせてくれる北極からの使者、のように見えたのだ。
 村の近くには二つの氷山があった。一つはとんがった形、もう一つはその頂が平らな形をしていた。比較するものが近くにないのではっきりとはわからなかったが、その大きさはどちらも幅が数10メートルというところだろうか。
 僕は村の近くを散歩するたびにこの二つの氷山をながめた。同じ氷山のはずだが、それは見るたびにいつも何かしら違っていた。天候によっても氷山はまるで違うもののように変化した。その表面はまわりの光と風景を映し出す。晴れた日の昼間には青黒く見える海面の中でまぶしいほど白く輝き、曇りの日にはくすんだブルーに沈み、雲のない夜中近くには長い時間幻想的なバラ色に染まった。どちらかというと単調な海の風景の中にあって氷山はいつ見ても新鮮だった。
 氷山とはそもそも何ものなんだろう。バリーロペスの「極北の夢」(草思社)によると、北半球の氷山の大部分はグリーンランドにある氷河から生まれてくるのだという。グリーンランドの内陸部には氷河時代から蓄積されてきた氷冠と呼ばれる分厚い氷の塊があり、それがゆっくりと氷の川、氷河となってまわりの海へと流れ出し、氷山となるらしい。そしてもともとその内陸部の氷というのは、空から降ってくる雪が長い年月で圧縮されてできる。つまり氷山の氷というのは、もともとはグリーンランドに降った大昔の雪、だということになる。
 そういえば海に浮かんでいる氷山だが、その氷はたしかに真水でできている。普段の暮らしの中でもイヌイットたちは「氷山からつくる水が一番おいしんんだ」と好んで飲料水にしたり料理に使ったりする。
 ハンティングに氷山が使われることもある。イッカク狩りに出たある日のこと、チャーリー父さんがボートを氷山の一つに近づけた。休憩するのかと思いきや、これから氷山に登るのだという。見るとその氷山は横幅数十メートル、高さは20メートルくらいだろうか。上面は傾いていて、まるですべり台のように水面から空に向かってせり上がっている。おっかなびっくりチャーリーについて頂上付近まで登ると、そこは天然の見張り台といったところで実にいいながめ。広い海の中でえものを見つけだそうというとき、少しでも高い位置から見渡すことが必要なのだ。くわえていざ近くにえものがやって来て狙いを定めなければならないというときに、ボートと違って波に揺れることもない、ということらしかった。ただ、いつこの氷山に割れ目が走って崩れ落ちるかわからない、という不安があって、ながめはいいけれども僕の足下はずっと落ち着かなかった。
「マモル、あの氷山、イヌイット語で何というか知ってるかい?」
ボートで海に出たある日、イヌアラック家の次男イヌーキーにそう聞かれたことがあった。彼の指す海面の向こうにはテーブル状に頂の平らな氷山が浮かんでいた。
「えーっと、たしか……ナティナック……っていうんじゃなかったっけ?」
僕がうろ覚えだったその言葉を口にすると「えっ?どうしてそんな名前知ってるんだ?」とでもいいたそうにイヌーキーが僕の顔をのぞき込む。実をいうと、村のビジターセンターに行ったときに氷山をあらわすイヌイットのことばが紹介されていて、それでたまたま覚えていた単語を口にしてみたら偶然にあたった、というわけだった。
 そのセンターの展示によると、イヌイット語には氷山をあらわすことばがたくさんあるということだった。例えば、
 ・長く平らな氷山 ナティナック
 ・とても長く平らな氷山 ナティナルック
 ・巨大な氷山 ピカルジャアルック
 ・小さな小さな氷山 ピカルジャクナクルック
……と実に細かく分類されている。ただし、「とても長い」と「長い」などというのは、あえて英語に翻訳した説明なのであって、実際はきっと主観的で感覚的なものなのだろうし、それは状況によって変わるものなのかもしれない。さらに、
 ・砂や岩を含んでいて汚れた古い氷山 ピカルジュクアナグルリック
なんていう細かな描写まであるようだった。日本語に雨をあらわすことばがさまざまにあるように、イヌイット語には氷山をいいあらわすことばがたくさんある。
 僕にとって氷山は、遠い自然、北極からの使者のような存在。イヌイットにとって氷山は、あたりまえの風景や暮らしのひとつ、だ。

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