32.<続編>2008年・春


■□■やっと会えたね!■□■
2007年の夏の滞在では、、1994年から訪問している女性に会いに行ったのにも関わらず、会うことができなかった。今度こそ彼女にインタビューができますようにと祈りながら、私は同じ地域に向かった。前回会えなかったのは、女性の息子が結婚し、奥さんが出産したため、家事手伝いのために息子の家に長期滞在していたためだった。「それなら私が息子の家に向かうから」と言ったものの、とても遠い場所だから行かないほうが良いとのことで、会えずに帰国したのが2007年の夏だった。

インドでも携帯電話が普及し、誰もが携帯電話を持っていて連絡を取ることが容易になったと感じてしまうが、実はそうではない。前回も、今回も、彼女に連絡を取ることが難しかった。結論から言うと、今回も、事前に電話で会う約束をすることはできなかった。何故なら、彼女の家には携帯電話を持っている長男がいるが、彼は都市に働きに出ており、村の自宅に帰るのは週末のみ。しかも彼の携帯電話は、長距離電話ができない設定になっている。つまり、長男の携帯電話から、遠く離れた場所に住む弟に電話ができない。また、私がインタビューしたい女性が滞在している息子の家には電話がなく、息子は早朝から深夜まで働いているために、携帯電話に出られる時間が非常に少ない。深夜に電話をすれば、彼女は寝ているし、彼女が起きる時間には息子は仕事に出ているために、直接彼女と話をすることができないのだった。

私が日本からできたことは、都市に働きに出ている息子に電話をすること、村のNGOで働くスタッフに連絡をして日程調整をお願いすること、くらいだった。しかし先ほどの理由で、現地NGOでも「彼女が一時帰宅する」、「しない」、「こちらから訪問することになった」など様々な情報が飛び交っていた。結局、彼女と直接話をしなければ何もわからないという状況だった。

久しぶりに会った彼女は、少し小さくなったように見えた。60歳を超えて、白髪も増えた。私は彼女に、これまでの農村での活動についてインタビューをさせてもらうのだ。すでに仕事は退職しているものの、今もなお豊富な知識を持つ彼女は、村の人たちに頼りにされている。

それから、もう一人、10年以上ぶりに会う人がいた。それは、現在看護師として働く、彼女の長女だった。当時、夕方になると私たちはピーナッツ畑に行き、涼しい風を感じながら話をした。彼女はいつも、今後の進路として親に勧められた看護学校に行きたくないと、泣きそうな顔をして私に話していた。厳しい労働環境と、仕事内容が向かないからと言って、今にも泣き出しそうな顔をしていた。彼女とはそれが最後の会話となり、その後私が農村に滞在しても、全寮制の学校で学んでいる彼女には会えずにいたのだ。年齢も近く、妹のように思っていた彼女を時
々思い出しては、元気でいるかと気がかりだった。
そんな彼女が、週末を利用して村に帰ってきていた。思いがけない再会はとても嬉しく、また、ベテラン看護師として働いていることを知り、長年の心配が一気に吹き飛んだ。そして何よりも、安定した収入を得ることができてとても幸せだと言う彼女のいきいきとした姿に、本当に良かったと心から思った。

■□■人生の変化、家族の変化■□■
今回、改めて、ヘルスワーカーをしていた彼女にインタビューをすると、今まで知らなかったことが次々と明らかになっていった。60歳を超えた彼女が生まれ育ったのは都市であり、そこでは「地主からの抑圧」などなかったのだと言うのだ。何故なら、都市では多くの人が生活しているため、誰
がどのカーストなのかわからないから、とのこと。カーストを理由とする抑圧を経験したことなどなく、幸せな生活を送っていたそうだ。
しかし夫の都合で現在生活をしている村に住まいを構え、生活を始めた途端に、「ハイカーストの前ではサンダルを履いてはいけない」、「グラスで水を飲んではいけない」など、同じ村に住むハイカーストから抑圧され、殴られるという毎日が始まったそうだ。知人もおらず、抑圧された環境で生活をすることになった彼女は、この村での生活に慣れるまで時間がかかったという。

彼女はその後、村のヘルスワーカーとなり、薬草の使い方や健康に関する知識のトレーニングを受け、村の女性にその知識を伝えるようになる。そして健康、保健に関する問題から、やがて教育、雇用、経済問題まで村で話し合い、時にはハイカーストや行政に交渉することができるようにまでなるのだ。(参照→滞在記7:村で活躍する女性)
現在は村での抑圧がなくなったものの、最初にハイカーストにアプローチしたのは彼女だったという。生まれ育った場所ではない、外から引っ越しをしてきた彼女が、その地域のハイカーストに「人間はみな同じ」だということを訴えるには、さぞかし勇気が必要だったことだろう。何度も追い返されたそうだ。

そんな時、ハイカーストの子どもが夜中に腹痛を起こし、彼女に助けを求めてきたという。「触ると汚れる」と言われるカーストに属し、これまでまともに相手にされたことがなかった彼女が、「初めてハイカーストの家に入り」、「ハイカーストの子どもの腹部に触れ」、「『アウトカーストの私』が薬草を使って処方した薬をハイカーストの子どもが飲んだ」のだった。それは「今まででは考えられない大きな出来事」だったそうである。
ハイカーストの子どもは翌日元気になり、ハイカーストからお礼の言葉をかけられた。そしてこの話がハイカーストの間に広がり、彼女は次第にハイカーストから頼られるようになった。遠方で、医療費が高い病院に行かなくても、彼女がいれば大丈夫だと信頼されるようになったのだ。

彼女は薬草などの知識を身に付けた後、近隣の村をまとめる「スーパーバイザー」になり、時には泊りがけで農村に出かけ、女性たちと村の問題を話し合うこともあった。そうした時には長男が兄弟の面倒を見ていたようだ。まだ小学生であった彼は食事を作り、弟や妹に食事を食べさせ、着替えをさせて登校していたのだという。特に妹の面倒はよく見て、今でも妹はお兄さんのことを頼りにしているのだそうだ。私は1994年から彼女の家に滞在をしていたが、長男が家事をする姿を見たことがなかった私は、そんなエピソードも初めて知ることになった。

さらに、彼女が退職したのは「定年」ではないこともわかった。彼女が所属していたNGOでは、ある日、「地域で活動するワーカーは若いほうが良い」という理由で、「とても安い退職金」が支払われたのだという。トレーニングセンターの研修に呼ばれ、現場のワーカーとして話をするなどNGOの事業に協力していたのに、昼夜問わず働いたのに、そして仕事が好きだったのに、あまりにも納得ができない対応にがっかりし、退職後は何があっても、誰が彼女の助けを必要としていようとも、そのセンターには訪れていないのだと言った。

しかし、彼女は現在幸せだと言う。夫を病気で亡くしたものの、子どもたちが成人し給料を得ることができて、家族皆が幸せに暮らしている。孫も生まれた。彼女は泊りがけで農村に出かけることもなくなった。子どもたちは、今まで一生懸命働いたのだから家でゆっくりしていれば良いと言ってくれているそうだ。「今は穏やかに生活できている。とても幸せ」と彼女は言った。

■□■住まい■□■
人間の基本的ニーズともいわれる衣食住。
写真の家は、「ガバメントハウス」、つまり行政が村の人たちのために建てた家である。ご覧のとおり、屋根や壁が崩れ、とても人が住める場所ではない。このように廃墟と化した家が増えており、私が知っていた村とは少し様子が異なった。1軒、2軒ではないのだ。村を歩くと、こうした家が点在している。もちろん、この家に住み続けることは困難であり、こうした家に住んでいた住民は行政に交渉し、歩いて5分ほどに新しい村を作ったそうだ。「ニュービレッジ(新しい村)」は50世帯ほど。これまでのご近所さんたちが新しい村に移り住んだことで、近隣関係にも変化が起きているようだった。

収入がすべてとは言わないが、収入が増えると生活も変わるのだということを実感したのが今回の滞在だった。例えば、1994年当時の、ヘルスワーカーだった彼女の家。上の写真にあるように、2部屋のうち1部屋はキッチンで、土でできた壁にはススがついて黒くなっていた。夜はこのキッチンにゴザを敷いて眠っていた。やがて、この家の壁に大きなヒビ割れが発生し、ここで暮らすことが困難となった。彼女たちは親戚の家で生活をした後、同じ村に新しい家を購入した。今度は土の家ではなく、コンクリートでできた大きな家だ。成人した子供たちは学校の先生や看護師、あるいは企業に就職し働いている。この村で教師をしていた子どもたちは、結婚や転職で街で働くようになり、村で得ていた給料よりもはるかに高い収入を得ることができているのだと話してくれた。

土でできた小さな家の頃、全員が一斉に食事をすることはなかった。家族全員が集まって話をすることもなかった。家が小さいため全員が家の中で眠ることもなく、男性は外にゴザを敷いてで眠っていた。夜、ドアを閉めた室内は、昼間の熱気で蒸し暑く、窓がないため寒気もできず、まるでサウナのようだった。じっとりと汗をかいて眠ったことを思い出す。しかし今、家族全員が室内で食事をとることができ、全員が室内で眠ることが可能になった。家族が「家」に集まるようになったのだ。あの頃よりも、笑顔が多く見られるようになったように思う。収入が増え、生活が安定すると、毎日の生活が少しずつ変わっていくのかもしれない。


■ 次は・・・保健から経済的自立へ