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日本海新聞 コラム「潮流」

(2010年 07月12日)



『引揚げ』の舞鶴港はいま

 写真家・久保田美雄(米子市)



 大連港から引揚船「山澄丸」(やまずみまる)(六、八五九トン)に乗って舞鶴港に上陸したのが昭和二四年九月。この六月下旬、六一年振りに再訪した舞鶴港は大きく変貌していた。
 あの『岸壁の母』で一躍有名になった引揚桟橋はもう無くなっていて、そこには立派な引揚記念館が建っていた。私たち米子からのツアーが訪れた日はちょうど日曜日とあってお年を召した多くの団体も見受けられた。この記念館に収蔵されている『引揚者名簿』で自分の名前を確認出来る、というのがこのツアーの魅力の一つで、いつかは訪れたいと念願していた。
 ところが『引揚者名簿の記録はすべて厚生労働省に保管してあるのでそちらで問合せて下さい。』というつれない窓口の応対だった。外地からの引揚者たちは、舞鶴港に上陸すると、頭からパンツの中までDDTの白い粉の洗礼を受けたあと、収容所に三日間拘留させられ、親たちは引揚援護局から中国での履歴を徹底的に調べられて記録されているのだ。
 引揚者仲間から『名簿で自分の名前を確かめてきたよ。』と聞かされていただけに残念でならなかった。いつからこのようになってしまったのだろう。
 湾の形が羽根を広げて舞い降りる鶴の姿に似ていることから舞鶴という地名になったという舞鶴港。港に面した標高三○○メートルの高台に、その広い港が一望出来る展望台がある。日本海に面した湾の入口は狭く、湾内は扇を広げたように西と東に海面が大きく広がっている。大連の旅順港の佇まいによく似ていて軍事的にも天然の良港であることが判る。
 当時一二歳だった少年の目には、緑豊かな舞鶴の山々の風景は鮮烈だった。その岸壁はいま工場やドッグ、火力発電所の高い煙突、赤いレンガの倉庫群、海上自衛隊の学校や施設、ヘリコプター飛行場、自衛艦専用の埠頭などが並んでいる。高度経済成長とともに港は発展を続け、かつての日本海軍の軍港はそのまま海上自衛隊の基地、アジアに対する日本海側の最有力基地として強化、拡大を続けている舞鶴港なのだ。
 港めぐり遊覧船に乗ってそれらの施設を船上から見ることができた。まず沖合いには先頃海外派遣でインド洋上で燃料の補給活動をしていた補給艦『ましゅう』(一三、五○○トン)全長二○五メートルの巨体が停泊していた。対空、対艦、対潜水艦などあらゆる局面で目標を捕捉して対応、判断、攻撃ができるイージスシステムを搭載したイ−ジス艦『みょうこう』(七、二五○トン)など三隻、護衛艦『みねゆき』多用途支援艦『ひうち』などの艦隊がずらりと艦首を揃えて停泊している。灰色ににぶく輝く艦隊の非日常的な風景を目の当たりにして、平和ぼけしている私たちには強烈な印象だった。
 今回の舞鶴ツアーで、『引揚げ』は遠い過去の出来事になってしまった、と感じた。そして『異国の丘』『岸壁の母』の歌を知らない若い世代が多くなったこの頃、体験した私たちが『終戦』とか『引揚げ』を語り継いでいくべきだと思った。