Whenever DALIAN 連載企画
ヒューマンストーリー
「大連までの道、そして…」
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第9話 矢野 定典物語
中国の若者に技術伝える第二の人生 2010年08月>
日本から離れた大連には数多くの日本人が暮らしている。辞令一枚で見知らぬこの地へ赴任してきた人もいれば、新たな未来を切り拓くため、自ら進んで飛び込んできた人もいる。そこにはそれぞれのストーリーがある。なぜ大連へと人生航路の舵を切ったのか……そんな「大連までの道」の軌跡をたどってみよう。(文中、敬称略)
嫌だった造船業界で実績
船舶の船首や船尾、船底など美しい鉄の曲線をつくり上げる造船技術の「ぎょう鉄」。繊細で芸術的でもある日本のその技術は、世界でもトップクラスと言われている。矢野定典は、そんなぎょう鉄を中心に40年以上にわたって造船業界に携わって来た。いま、旅順の開発区に会社を立ち上げ、中国の若い人たちにその技を伝える。
「中国の若者は真面目で真剣。この子たちにぎょう鉄の技術を教えることが私の生き甲斐でもある」。こう語る矢野だが、5年前までは中国とはまったく無縁だった。人生のドラマはどこに転機が隠されているかわからない、と矢野はつくづく思う。そして大連との不思議な縁を振り返る。
■サツマイモと薪拾いの少年時代
終戦のちょうど5か月前の1945年3月15日、矢野は愛媛県今治市に生まれた。5人の兄弟妹の二男。父は東京・警視庁の警察官だったが、生まれたばかりの兄を連れて、跡継ぎのなかった叔母の夫婦養子として今治へ帰省した。今治は古くからの海運と造船の町であり、大小の造船会社がひしめいていた。父はそんな地元の造船会社に勤めながら、休日は所有していた田畑で農作業に励んでいた。
矢野がまだ幼いころは食糧事情も悪かった。小学生のころは、3食が蒸かしたサツマイモだったこともある。いつもひもじさを感じていたが、都会の子どもたちより、まだ恵まれていたのかも知れない。
父は「人様に迷惑をかけるな」と言うだけで、細かいことは言わずに自分の仕事に精を出していた。だが、造船の仕事は3Kの代表格。労災事故が相次ぎ、職場も汚れ、仕事も過酷な勤務が続く。そんな父の働きぶりを見ていた矢野は、「おれは造船の仕事には就かない」と幼心に思っていたのである。
小学校時代の思い出と言えば、近くの山での薪拾い。当時は風呂を沸かすのも、台所の煮炊きも燃料は薪だった。小さな半島に突き出た今治は、海に面しながらも背後に標高200メートルほどの山が連なる。そんな故郷と大連はよく似た環境にある。風光明媚な景色と豊かな山海の幸。大連に居心地の良さを感じるのも、そんな故郷との共通点があるからだろう。
中学校も地元の学校へ進み、陸上部に入って長距離ランナーとして頭角を現した。部活動とともに、当時のいたずらも懐かしい思い出だ。若い女性教師が教室に入って来る時、引戸の黒板消しを上部に挟んでおいた。戸を開けたとたん、黒板消しは女性教師の頭にコツン。泣きながら職員室へ帰り、代わりに出てきたのが体育会系の男性教師。いたずらの代償は痛い体罰だった。
■精神と肉体を鍛えた自衛隊への入隊
そんな中学校時代が終わった昭和30年代半ば、世の中の景気が上向き、同級生たちは東京、名古屋、大阪方面へ集団就職して行った。矢野は「造船会社に就職したらどうか」と勧める父を振り切って、今治の電気配線工事会社に入った。当時は白黒テレビや電気釜、洗濯機などの電化製品が普及し始め、「これからは電気屋が良い商売になる」と2年後に地元の家電販売店に転職。販売から修理、配達まで何でもやった。
製品を届けると、「酒を飲んで行け」「ご飯を食べて行け」と誘われ、さらには「他の家も紹介してやる」と地元の人情にふれて営業成績を上げた。一方では車の免許は、大型二種や特殊などほとんどを取得。充実した家電の仕事も2年で壁にぶち当たった。「カラーテレビなどが急速に出てきて、自分の能力では修理することさえできない。専門知識について行けなかった」。
今治から松山に仕事を求め、職安に行ったところで自衛隊入隊を勧誘された。陸上自衛隊小野駐屯地に連れて行かれ、その場で試験を受けさせられて即合格。人生は思わぬ方向へ舵を切り始めた。「体を鍛えるためにも1任期(2年)は入隊してみるか」。結果的にこの2年が矢野を大きく変えた。精神的にも肉体的にも鍛え上げられたのである。
教育期間を含め、小野駐屯地と善通寺駐屯地で自衛官として過ごしたが、辛かったのは重装備での行軍訓練。休まず3日も歩き続け、催涙ガス訓練では痛いほど涙が出てきた。楽しかったこともある。マラソンをやっていたので基礎体力があったのだろう。銃剣道競技ではメキメキと腕を上げ、陸自の西日本大会で優勝したこともあった。「矢野は小柄だが、元気がある」と上官の評価も高かった。
自衛隊の任期が明けたのは矢野が22歳の時だった。さて、どこに就職したらいいものか、と考えていた矢先、友人が勤めていた今治の造船会社から「自衛隊出身者なら大歓迎」と誘いがあった。そこでは鉄板を曲げる特殊技術のぎょう鉄を業務としていた。あれだけ嫌だった造船業界。精神的にも耐える強さを身につけただけに、「やってみるか」と決意したのである。
■ぎょう鉄技術で旅順に新会社
この時期も良かった。大阪万博に向けて、瀬戸内海の海砂をセメントに使うため、運搬船の受注が相次ぎ、“曲げ”の仕事もどんどん来た。独立から2年後の昭和47年に再び転機が訪れた。取引先の造船会社が今治市から香川県丸亀市へ移転し、矢野の会社もこれに併せて丸亀市へと移った。従来の島を巡る内航船から大きな外航船へと造る船もスケールが大きくなった。従業員は6人から一気に60人に増やし、最も多い時には300人を抱えていた。
やがてニクソンショックから二度にわたるオイルショック。受注から2年後に建造する造船業界は、その影響が遅れてやって来る。景気のボディーブローがききはじめ、大手造船会社は人員削減で凌いだ。だが、矢野は社員を守り続けた。できることは何でもやった。客船やフェリーのひずみの直しなど、特殊技術を生かして全国へ仕事を取りに行った。その後も幾多の景気の試練があったが、乗り越えてきたのは付加価値の高い技術力だった。
そして突然、中国への道が開けてきたのである。大手の親会社が大連の旅順に進出するという。「工場の従業員にぎょう鉄の技術を指導して欲しい」。二つ返事で快諾した矢野。還暦を迎えた60歳の2005年4月だった。丸亀の会社は長男を社長、二男を専務にして会社を譲り、完全にフリーの立場で大連にやって来た。
「普通ならば定年の年齢。しかし、まだまだ技術的に自信はある。中国の若者に教えるという新しい世界も魅力的だった」
教え始めて矢野は驚いた。真剣さがまるで違う。メモを取りながら矢野の教えを熱心に聴き入る。この技術を何としてでも覚えてやるぞ、という迫力が伝わって来る。勤め人根性の日本の青年とは姿勢が明らかに違っていた。日本ではぎょう鉄の技術は5年から10年で一人前になると言われているが、中国の青年たちは3年で覚えることができそうだ、と矢野は手応えを感じ取っていた。
「どうですか、旅順に会社をつくって本腰を入れたらどうですか」。親会社の勧めもあって、大連矢野船舶工程有限公司を立ち上げたのは、大連に来てわずか4か月後のことだった。あれから早くも5年が過ぎた。大勢の中国人従業員に難易度の高い鉄板の三次元曲げを指導しながら、親会社へ納品を続ける。造船技術は日本が世界で最高水準を誇るが、やがて中国がトップになる日がやって来るに違いない、と矢野は確信する。
■励まし、支え合う幼なじみの夫婦
大連で一人暮らしの矢野だが、1年に6回ほど丸亀市の自宅に帰り、時には妻の美加子が大連にやって来る。その上、美加子からは絵手紙が頻繁に送られて来る。その数は5年間で500通以上に達した。季節の農作物や花などの絵に、矢野を元気づけるひと言が添えられている。「近道には危険がいっぱい」「一流のリーダーは人の知恵を使う」「うれしい時も悲しい時もあなたがいて私がいる」。絵手紙を手にするたび、矢野の顔が思わずほころぶ。
40年間連れ添った幼なじみの夫婦だが、美加子がまだ小学6年生の時の“謎のドラマ”が、結婚30年後に氷解したことがあった。
当時、美加子は「後半年の命」と言われたほどの重病に冒され、入院生活を送っていた。矢野は花束と花瓶を持って病院へ行き、看護婦に「名前を言わないように」と伝えて面会もせずに立ち去った。結婚30年ほど経ってから、美加子が「誰かがきれいな花を持ってきてくれてね」と懐かしそうに話した。「それはおれだったんだよ」。夫婦の愛情を改めて確認し合った瞬間だった。
その美加子は大連に来る度、会社の女性スタッフに料理を教えるなどして中国生活に溶け込んでいる。そんな姿を目にするにつれ、矢野は中国への道を選択して良かったと思う。そして不思議な縁も感じる。20年ほど前に購入し、いまも丸亀のマリーナに置いてあるクルージングボートの船名が「華連」。中国とはまったく関係のなかった時に命名したものだった。
「中国へ来て仕事をすることになるとは、夢にも思っていなかった。この国のスケールの大きさと延々と続く経済成長には驚かされるばかり。還暦を過ぎて私の世界も広がった」
中国の若者に伝えるぎょう鉄の技術。矢野は大連で送る第二の人生を意気に感じている。
写真は、ぎょう鉄技術を伝える矢野定典さん