Whenever DALIAN 連載企画
ヒューマンストーリー
「大連までの道、そして…」
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第10話 金子 静雄物語
大連会理事として日中の架け橋役に 2010年09月>
日本から離れた大連には数多くの日本人が暮らしている。辞令一枚で見知らぬこの地へ赴任してきた人もいれば、新たな未来を切り拓くため、自ら進んで飛び込んできた人もいる。そこにはそれぞれのストーリーがある。なぜ大連へと人生航路の舵を切ったのか……そんな「大連までの道」の軌跡をたどってみよう。(文中、敬称略)
激動期を生きた団塊の世代
敗戦の絶望感から国民が立ち上がり始めた昭和23年(1948)10月、金子静雄は東京都北区中十条で3人兄弟の末っ子として生まれた。戦後の第一次ベビーブーム。いわゆる団塊の世代の真っただ中だった。昭和22年からわずか3年間で約800万人もの子どもが誕生し、後の昭和、平成の激動期をそれぞれが懸命に生き抜いてきた。高度成長期からバブル崩壊、安定経済成長期、そして不透明時代……金子もまた、たくましく時代とともに歩んできた。
■両親の愛情を受けて育った幼少期
金子には出生にまつわる二つの秘話がある。ひとつは金子がこの世に生を受けていなかったかもしれない、という仮説である。兄2人の後に待望の女の子が生まれたものの、生後間もなく病死。その1年後に金子が三男として生まれた。「姉が育っていたら、オレは生まれてなかったかも知れないね」。金子はそんな因縁を面白がる。
もう一つは未熟児で出生したことだ。メタボリック症候群が気になるいまの体形からは想像がつかない。「この子の命は諦めてください」と近所の医者に宣告された両親は、近くに住んでいた厚生省の医務官に相談し、特効薬を入手することができた。しかし、面倒なことがもうひとつあった。母乳を拒絶して、当時は高価だった粉ミルクで育てなければならなかった。両親は金子に愛情を注いで育てたのである。
その父喜太郎は東京電力の土木技術者で、奥只見や梓川、高瀬川などのダム建設、柏崎の原子力発電の建設現場で仕事をし、家族と暮らした期間はごくわずかだった。休みになると時々、帰ってくるだけで、「今度はいつ来るの?そう言っていたような気がします。でも夏休みは、必ず父の現場でした。楽しかったですね」と自然の中で過ごした夏をいまでも懐かしく思い出す。
幼稚園は池袋の私立に通った金子。特技は京浜東北線の駅名を暗記していたことだった。そのうち、どうしても大宮に行ってみたい、そんな欲望にかられたのである。ある日、幼稚園を早引けして一人で京浜東北線に乗り、往復2時間の冒険をして、何食わぬ顔で帰宅した。だが、悪いことはできないもので、大宮の駅にいたことを近所の人に見られていた。「大宮駅で静雄君を見たよ」。母に告げられ、バレてしまった。“お灸”をすえられ、幼いながらもウソをつくことの罪深さを思い知らされた。
小学校は池袋の立教小学校に入学。ここから大学まで純粋な〈立教ボーイ〉としての歩みが始まった。なぜ付属だったのかはわからないが、「おふくろが決めたことでしょう」。大学進路の時にこんなこともあった。土木系に進みたかった金子。だが、立教大学には土木系がない。千葉工業大学の土木には推薦で入ることができるので、金子は傾きかけていた。父に相談したところ「良いだろう」。だが、母が猛反対した。「そんなに言うなら、あなたが静雄の勉強見てやりなさい」。これで父も敢えなく引き下がった。父は婿養子だった。父は6年前に88歳で他界し、母も今年で88歳となり、特別養護老人ホームで療養している。
■会社の特命を受けて特殊株主担当
立教と言えばクリスチャン。当然、金子もそんな校風に育まれて思春期を送った。運動が苦手だった金子は、中学生の時にキャンパス内にある立教学院諸聖徒礼拝堂で牧師の手伝いをする祭壇奉仕者会の一員となった。メンバーは立教の中学、高校、大学生までの約50人。礼拝や結婚式で牧師の傍らに立ち、円滑な進行を補助するのである。金子家は仏教徒だったが、金子は当然のこととして中学2年の時に洗礼を受けた。敬けんな信徒ではあったが、酒飲みの“才能”も磨きをかけた。礼拝にはウエハースと赤ワインが欠かせない。その赤ワインをしこたま飲んだ。
大学は立教の経済学部に進み、ゼミは会計学を選んだ。卒業後は大学院への進学も考えたが、結局は父の同級生が経営していた道路建設の世紀工業に入社。ドルショックで東京証券市場が史上最大の暴落となった昭和46年(1971)のことだった。東京支店の経理担当を経て、希望していた現場に出た。東北自動車道の白河舗装、成田空港の拡張工事、沖縄出張所などで、父の影響を強く受けていたのである。
同49年に東京支店に戻り、同51年に東京本社の総務部に配属された。この時は会社の機密事項に属す業務を担当した。それは特殊株主対策だった。総会を問題なくシャンシャンで終わらせる役目だ。当時は特殊株主に対する取り締まりもなく、企業は悪習とわかっていながらも対策をとらなければならなかった。
特殊株主と言われる人たちとの日ごろの付き合いは欠かせず、毎晩のように飲み続けた。「その道の人はやはりすごい。決算報告書に目を通しただけで、会社にとって隠したい部分、弱い部分をズバッと指摘するんです。数字にも強くてごまかしが利かない。そこで『先生、一杯やりながらお話ししましょう』と言うことになってしまう。いまでは許されないことですが、当時は総会で紛糾でもしたら大変なことですから、私たちも必死でした」。
そんなころ、金子に意中の人が現れた。時々訪れていた母校の教会で一人の後輩を見初めた。当時、立教大学2年生だった妻圭子だった。劇団四季の研究生だった圭子は、あか抜けた雰囲気で周囲から浮かび上がって見えた。「何よりも良かったのが、実家が上諏訪の造り酒屋だったこと。おかげで美味しいお酒が飲めた」。口説き落として昭和51年(1976)に結婚、二人の男児にも恵まれた。
■甘くなかった中国ビジネス
昭和57年(1982)5月に業界8位の世紀と12位の東急道路が合併して業界5、6位の東急グループ「世紀東急工業」が誕生した。この辺りから金子の人生は中国大陸へと人生の舵を切り始めている。もっともこの時点で金子自身にも運命の向かう先を知る由もない。
合併前の両社とも、終戦前は中国東北地方で道路建設に携わった幹部が多くいた。そこへ以前の中国人部下から、「瀋大公路の建設と運輸管理したいので協力して欲しい」との依頼が飛び込んできた。こうして東急グループの遼寧省視察団が派遣されたのが昭和58年(1983)秋。運輸関係の会社幹部とともに金子も事務局として加わり、初めての大連を訪れた。
さらに遼寧省の勧めもあり、昭和60年(1985)夏に世紀東急工業の代表所を大連に開設。しかし、外貨統制、二重価格などもあり、ビジネスにならず初代所長は引き上げ、後任に白羽の矢が立ったのが、「中国にも行った経験があり、中国人ともうまくやれそうだ」と評価された金子だった。「1年で本社に帰す」と約束した社長は半年後に亡くなってしまった。その後はズルズルと任期が伸び、3年が過ぎていた。
昭和63年(1988)に世紀東急工業大連代表所の主催で華々しいパーティーが開かれた。それば代表所閉所記念式典だった。当時の日本人は家族を含めてもせいぜい100人ほど。そのうちの80人を招いて盛大に祝い、万歳三唱で撤退した。3年間の売り上げはわずか40万円。中国ビジネスは甘くはなかった。
帰国した金子は三菱商事に出向して不動産開発を担当。平成5年ごろ、同じ世紀東急工業の出向者5人が退社して三菱商事の下請け会社を設立した。当時はバブル経済がはじける直前で、莫大な金を生み出す地上げをもくろんだ。だが、あっという間に経済崩壊し、会社も泡と消えた。
金子は日中貿易の会社を1人で立ち上げ、中国で洋服を作って日本の会社に納入した。ひょんなことから新橋でサラリーマン相手の立ち飲み屋も経営。朝5時に築地で仕入れをした後、店で前夜の片付け、午前9時から午後4時まで貿易の仕事をして、夕方5時から夜9時まで一杯飲み屋のオヤジとなった。そんな生活を7年間続けたが、次第に赤字が累積して撤収せざるを得ない状況に追い込まれた。
■大連会理事として日中の架け橋
そんな時、ある音声認識システム会社から、「大連の子会社に総経理で行ってくれないか」との話が舞い込み、2度目の大連赴任となった。平成18年(2006)6月のことだった。が、半年後には親会社が倒産、またもや進路を塞がれてしまった。ここで悲観的にならないのが金子の真骨頂。「ならばこの大連で新たなビジネスを」と、平成19年(2007)6月にコンサルタント会社「大連金泰蘭貿易有限公司」を立ち上げた。日本と大連に半分ずつ滞在し、日本企業の中国進出をサポートしているが、中国ビジネスに携わって30年近くの経験が大きな財産となっている。
金子にはもう一つの顔がある。終戦と同時に中国から引き揚げてきた日本人で組織する大連会理事だ。昭和63年(1988)に大連から日本へ帰国した後、金子は大連駐在経験者らに呼びかけて大連OB会を結成、幹事を務めた。そんな金子たちに組織の若返りを目指す大連会から入会要請があり、平成2年(1990)年に入会、同6年(1994)年には大連会で最も若い理事に就任した。
日本と大連に拠点を置く金子は、事実上の現地代表であり、中国側の政府や各種団体、大学との窓口役を務め、会員が大連にやって来る際のアテンドもする。また、大連会主催のイベントとして写真展や書道展を開くなど民間交流も手がけている。
「80年代に視察でやって来て以来、大連とは長い付き合い。大連会を通して日本と大連、中国との良い関係を築くためのお手伝いをさせていただきたい。この年になったら社会貢献で恩返しをすることも考えなければ」
金子はこう新たな意欲を燃やす。
写真は、「日中のために社会貢献を」と語る金子静雄さん