Whenever DALIAN 連載企画




ヒューマンストーリー
「大連までの道、そして…」



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第1話 棚橋民子物語 
主人への想い胸に充実の大連暮らし 2009年12月



 日本から離れた大連には数多くの日本人が暮らしている。辞令一枚で見知らぬこの地へ赴任してきた人もいれば、新たな未来を切り拓くため、自ら進んで飛び込んできた人もいる。そこにはそれぞれのストーリーがある。なぜ大連へと人生航路の舵を切ったのか……そんな「大連までの道」の軌跡をたどってみよう。(この企画は、ウェネバー大連が2009年12月号で4周年を迎えたのを記念してスタートしました。毎月1人の方に登場していただきます。=文中、敬称略)

語学勉強と友人とのふれ合い楽しむ


 自分の人生を振り返ると、幾多の困難に遭遇し、言葉にできぬほどの地獄絵図も見てきた。だが、いまは「主人にも恵まれた幸せな人生」と素直に言い切ることができる。棚橋民子は笑みを浮かべながら79年の軌跡を語り始めた。
 民子が生まれたのは、世界恐慌が日本を直撃し、軍縮に反発する右翼に浜口首相が殺害された1930年(昭和5)の7月のことだった。そんな暗雲が立ち込め始めていた日本から遠く離れた関東州旅順市吾妻町、今の大連市旅順区が民子の生まれ故郷。だが、民子には旅順の記憶がない。満州国の税務官吏だった父の転勤で2歳のころに旅順から新京特別市(現在の長春市)へ移り住んだのである。
 きょうだいは女5人、男4人の9人で民子は真ん中の5番目。長春の白菊尋常高等小学校に入学し、2年生の時、一家そろって父の故郷の大分県杵築市へ一時帰国、8か月後に再び長春へ戻ってきた。別の地区へ住んだため、学校は順天在満国民学校に転校した。
「両親の愛情は病弱だった姉と妹に注がれ、特に父は厳格な人で、よくビンタされた。母はその正反対で甘い人だった。きょうだい仲は良くて、けんかした記憶がない。子だくさんで貧しかったけど懐かしい思い出もたくさんあった」
 活発な民子は家の近くにあった南湖で魚のハヤを獲ったりして食材の足しにした。父が飼っていた小鳥の餌となるコオロギを捕るのも民子の役目だった。裁判所の高等法院にもぐり込んで、死刑言い渡しの場面に出くわし、目を丸くしてその瞬間を見守ったこともあった。

■瓦房店で“たばこ売りの少女”
 厳しい父、楽ではない暮らし向きだったが、決して不幸ではなかった。しかし、中国東北地方を占領していた日本軍は終焉を迎えつつあり、民子一家も混乱の渦へと巻き込まれて行った。
 父の転勤で一家は長春から営口市に転居し、民子は営口高等女学校に入学。戦火が激しさを増してきた1943年4月のことである。そして敗戦1か月前の1945年7月、学校は廃校となった。終戦から2週間後の8月29日、「日本人は5時間以内に立ち退け。さもなければ銃殺する」との情報が流れ、一家は瓦房店にあった父の友人宅に身を寄せることになった。長兄は出征、次兄は瀋陽の軍医学校に在学、長姉は結婚、次姉は挺身隊としてかり出されて不在。きょうだい5人と両親の7人での逃避行だった。
 だが、2年前から病を患っていた父は動けない。馬車を雇ってやっとの思いで翌日、友人宅へたどり着いた。すでにロシア軍が各地に入り込んで日本人に対する悪事の数々を尽くしていた。隣の普蘭店にいた日本人たちも被害に遭っていた。だが瓦房店にその魔手が伸びて来ることはなかった。「八路軍の管轄下にあったからなのか」。民子はこう思う。
 妹とともに紡織工場で働き、その後は街でたばこ売りもやった。ここでも暮らしは楽ではなかったが、日本人に対する迫害もなく、中国人の優しさにもふれた。
 雪が舞う寒い日にたばこ売りに出た。母は「行っても売れないから今日はやめなさい」と止めたが、民子はいつも通りに中央広場へと向かった。案の定、たばこは売れなかった。しばらくすると、大きな傘をさした男性が近寄って「あんた、ここで何をしている」。中国人だったが流暢な日本語を話した。
 「こんなところでたばこを売っているより、私の工場で働らかないか」。民子は翌日、姉や弟たちとこの男性が経営するリンゴの選果場へ行き、しばらくの間ここで働き、一家の家計を支えることができた。

■地獄絵図の引き揚げ行
 その後、民子は瓦房店日僑国民学校の教諭も務めたが、1947年7月に引き揚げ命令が出され、一家は葫廬島へと向かった。途中の瀋陽で引揚者収容所に収監されたが、思いがけない出会いがあった。大勢の引揚者でごった返す中に、音信が途絶えていた次兄の姿があった。軍医学校生だった次兄は医療スタッフとして病人の世話をしていたのだ。
 「どさくさの混乱の中で偶然の再会だった。特に母の喜びようは大変で、涙を浮かべて抱き合っていた」
 民子はいまもそのシーンを思い浮かべると胸が熱くなる。
 しかし、民子がそれから後に見た光景はまさに地獄絵図だった。瀋陽から汽車で葫廬島へと向かったが、病死者が相次ぎ、その度に汽車は停まり、線路脇に葬った。その矢先、どこからともなく人が群がり、土を掘り起こされて死者は瞬く間に身ぐるみはがされてしまう。極限に追い込まれた人間の性を見た思いがした。
 汽車は葫廬島までたどり着いたが、随分と長い時間かかったような気がする。そこには数千人、いや数万人の日本人が集まり、望郷の思いを募らせていた。引き揚げ船に乗り込んだものの、「そこで見たものは地獄の餓鬼図だった」。
 両親ときょうだい7人の民子一家は、父が病気だったため比較的恵まれた病人収容室に入ったが、船底の一般船室には2、3000人はいただろうか。身動きできないほどのすし詰め状態で、蒸し暑さと臭気が船室に蔓延する。劣悪な環境の中で息絶える人が相次いだ。水葬は毎日のように繰り返され、送別の汽笛が物悲しさをかき立てた。
 佐世保港に上陸し、一家は杵築市の実家にたどり着いたが、病床の父は1947年9月13日に帰らぬ人となった。民子が死に水を与えようとすると、「まだ早い!」と睨みつけた父。が、その直後、喉元からゴロゴロッと音がして、息を引き取った。外はキャサリン台風で大荒れの天気。その音が風雨で揺れる外の音と重なって聞こえた。

■夫の死で半年の無遊生活
 それから2年後の1949年末、民子は雑貨店の住み込みから長兄の住んでいた炭鉱の街の田川に移り住み、「教師になりたい」と福岡県立西田川高等学校の定時制に入学。卒業した1953年に上京し、ここでは英文タイプを習い、渋谷の駐留軍住宅地にあった将校クラブの会計タイピストとして採用された。
 やがて運命の出会いが訪れた。棚橋昭二さんと出会い、互いに気に入ってすぐに結婚、民子は24歳だった。「とにかくいい男でひと目惚れ」と民子は表情を崩す。長男、次男に恵まれ、幸せな家庭を築いた。子育てが終わった後はミニコミ誌「浦和」の編集長、さらには雑誌「サンケイリビング」のライターもやるなど、充実した日々を送っていた。
 昭二はそんな民子に「勉強しろ」と励まし続けた。民子は一念発起して慶応大学の通信教育を受け、1984年には文学部、1998年には法学部を卒業。法学部の卒論は 「死刑廃止論」だった。担当教授からはAの評価を受け、「卒論を学校に残して欲しい」と言われた。民子の卒論はいまも研究室に保管されている。
 慶応大学法学部を卒業したこの年、「人生でも最も悲しい出来事」が起きた。最愛の夫を前立腺がんで失ったのだ。68歳の民子は何もできずに半年間、半病人のように夢遊の中で過ごした。そんな民子を励まそうと、弟妹が大連からハルビンの旅を計画してくれた。
 52年ぶりの大陸は戦時中、戦後の混乱期から大きく変貌して平和な雰囲気に満ちあふれていた。「そうだ! 中国で生まれたのだから中国語を勉強しよう」。灰色の人生に鮮やかな光が差し込んだようだった。
 埼玉県日中友好協会の学生派遣に応募して合格。2000年3月に大連外国語学院漢学院に入学して6年間学んだ後、遼寧師範大学を経て昨年9月からは大連交通大学の高級班で勉強を続けている。

■仲間惹き付ける前向き姿勢
 「勉強は私の趣味であり、中国語を学ぶのは日中友好に役立ちたい、と言う気持ちもある。とにかく授業が楽しい。女学校は途中まで、高校は定時制、大学は通信制だったので、ちゃんとした授業を受けたことはなかった。それに同級生に“負けるもんか”という気持ちがわき上がって来る 」
 勉強好きで負けん気の強い民子の面目躍如である。「だけど中国語には手こずっている。听力がダメ。HSKは6級止まり」と笑い飛ばす。
 長男は裁判官、次男は埼玉県庁に勤め、家族のことで心配することは何もない。民子は1年の大半を大連で暮らし、中国語の勉強とともに旅行も楽しむ。これまで新疆や内モンゴル、海南、敦煌など中国国内30都市以上を回り、今年の夏にはシベリア鉄道に乗ってモスクワ、サンクトペテルブルグを旅してきた。
 来年は80歳を迎える民子だが、ポジティブな性格は年齢を感じさせることはない。そんな民子を慕う仲間は多く、一緒に酒を飲み、大いに語り合う。中国語を学び、友人たちと楽しむ民子は、生まれ故郷の居心地の良さに身を置く。「すべてを経験してきた。あとは死ぬだけ」。竹を割ったような性格が人生を切り拓き、人を惹き付ける。

写真は、79年の人生を語る棚橋民子さん