「 月 」

日は既に高い。まぶたを射す光に渋々目を開ける。
このとき俺は寝ぼけていた。隣にある気配を完全に恋人だと思っていた。彼女はもう、いないのに。
「…おい…起きろよ…」
振り返らずに手だけを伸ばし、腕にサラサラとしたくすぐったさを感じハッとする。
髪……? 
彼女はウェーブのかかった柔らかな髪だった。
誰だ? 
驚いて振り返り、余計ぎょっとした。
そこには少女が、小さな体を丸め静かに眠っていた。白いシーツには艶やかな黒髪が広がっている。
「……………え?」
まったく覚えがなかった。
寝起きでボケている頭を必死で稼動して記憶を手繰り寄せる。

* * * * *

バサリとわざとらしいほどの音をたてて紙の束が放り出された。テーブルの上には、ここに来るまでは傑作だった…今では何の価値も無くなった紙クズ。
「違うんだよねぇ」
みみっちく伸ばしたヒゲをいじっているプロデューサーから『感覚が違う』だの『イメージが合わない』だのダメ出しを喰らう。そしてトドメの一言。
「もういいよ、ご苦労さん」
あっという間にお払い箱。


「尚之がなに考えてるかわかんない」
いつもの言葉だった。別れの言葉はいつも変わらない。
風景と、言っている相手が違うくらいで変わり映えがしない。
毎回言われるくらいだから、きっとその通りなんだろう。自覚は無いが、納得はしていた。
自分が把握している『自分』と他人が目にする『自分』が一致しているわけがない。
だから人はすれ違いを繰り返す。
彼女は、多分イイ女だった。胸はそれほど大きくなかったけど、身勝手な俺のことを好きだと言い、抱かせてくれた。
それでも最後はいつもの言葉。
引き止めることもせず俺は、彼女の細いが凛とした背中を見送った。

ひとつひとつは決して珍しくなくても、それが立て続けに起きれば気も滅入る。
友達の店に行って、飲んだ。とにかく飲んだ。多分愚痴も言った。正直な話、何をやったか覚えちゃいない。
自分がどうやって部屋に帰ったのかも覚えていない。

* * * * *

しかしいくら酔ってても、どんなに淋しくてもこんな年端のいかない子どもは連れてこない。
酔っ払って持ってくるペコちゃんとはわけが違う。
…いや、待て。この子が店先に置いてある人形も可能性も決してゼロではないな。確か店からの帰り道に女子学生向けの雑貨屋があったからそこの………………。
……わけないな。そんなわけはない。呼吸してるし、もしこの子が人形ならどれだけ最新鋭の技術を持ってるんだって話だよな。あ、寝返りうった。
酔ってる間に俺は、少女誘拐犯になっちゃったのか…? 濡れ衣だ、冤罪だ! 俺はロリコンじゃない。ちゃんと大人の女が好きだ! 貧乳より巨乳が好きだっ!
自分自身を勝手に弁護していると、俺の気配に気付いたのか少女がゆっくりと起き上がった。
「おはよーござーます………」
寝ぼけていることが丸わかりの口調のまま言いながら、再びベッドに倒れこむ。
そして、小さな寝息。
「お…おい、おい」
おろおろしながら小さな肩に触れる。
未発達な骨はすぐにでも折れてしまいそうで、起こすために揺すろうと思っても力の加減が上手くいかない。
おそるおそる揺さぶり続けているとやっと気がついたのか少女の目が開いた。
「ん〜…?」
「誰? なんでここにいるの?」
「…みちるはぁ、なおゆきをぉ………………」
肝心な部分が何といっているのか聞き取れない。
みちるっていうのがこの子の名前か? 尚之ってのは俺の名前だよな…で? 俺を、何?
「えーと、みちる…ちゃん? 起きてくんないかなー?」
万が一誘拐犯扱いされても被害者の口から、何も乱暴されなかったと出れば、酩酊状態なのも考慮されて情状酌量の余地ありとなるかもしれない。
俺はできるだけ優しく話し掛ける。
しばらくの沈黙の後、少女は突然飛び起きた。
「おはようございます!」
気圧されて少し身を引く。
「えーと……みちるちゃん、何でここにいるのかわかる?」
「はい。なおゆきが原稿ボツにされたのと、恋人に振られてたのでヤケになってたからです」
…マジで? 
やっぱ俺が自分でつれてきたのか? うわーありえない。それはないよ、俺!
「だから、なおゆきはみちるのこと好きになってくださいね」
「ん?」
「そしたらシアワセです」
「あー…ありがとねー、みちるちゃん」
何か力が抜けた。
子どもならではの発想なのか、それともこの子が不思議ちゃんなのか…。
元から子ども嫌いで、それが例え姉の子であろうとも一切関わりたくない俺はわからなかった。
がっくりと力を落としていると近くで鳩が鳴くような音が聞こえた。
ふと顔を上げると、みちるの顔が真っ赤になった。
「おなか…なっちゃいました」


「クララーなんか食わして」
「まだ開店前」
どうせスポーツ欄しか見ていないくせに新聞から視線を上げず、俺と目を合わせようともしない友達、クララこと倉良達哉(くらよし たつや)に飯をせびる。
「いーじゃーん、なぁー」
「うるさいわよバカハイジ。…え、ちょっと、この子ハイジの子?」
酒を飲んだ翌日には少し厳しい声が、とんでもないことを言う。
「うるせーのはどっちだよ。あとこの子は…ちょっと預かってんだよ」
「お名前なんて言うの?」
「みちるです」
クララの妹、ユキは俺の言うことをキレイに無視して、しゃがみこんでみちるに話し掛けている。みちるもニコニコと笑いながら答えている。
…今まで気付かなかったけど、この子可愛いんじゃないか? まぁ、着てるのが俺のシャツに短パンなのがちょっとアレだけど。サイズまるで合ってないしな。
何をしゃべっているのかユキの言葉にみちるは嬉しそうに笑っていた。クララにまだ飯を作る気がないのを確認して俺はタバコに火をつけた。
「じゃ、行こうか」
「はいっ」
いつの間にか、何かの話がまとまっていたらしくユキに手を引かれてみちるが立ち上がる。
「どこ連れてく気だよ」
「バーカ、いつまでもこんな格好させておくわけにいかないでしょ。せっかく可愛いのに勿体ないもんねー?」
「あのね、ユキさんのお洋服着せてもらうの。それでみちるがかわいくなるから、なおゆきが好きになるの」
嬉しそうに頬を上気させながらみちるが言う。何となく微笑ましくてついつられて笑ってしまった。
「そっかー。行ってこい。俺が好きになるかどうかはわかんないけどなー」
「なるもん」
はいはい、と流しながら短くなったタバコを灰皿に押し付けた。
みちるとユキが、自宅になっている店の奥へと消えていった。
「クララ、飯」
「お前がオレをクララって呼ぶ間は作らない」
「しょーがないじゃん。俺がハイジでお前がクララで、二人でアルペンダンスなんだから」
「だから、コンビは解消して、オレは今一個人としてこの店やってんの。お前はいいよ、名字が拝島(はいじま)でそのままハイジなんだから。オレのは倉良の「良」をムリヤリ『ラ』って読んでるだろ」
「いいじゃん、どっちでも。なークララー、飯」
クララが絡んでくるのはいつものことなので気にせず受け流す。
俺とクララはアルペンダンスというお笑いコンビを組んでいた。クララがこの店をやりたいと言い出したので引き止めることもできず解散。その後俺はフリーの構成作家をしている。コンビの知名度はあまりなかったが、芸人時代に仲の良かった芸人のコントを書いたりして細々と活動を続けていた。
そのツテでバラエティ番組の構成作家の一人として参加するはずだったんだけど、あー昨日ボツになったんだ。
とりあえず、元相方兼幼なじみのクララがいる限り、飯には困らない。
「…あの子が何なのか正直に答えたら作ってやる」
「女の子」
「そういうこと言ってるんじゃない!」
「みちる」
「……………ボケと話すと疲れるからイヤなんだよ」
正直も何も隠してることなんて一つもない。むしろこっちが知りたいくらいだ。
「わかんねーよ。朝起きたらいたんだもん」
口を尖らせて反論するが、元が真面目なクララは、俺がふざけているとでも思っているのか全く相手にしない。
「あの子は、おまえの何なんだ?」
「さー? 恋人と、俺の子でないことは確かだよな。八、九歳くらいだろ? 二十歳頃は…ん〜多分…ない。うん」
「はぁ?」
もし俺の子だったとしても、いきなり、朝起きたらいましたーってことにはならないだろう。
俺があの大きさで産んだんならともかく。
…ひょっとして酔っ払ってる間に産んだのか? ……………なーんてな、ありえないありえないありえない。
呆気に取られたクララが何か言おうとしたとこで、元気な声がはしゃいだ足音と共に飛び込んできた。
「なおゆきー! みちるかわいいですか? ねぇ、かわいいですか?」
水色のセーラーカラーがついた白いワンピースをひらひらとさせながら、みちるは嬉しそうにくるくる回る。
「おー、かわいい、かわいい。よかったなー」
「ちょうどゴムがあったから髪も結んでみたの。いいでしょ、ツインテール」
「ユキ、ありがとなー。よく子どもの頃の服なんかあったなー。…あ、普段着か」
「それはどーゆー意味でしょうかねぇ拝島さん?」
「どーもこーも、成長してねーだろうがよ、プリンセス貧乳」
「この巨乳フェチが…! ハイジご飯いらないって!」
不自然なまでにニコヤカな表情で、結構しっかりした作りになっているメニューを顔面へと押し付けてくるユキを、必死で押し返す。
ささやかな死闘を繰り広げている隣ではクララとみちるが談笑していた。
美味いタダ飯をごちそうになりながら、これからのことを考える。
少なくとも半年の生活には困らなくなるはずだった、バラエティ番組の構成作家にはなれなかった。
飯はどうにかなっても生活はどうにもならない。
付き合いなんてないくせに、少しでもいつもと違うとやたらうるさいご近所さんの目もあるし、みちるを連れてウロウロはできない。
どうしたものか………。


手っ取り早く金を作る方法がギャンブルしか思い浮かばなかったのは自分でも情けないと思う。
だが、日払いのバイトをするには体力が足りないし、生業である作家としての仕事も今は何もなかった。
とりあえず手持ちを増やすため近くのパチンコ屋へと出かける。
みちるを連れて行くわけには行かないので、留守番をしてもらうことになってしまったが…。
「じゃあ、大人しくしてるんだぞ。好きにしてていいから」
ベッドが部屋の半分以上を占めている俺の部屋。ベッドのすぐ傍に置いてあるテーブルのまわりには本が散乱している。
散らかったままの部屋にふと彼女の不在を感じて一抹の寂しさを感じる。
…なんか妙にナーバスになってるな。
「本読んでてもいいんですか?」
「いいよ。あー、どこに何があるかわかんなくなっちゃってるけど」
「宝探しみたいで楽しいから大丈夫です、いってらっしゃい」


「…ひょっとして俺パチプロで食っていけんじゃねーの?」
結構な額の現金と、端数玉分でもらったお菓子。
俺は甘いものはあまり好きじゃないが、みちるが好きだろうと思って普段もらうガムではなくチョコレートをもらってきた。
「ただいまー」
「おかえりなさいっ」
部屋のドアを開けるなりみちるがしがみついて来た。
「…どこに行ってたんですか?」
大きな黒い瞳が不安そうに揺れているのを見て申し訳ない気分になる。
ああ、いくら狭い部屋でも一人で何時間も過ごすのは寂しいよな。
ここに置いてある本なんて、子どもには大して面白くもないだろうし。
「ごめんな、寂しかったろ」
小さな頭をそっと撫でてやると、みちるは少しだけ頷いた。
「ほら、チョコでも食べて、俺はちゃんとここにいるから」
靴を脱いで今までみちるにあった視線を部屋にやって驚く。
あれほど散らかっていた部屋がきれいに整頓されていた。
「みちるが…片付けたのか?」
「なおゆきはお仕事が大変だからお片付けできないんでしょ?」
少しだけ潤んだ瞳が見上げる。
罪滅ぼしにはならないかもしれないが、明日からは出かけるときはなるべく一緒に連れて行こうと思った。

昨日がパチンコ、今日は競馬…うーん、ステキだ俺。
怪訝そうなみちるを、本物の馬を見せてやるから、と騙し騙しで競馬場へと出かける。
手堅い勝ちでいくらか手持ちが増えた俺は少し気が大きくなっていた。
「みちるはどの馬が好き?」
自分が買うのは決まっていたが、みちるにも聞いてみる。
「えーっと、あの2番のお馬さん、あ! あと8番も」
「ロイヤルブライとペーパーレンズ…? あんま聞かない名前だな」
自分の勘に自信を持てず、つい買ってしまった競馬新聞をみるが、二頭ともあまり勝率はよくなかった。
あんま人気なさそうだな…、まあお遊びで三千円だけだし、俺が買うのは一番人気で固いし大丈夫だろう。

周囲の悲鳴が聞こえる中、俺は買った馬券を呆然と握り締めていた。
「うっそ…だろう?」
みちるの予想が大的中。
配当金が三万二千五十円ってことは…払い戻しが九十六万………ええぇぇぇっ! 超万馬券じゃねーか!

* * * * *

それを皮切りに次々とラッキーが俺の周りで起こるようになった。
電車が揺れた拍子にしがみついた相手が痴漢で女子高生に感謝されたり、
何気なく入った店でちょうど来店一万人目でサービスを受けたり、
付き合いで出た麻雀はいきなり聴牌だったり、
冗談で買ってみたお菓子には金のエンゼルマークがついていたりした。
「おまえ、ひょっとしたら座敷わらしだったりしてなー。まーそんないい家でもないか」
ノートパソコンにプロットを打ち込みながら少々大きめの独り言。
みちるは読んでいる本に没頭しているらしく俺の発言への反応はない。
吸っていたタバコを灰皿に押し付けぐるりと部屋を見回す。気付くとみちるの為の物が結構な量になっていた。
それでも自分できちんと片付けているらしく散らかった感じはまったくない。逆に俺が片っ端からひっくり返しているようだった。
早いものでみちるがうちに来てから一ヶ月になろうとしている。
最初の頃はどうしていいものか持て余し気味だったが今ではすっかり馴染んでしまい、絶対に恋愛感情ではないがある種の愛情のようなものが芽生えていた。
ある程度精神が安定していると書いた物にも安定感が出てくる。
曲がりなりにもプロなのだから自分のコンディションに左右されるようではダメだとは思うが、それでも切羽詰った状況より、ゆとりのある状況の方が、出てきたヒラメキの質がいい。
みちると一緒にいることで今までと違う刺激を受けるのか、自分では『コレだ!』と思えるアイディアが次から次に出てくる。
今度こそプロデューサーに没にさせない自信がある。
「ねー、なおゆき?」
ぱたんと読んでいた童話集を閉じてみちるが問い掛ける。
「みちるのこと好き?」
「…そうだな、好きだよ」
現れたときと同じように突然いなくなってしまったら、多分俺は落ち込むだろう。
彼女との別れでは持たなかった喪失感の予感。
「ほんと? じゃあ、みちるはずーっとなおゆきと一緒にいるね」
みちるの笑顔が本当に嬉しそうで、思わずつられて微笑み返す。
小さな頭を撫でてやる。少し照れているのが何とも可愛らしい。
姉貴の子どもでも面倒臭かったんだけどなぁ…案外子煩悩タイプか、俺?
満足そうに笑っていたが、どうも眠くなってしまったらしく目をしきりにパチパチさせている。
寝るように促すとコクリと頷いてベッドの端の方で小さく丸まってしまった。
電気を消そうかとも思ったが、ちょうど明日あのヒゲプロデューサーのところに企画とその企画の台本を持っていくことになっているので申し訳ないがつけたままにさせてもらう。
どうにかもぎ取ったチャンスだ。ここで活かさなくてどうする!


相変わらずみみっちく伸ばしたヒゲを弄りながら、プロデューサーが面倒そうに企画書に目を通す。この待っているだけの時間というのは中々にツライ。
喉は渇くが目の前のコーヒーを飲めるほどにはリラックスが足りない。もっと大物になれば話は別なんだろうが、俺のようなぺーぺーにはどうにも………。
「そうねぇ…」
やっとプロデューサーが口を開いた。この一瞬だけで吐き気がするほど緊張してしまう。慣れねーなー、やっぱり。
「いいんじゃないの? よろしく拝島くん」
思わず息を飲む。マジで? オッケー? やった、よっしゃー!
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
「あ、じゃあ早速なんだけど、このコーナー、コント明後日までに上げてきて、収録は金曜日。いい?」
「はい!」
うきうきとした足取りで家へと戻る。
キャストのキャラを活かしながら今までになかった見せ方。ネタがどんどん出てくる。
それが古くならないうちに書き止め、練って、形にする。
好きで選んだ仕事だったが、これほどの充実感を持ったことはなかった。
コンスタントにコントを書き、それが放映される。元々人気のある番組だったが常に高視聴率番組にランクインし、俺の担当コーナーがその番組の目玉になるようになってきた。


「こんにちはー」
「たのもー」
クララの店のいい感じに古ぼけたドアを開けるみちるのうしろで、何をするでなくみちるを見る。
買ってやった赤いチェックのスカートがよく似合っている。自分で結んだせいか左右で高さが少し違っている髪が何とも微笑ましい。
「おー最近調子いいみたいじゃないか。よく名前見るぞ」
「ぜっこーちょー!」
カウンター席に並んで腰をおろす。少し高めのスツールのせいでみちるはあっぷあっぷしながらどうにか座った。
「何か食う?」
「いや、俺いいや。みちるは? アイスとかいらないか?」
「オレンジジュース飲みたい」
「というわけで、オレンジジュースと、アイスコーヒーをホットで」
「…またベタなボケしやがって。お前が売れてる理由がわかんないよ。常温のコーヒーな、この猫舌」
わざとらしくため息なんてつきながら、クララがコーヒーを淹れる。 コポコポとサイフォンの中でコーヒーが揺れるたび店の中の香りが増していく。
俺がタバコに火をつけるのと同じタイミングで、俺に灰皿、みちるにオレンジジュースが出された。よく気がつく男だ。嫁さんだと嬉しいタイプだな…
クララを嫁にもらうのは絶対にごめんだけど。
「あ、そういやユキは?」
「ああ、今銀行に両替に行ってる」
「ふーん」
「…お前にだけは絶対やらないからな」
「賞金つけるって言われてもいらねー」
「こっちから願い下げよ」
ゴツッと後頭部に硬い痛み。振り返るとユキが立っていた。多分両替後の小銭袋で殴られたんだろう。
「痛ぇよ」
「痛くしたんだもん」
ふんとあからさまに顔を背けながらレジへと向かっている。ユキも、美人っていやぁ美人なんだよな。胸ないけど。
「ハイジ、あんたちょっと痩せてない?」
「どっちかっていうとやつれた感じだぞ」
「…ああ、最近忙しくてロクに寝てねーかんな。多分それだろ、そのうち戻るって」


仕事も軌道に乗り、俺の名前がひとつの看板として成立するようになった。
以前の仕事を見た人からのオファーが入り、それをこなしていく。
マンネリ化・パターン化することはなく、その都度依頼に合わせた企画を挙げ、それがまた新しい仕事へと繋がる。
自分が自由業なのをいいことに、俺とみちるはいつも一緒にいた。
さすがに打ち合わせなどに連れて行くわけにはいかなかったが、それ以外は常に一緒だった。
一人でプラプラ出かけようと思っても、「どこに行くの?」とみちるの黒い瞳が揺れると、置いて出て行くことが出来なくなる。

早いものでみちるが来てから一年が経っていた。
学校に行かせた方がいいのかとも思ったが、普通の生活に困らないくらいの読み書きもできるし、しっかりしてるからまぁいいかと納得することにした。ニュースや新聞でも少女失踪が騒がれたこともなかったし。
みちるは俺の人生の中で最大のラッキーが偶々少女の形をしているんだろうなどと夢のようなことまで考えることすらあった。

* * * * *

「はやくー、行こうよー」
ボーっとしながらタバコを吸っていると、玄関から焦れたような声が聞こえた。
「吸い終るまでもうちょい待ってて」
まだ半分ほど残っていたがそのまま灰皿へと押し付ける。
「まだー?」
「はいはいはい、行こうか」
「わーい」
夏の暑さも過ぎて、風が少しずつ冷たさを増していく。
旧暦の八月十五日、中秋の名月をみんなで見ようじゃないかという名目で今日は店に集まることになっていた。
今までそんなイベントは一度もなかったんだが、商店街活性化計画の一部として行われるらしい。
商店街での月見は明日らしいが、どうせイベント用の料理の仕込みがあるから一緒だということで一日早く内輪だけで月見をすることになった。
俺の一歩前を嬉しそうに歩いている姿を見守る。子どもの成長が著しいことを俺は初めて実感した。
去年ユキにもらった服はもう小さくなって着れなくなってしまった。新しく買ったオレンジ色のふわふわとしたジャンパースカートがとても可愛らしくて似合っている。
少女趣味だと笑われそうだが、いかにも女の子といった洋服が結構好きだ。勿論自分で着るわけでなく、着ているのを見るのが楽しい。
「なおゆき」
いきなり立ち止まって俺のほうを振り向く。
少しだけドキリとした。この子、こんなに大人びた顔をしていたっけ?
「みちるのこと、好き?」
小さく首を傾げると、柔らかい髪がさらさらと流れる。
沈みかけた夕日が、オレンジ色の服をますます濃いものへとしていた。
「ああ、好きだよ」
不安なのか、みちるはことあるごとに尋ねてくる。そのたびに俺は同じことを答える。
そして、いつもみちるは笑う。
…そう、いつもは笑っていた。
「…どうした?」
何ともいえない微妙な表情を向けるみちるを覗き込む。
「ううん。ね、早く行こう」
無理やり泣き笑いみたいな顔をしながら、何でもないと言われても納得ができない。
ただこれ以上問い詰めても傷つけてしまうような気がして、黙って頷いて手を握ってやった。
小さくて温かい感触は手を離した後もしばらくの間は残っていた。

真ん丸で怖くなるほど輝く月を見上げながらビールを飲む。芸が細かいクララはきっちり月見だんごをつくっていたが、砂糖の甘さしかなくて俺は遠慮していた。
クララとユキとみちると、わいわいいいながら月を見ていた。



気がつくと周りの音がすべてなくなっていた。
「なおゆき」
声のした方を見ると、少し離れたところにみちるがいた。
真っ白で何の飾りもないシンプルなワンピースが金色の月の光を受けて輝いているように見えた。
こちらに近づくごとに違和感が芽生える。
徐々に狭まる距離。数メートルの距離まで近づいてきたときに違和感の正体に気がついた。
一歩進むごとにみちるは成長していた。
俺の目の前に立っていたのはよく見知った少女ではなく、スラリとしていて、出るとこはちゃんと出ている一人の女性だった。
さっきまでいたはずのクララとユキの姿はなくなり、見えているものはみちると月だけになっていた。
「ごめんね」
突然の謝罪の言葉。何を謝られているのかがわからずに眉を寄せる。
「私も、尚之のこと好きだったよ」
だった?
「でもね、もう一緒にいられないんだ。私、リャナン・シーだから…」
悲しそうに顔を歪める。
光の粒がはらはらと落ちていった。思わずその体を抱きしめたが、触れた瞬間みちるは霧のように掻き消えてしまった。



「…リャナン…シー…?」
妙に耳に残った言葉。隣ではみちるが平和そうに寝息を立てている。
起こさないようにそっとベッドを抜けてパソコンを立ち上げる。調べ物はたいていインターネットで検索をすれば解決できてしまう。便利な世の中だ。

【リャナン・シー】
人間の男の愛を求め続ける妖精。男が愛を拒めば奴隷のようにかしずくが、
愛を受け入れた男からは命を吸い取り代わりが見つかるまで取り付き離れない。
また恋人となった男に霊感を与え、優れた作品を書かせるともいう。

小さく息を飲む。じゃあ、今までのは全部…? 
振り返った先にあるのは何の罪もない寝顔。重たいんじゃないだろうかと思うほど長い睫毛。今は閉じられているが澄んだ黒い瞳。小さな鼻に、赤い可愛らしい唇。
すべてが愛しい。
パソコンを終了させ、もう一度ベッドへと潜り込む。
今度は何の夢も見なかった。



「はやくー、行こうよー」
「吸い終るまでもうちょい待ってて」
「まだー?」
「はいはいはい、行こうか」
「わーい」
みちるの手を引いてクララの店に月見のために集まる。
缶ビールを開けながら、白いだんごをニコニコして食べているみちるを見る。
いい具合に雲がない濃い紺色の空には全ての星の瞬きを阻むように、満月が煌々と輝いている。
「キレーだねー」
「そーだな」
ゆっくりと空を見上げて深呼吸する。少し冷えた空気が肺へと送られ、酔った体に気持ちが良かった。
「ちょっと、飲みすぎなんじゃないの」
「月見酒だよ、月見酒」
ユキの声に笑って返しながら、次の缶へと手を伸ばした。
「あー、飲んだ飲んだ」
どうにか家へと帰り着き、ベッドへ大の字に寝転がる。
甲斐甲斐しく持ってきてくれた水を一息で飲み干す。ふうっと吐いた息が酒臭いのが自分でもわかった。
「みちるぅ」
「なーにー?」
「…ありがとなー」
自分の呂律があやしいことは自覚していたが、どうしても言いたかった。
「みちると一緒の間、俺ずーっとシアワセだったの。絶対、世界で一番シアワセだった。だからぁ、ありがとう」
ぎゅうっとみちるを抱きしめる。柔らかくて温かい小さな体は微かに震えていた。
「…ごめんね………」
すっぽりと俺の腕の中に収まってしまったみちるの声が泣いていたようだったのには気付かないことにした。
抱きしめた格好のまま、そのまま眠る。




  とても楽しい夢だった。
  大好きな仕事を続けられて、認められて、いつも近くに安息の場所があって。
  多分、本気で人を大切だと思ったのは初めてだった。
  一緒に過ごした時間はどれも輝いていた。
  ありがとう、みちる。
  本当に、ありがとう。




ぱちんと音がして、私の跡は全部消えた。
『みちる』が着ていた服も、履いていた靴も、読んでいた本も、関わっていた人たちの記憶も…
何もかも全て。
私の正体を知ってから「ありがとう」と言った人は初めてだった。
気付いたときにはもう遅いのに、急に手のひらを返したように冷たい仕打ちをする男もいた。
「…みちるも…楽しかったよ。ありがとう、なおゆき」
そっと額にキスをした。
もう、触れ合うことは出来なくなっていたけど、それでもどうしてもしたかったから。





END


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