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とても、風の強い日だった。桜の枝がざわめき、薄紅のカケラが視界いっぱいに広がる。 毎日通っている学校。慣れた場所のはずなのに、まったく知らない所へ迷い込んでしまったのだろうかと思えるような景色に玲はただただ圧倒されていた。 先客の存在に気が付き、何気なく目を向けて飛び込んできた映像に衝撃を受けた。 花びらを巻き込みながら吹く風の中、髪を戯れに乱されるのも構わずその人は立っていた。 涙を流しながら。 理性と理屈だけで生きていると思っていたその人が、満開の桜の下で涙を流しているという叙情的な光景はあまりにもミスマッチで、与えられたある種の危うさは玲の胸を締め付けた。 それは、いつまでも止まない痛みだった。桜の花が散り、攻撃的なまでに照り付ける太陽が過ぎた、穏やかな季節の中でもまだ続いている。 「木庭先生…」 未だくっきりと焼きついた風景。その人の名を口にするだけで、胸の締め付けは一層強くなり、動悸は激しさを増す。 きっと、人を好きになるのは理屈じゃない。 * * * * * 放課後、いつものように生物室の片隅にある水槽の前に玲は座っていた。視線の先には一匹のカエルとおぼしき生き物。モスグリーンを基調とした背中にアトランダムに配置されたビビッドな赤は見る者の本能に警告を与えるようですらあった。 「無害な割にグロテスクよねぇ」 本当にそう思っているのか疑問を抱きたくなるほど淡々とした口調で玲は話し掛けている。 一人でカエルに話し掛けているのは、別に玲の友達がこのカエル(正式名称不明・通称シーマン)だけだからというわけではない。確かに気付けば「シーマン当番」に祭り上げられていたが、そのことに関してはまったく不満はなかった。逆に生物室に毎日来る大義名分が出来たことを感謝したいくらいだった。 「傍から見てると友達いなそうだな」 ちょうど出入り口の方から耳慣れた低音が聞こえてきた。この生物室管理担当にあたっている生物教師の木庭雅仁(コバ マサヒト)だった。ドアに凭れかかったまま、銀色のフレームをした眼鏡を拭いている。 「木庭先生、まだ寝癖ついてますよ」 「青いな新城、大人の男ならではのお洒落だ」 「靴下が紺と黒なのもですか?」 「そうだ」 木庭のスリッパの上にあるのは右と左の色がはっきりと違う靴下。 「……………寝ぼけてたんだよ。小姑かお前は」 何か言いたそうにじっと見ている玲に観念したように、少しだけ白髪が混じった髪を掻き上げながら、『玲が生物室に日参する理由』は唇を歪めてため息をついた。 「もう職員会議終わったんですか?」 「ああ」 壁の時計と自分の腕時計を見比べ時間を確認しながら玲は首を捻る。 「随分早くないです?」 現時刻は午後五時十分を少し過ぎたくらい。そんなに早く会議が終わるものだろうか。 「四時半からでしたっけ」 「いや、五時から」 「え?」 「大人にはなそれぞれ事情があるんだよ。教師には教師の事情がな。……くそっ、教頭め」 忌々しく吐き捨てるような木庭の発言も、玲にはすでに聞き馴染んだものだった。良くも悪くもマイペースなこの生物教師は教頭との折り合いが悪く、そのことは職員はおろか生徒に至るまで周知の通りだった。 それ以上職員会議については何も触れず、玲はシーマンを見ていて気になったことを木庭へ話し掛ける取っ掛かりにして会話を始めた。今日に限らず、アメリカザリガニの餌をサバにすれば体の色が真っ青になるだとか、カエルは異物を飲み込むと胃袋ごと吐き出すだとか、他愛もない話をしながら玲の放課後は過ぎていくのが常だった。他人からみればどんなにくだらない話でも、木庭との会話だというだけで玲の胸は高鳴っていた。ただその胸のうちは心情が顔に出にくい性質であるせいかまったく表にはでていなかったが。 春の陽気が心地よい昼休み。ちょっとした花見気分味わおうと親友である美凪に引っ張られ、駐輪場の片隅にポツリと咲いている八重桜の下で玲は昼食を取っていた。八重桜はソメイヨシノより開花時期が遅いので年によっては四月下旬まで桜の花を愛でることができる。 しかし、そんなうららかな陽射しとは裏腹に、玲は人知れずショックを受けていた。ただ、美凪に知られたくない一心で懸命に表に出ないように心がけていた。 「もう一年になる?」 最近のマイブームらしい津軽完熟りんごパンをちぎりながら、唐突に美凪が口を開いた。 「……何が?」 美凪が何を指しているのかは分かっていたが、玲はわざと惚ける。 「私が教えてもらったのはこの間なんだけどね」 「……………それは、悪いと思ってる」 きっかけはちょうど一年前、玲が満開の桜の下で木庭を見かけたことだったが、そのとき芽生えた想いが恋愛感情だと気がついたのは秋も深まろうとしていた頃だった。自分が抱いた感情に慌て美凪に相談しようと思いもしたのだが、美凪の方がちょうど取り込んでいたため中々言い出せずにいたのだった。今ではその『取り込み』の原因となった人物である小山内優鷹とラブラブな日々を送っているようで、玲は友人として嬉しい反面どこか淋しかった。 「でも仕方ないでしょ。好きになってるってことに気付かなかったんだから」 「玲ちゃん頭いいのに、自分のことになると全然だもんねー」 りんごパンにメロンソーダという、合っているかどうか微妙なラインをついている昼食を摂っている美凪に曖昧な笑顔を返しながら、玲は弁当を口へと運ぶ。 玲には年子の兄と弟がいる。しかし、男兄弟に挟まれているからといっても、決して男勝りなわけではない。ただ背が高かったのが目立っていたのか小学生の頃からケンカを売られることはしょっちゅうだった。男女の体格差が殆どない時期なので腕力で負けるとは思ってなかった。ただ相手にするのが鬱陶しく「うるさい」と元から切れ長の目を益々鋭くして、長身をいいことに冷ややかに見下ろしていた。すると、一方的に敗北感を味わった相手は泣きながら帰ってしまう。結果オーライではあったが、気が付くと『新城には敵わない』と男子は恐れ慄きその後二度と難癖をつけることはなくなった。そんな体験からか、玲にとって同世代の異性とは粗野で頭の足りない生き物だという存在でしかなかった。学校という狭い世界の中では玲の考えを覆すような人物との出会いもなく、ときめきを覚える事もないまま、玲はどうせ三年間過ごすなら可愛い女の子との方がいいと女子高へと進学を決めた。その所為だろうか、初めて感じた胸の痛みの正体がわかるまでは結構な月日がかかってしまったのは。 「美凪は可愛いね」 元々優しい顔立ちだったが、優鷹と付き合うようになってからよほど毎日幸せなのだろう、前以上に表情は柔らかくなり笑顔がいつもキラキラしている。 「いきなりやめてよー。なに?私の津軽完熟りんごを狙ってるの?」 「違う、ただそう思ったから言っただけ」 性格も素直だし、天然なところもとても魅力的だと思う。そうやって美凪のいいところを見つけるたびに、玲は少しずつ落ち込んでいく。人それぞれだし、個性を比べるのは意味がないとは思っているのだが、自分が持っていない女性的な可愛らしさを持つ存在というのは羨ましかった。 「また難しいこと考えてんでしょ」 「別に、いつも通りだよ」 丸い瞳でじっと見つめてくる美凪に苦笑を返しながら、玲はペットボトルのお茶を口に含む。渋みがいつもより強い気がした。 「じゃあ、何で落ち込んでるの?」 「何言ってんの」 そう答えながら、玲は美凪の鋭さを恨みながら感謝していた。なけなしのプライドなのか、誰かに不安を聞いて欲しいのに、自ら言い出すことができない。木庭への気持ちに気付いた時もそうだった。気付くのに時間がかかったのも、その時思い悩んでいた美凪に悪くて打ち明けることが出来なかったのも本当だが、本心ではない。言い出せなかったのは、例え美凪にでさえも自分の弱さを吐露する勇気がなかったからだ。 「私じゃ足りない?」 大きな黒い目が真剣に玲を捉える。どんな隠し事もできないような真っ直ぐな瞳。 「……………あのね…」 じっと真摯に待ち続ける美凪に、玲はぽつりぽつりと口を開き始めた。 「生徒はね、女には見えないんだって」 「木庭先生が言ってたの?」 「うん。あ、別の子に言ってたのを聞いてただけ。付き合いたいとかそう思ってたわけじゃないけど…ショックだった」 少し淋しげに目を伏せているが、声は不自然なほどいつも以上に冷静で、淡々としていた。美凪はどう答えればいいのか分からず、静かに話を聞くことしかできなかった。 「当然だと思う。だって、自分の半分くらいしか生きてない子どもなんて相手にできない。でも、理解してるのに納得してない。もうどうしていいかわかんなくて…」 自分で自分を抱きしめるように玲は袖を握り締める。きっちりとアイロン付けされたシャツに皺が寄った。風がさわさわと桜の枝を揺らす。舞い落ちる花びらは一年前とは比べ物にならないほど少なかったが、それでもあの時の情景を喚起させ玲の胸を締め付けた。 「簡単だよ」 しばしの沈黙の後聞こえてきたのは、美凪の明るい声。 「玲ちゃんはね、悔しがってるんだよ。『どうせダメだから』って諦めるより、やるだけのことやればいいじゃない。そしたら結果がどんなでも納得できるって」 「…でも」 「ほらぁまた、どうせダメ元なら気がラクでしょ?当たって砕けても大丈夫、ちゃんと私がいるから」 「当たって砕けても…って。普通はそういうこと言わないもんでしょ」 苦笑しながら文句を言ってみたものの、つい顔は綻んでしまう。今までどんよりとしていた心の中にさっと風が吹き込むような美凪の一言。素直な性格そのままの言葉はいつでも玲を明るい方へと導いてくれる。 「早く行かないと昼休み終わっちゃうよ。私は一人でもごはん食べれるから」 「ごめんね美凪。ありがとう」 手早く弁当箱を片付けると、玲は駆け足で木庭がいるであろう生物室を目指した。 木庭が根城としている生物準備室。遊びに来る事はしょっちゅうだったが、これほど緊張した事は今までなかった。走った所為だけではない、うるさいほどの動悸を聞こえない振りをして無理やり落ち着ける。手をかけたドアのヒヤリとした冷たさが霧散してしまいそうな気持ちをぎゅっと引き締めた。 「失礼します」 礼儀として声は掛けたが中からの返事を待たず、玲は準備室へと入った。 「ああ、新城か。昼休みに一人とは珍しいな」 聞き馴染んだ低音。ときどき掠れるのは前日の酒が残っているときだと前に言っていたのをふいに思い出した。木庭は言いながら一瞥すると玲の入室を気に掛ける素振りもなく、読みかけの雑誌を捲りながらカロリーメイトを齧る。 意気込んで来たもののいざとなると言葉は喉で詰まってしまい中々外へと出てこない。出入り口にぼうっと立っているのも間抜けなので少し歩を進める。横の硝子張りの戸棚、ちょうど目線の高さに陳列されているのはホルマリン漬けのネズミ。恐怖感はないが何となく今の気分にそぐわないように思えて、木庭の机へと視線を移す。持ち主の性格をそのまま反映させた机の上は、今使わない物はきっちりと几帳面に整理されておきながら、今必要な物は乱雑に放置されている。あとからコピーでもする気なのか何冊もの雑誌が開かれたまま置いてあった。見出しに『衝撃!人面犬が群れを成す草原』と書かれたものもあり、木庭の興味の範囲に感心しながら少しだけ可笑しくなった。 「木庭先生」 「なんだ?」 やっとの思いで口を開く。木庭の視線が雑誌から玲へと移る。 「生徒は、女とは見えませんか?」 玲の発言に木庭は一瞬怪訝そうな顔をする。何度か目をパシパシと瞬くと事の意味が飲み込めたのか「ああ」と小さく呟いた。 「逆に私がお前達を女として見ている方が気持ち悪いだろう?」 言ってる事の筋は通っているが、それは玲が望んだ質問への回答ではなかった。 「私は…私は、木庭先生の事を男性として意識しています」 それが玲には精一杯の告白だった。好きだとも恋人になってくれとも言わない。ただ、自分が木庭の事を想っているという事実は知っていて欲しかった。 「そうか。悪いが生徒は女性として見られない」 いつもの授業のような淡々とした口調。一切の感情が排他された声色は鋭く砥がれた刃物のようだった。 何も言えなくなって、小さくお辞儀をすると玲は力なくドアへと向きを変える。 「だがな…」 肩越しに木庭の呟きが聞こえてきた。もうこれ以上聞きたくないという気持ちと、もっと声だけでも聞いていたいという相反する気持ちが葛藤を生む。振り返って顔を見ることは出来ないが、玲はドアへと向かう足を止めた。 「お前は、あと一年経てば私の生徒ではなくなる。言ってる意味がわかるか?」 それは俄かには信じられない言葉だった。生徒は女に見えない。けれど卒業して生徒でなくなれば…? 「私は自分の心情を言葉にするのは苦手でな」 「………ありがとう…ございます」 そう言うのがやっとだった。感極まって溢れそうになる涙を懸命に押し留める。 木庭は少しだけ苦笑しながら、目にかかりそうになるほど伸びてしまった髪を流すように掻きあげる。眼鏡の奥の瞳は初めて見る優しい表情をしていた。 「失礼しました」 これ以上傍にいると嬉しさのあまりとんだ失敗をしそうな気がして退室した。準備室横の踊り場では心配そうな美凪がいたが、玲の隠し切れないほどの喜びを察してにっこりと微笑んだ。 * * * * * そして今日も玲は変わらず放課後には生物室へとシーマンの世話をしにいく。勿論それが一番の目的ではないが。あの告白があってからも玲と木庭のやり取りは何ら変わることがなかった。 ただ、お互いにしかわからない微量の甘さは隠されていたが。 「そういえば去年の話なんですけど、何で中庭で泣いてたんですか?」 「ん?ああ、あれか。あの日コンタクトで出勤してたからな」 「コンタクト?」 「ちょうど眼鏡を出掛けに曲げてしまって学校帰りに修理に出すつもりだった。裸眼じゃ生活できんからな」 「…ひょっとして私の推理当たってますかね」 「多分な」 「泣いてたのは、強風で、目にゴミが入った所為?」 「そんなきっかけだと幻滅するか?」 「まさか」 「玲ちゃーん、ねえ…あ、お邪魔しましたー」 「ちょっと何言ってるの美凪」 「一ノ瀬、お前の好きそうな菓子があるがいるか?」 「えっ?お菓子?いります」 卒業するまでの約一年。案外短く、楽しく過ごせる気がした。 次の桜は舞う花びらを一緒に見られるといいと、玲は部屋に吹き込んできた風と高く澄んだ青空に夏の気配を感じながら、ゆっくりと目を閉じた。 【END】 |