15.最悪な村


■□■夢かもしれない■□■

たったの一泊だった。
「最悪な村がある」 というので行くことになった。 ポールー事務所からその村に行くには五時半起床、七時にはバス停にたどり着いていなければならなかった。バスに揺られ、次のバスを待ち、また乗り継ぎ、ようやくこれで最後だというバスに乗ると、そのバスは小さな川の手前で止まった。運転手はバスを止め、上半身裸になり、ヒンズーの神に祈り始めた。

川で洗濯をしていた女性が、汲んできた水を窓から差し出した。祈りに使うようである。バスを止めて祈るなんて、この地域は信仰心が強いのか、それともこれが本来の姿でありチェンナイでは祈祷する時間がないのか、そのどちらかだろうと考えた。

やっとその意味がわかったのは、バスが出発した直後だった。

小川を横断するのはまだまだ序の口で、このバスは岩がごろごろしている山道を登って走るのだ。あまりにも急な坂道で、道が狭いため車のすれ違いなどとてもできない。しかも片側が崖になっている場所もある。少し間違えば、このバスは転落してしまうだろう。私は生きた心地がしなかった。バスはどんどん急な斜面を登る。ドアの近くには病気の子供を抱いた母親がいた。その子供は下痢をしているようだった。下着を着けていないため、下痢が始まるとバスのドアから(ドアは付いていないが)子供を外に差し出すのだ。乗客が着ているサリーも着古した感じで、私たちは今「最悪な村」に向かっていることに対して妙に納得してしまうような雰囲気が漂っていた。

バスを降りると、そこから登山が始まった。登山といってもここは丘であり山ではないのだが、岩が転がりそうな道を時には手を使いながら登ることは、慣れていない私たちには大変なことだった。小さな石がころころと崩れ落ちてくる道を歩く姿は、すたすたと歩く村の人たちから見ると滑稽だろう。穀物が入った大きな麻袋を頭に載せた人が、すいすいと丘を登る。集めた小枝を背中に背負った女性が、黙々と歩いて私たちを追い越す。

やっとのことでたどり着いたその村は空気が澄んでいて、まるで高原に来たようだった。すっきりとした空が広がっている。家はどれも、木で建てられていた。コンクリートでも土でもない。「日本むかし話」に出てくるような、ひょっとしたら日本の農家と間違えてしまいそうな家だったことが不思議だった。

この村の問題は、学校がないことと医療機関がないことだった。バス通りから一時間近くもかけて「丘」を登らなくてはならないため、医者が来ない。病気になった子どもを町の医者に連れて行くには、険しい山道を歩き、なかなか来ないバスを待ち、がたがたの道を走らなければならなかった。バスは一日に二本しか来ないというのだから、これは深刻な問題だった。途中で電柱を見かけたが、この村に電気は通っていない。全部で二五世帯、人口は約一五〇人ほどの小さな村であった。

私たちが村を歩いていると、赤ん坊を抱いた母親が来た。たいていの母親は抱いてごらんと言って私に赤ん坊を差し出すのだが、彼女は違った。何となく違うなと感じたその瞬間、抱いている赤ん坊の姿が目に飛び込んできた。びっくりした、と言う言葉以上に何が当てはまるだろうか。ギョッとした、だろうか。思わす息を呑んだ、だろうか。 私は同行者と共に「うわっ!」と叫んでしまった。

骨と皮。

その赤ん坊は今にも死にそうな姿をしていた。もう死んでしまっている、と言ってもおかしくない。テレビや写真で見たことがある、あの姿だった。私はこんな姿を目の当たりにしたのは初めてだった。話を聞くと、生まれた時から弱々しくてあまり泣くことがなかったという。母乳を飲む力もなく、お金がないために町の診療所に行くこともできない。もうすぐ死んでしまうだろうと言う母親は、それでもしっかりと赤ん坊を抱いていた。

やるせない気分だった。

私とマリアが所属していたのは、村の人たちと共に活動を展開し、保健婦養成や夜間教育の実施に対するプロジェクトを推進してきたNGOだ。私もその活動に加わりながら村に滞在し、保健婦やワーカーにくっついて周っていた。薬草の使い方や旱ばつに対するプロジェクトもあった。しかしそんなことよりも、命に直接関わる活動のほうが優先ではなだろうかと思えてきた。もう、何から手をつけたら良いのかわからなくなってきた。そういったことを考えていると、一緒に訪問していたマリアが泣き出した。
「私はここに住んで、医者を呼んで、医者と共に医療活動を始めるわ。村の人と共に生活をして、その仕事に一生を捧げるわ。もうチェンナイには戻らない。」
興奮気味の彼女は、私と同じように、もしかしたら私以上に、その光景が衝撃的だったに違いなかった。しかし私は、泣けなかった。泣くどころではなかったのだ。一体私たちは何をするべきなのか、どんな活動から始めたら良いのか、途方に暮れるばかりだった。

■□■ここは何所?■□■

そうしているうちに急に空が暗くなり、雨が降ってきた。気温が急激に下がり、半袖の服を着ている私たちには絶えられないほどの寒さになった。信じられないが、こんなに寒いなんてインドに来て初めてのことだった。本当にここは南インドなのかと疑うほど寒く、ここは夢の世界なのかと疑わずにはいられなかった。私たちはバスに揺られて来ただけなのに、気温がこんなにも違うとは予期していなかったため、長袖など一枚も持参していない。 

ガタガタと震え出した私たちのために、子どもたちに字を教えていた先生は六畳ほどの土間の中で火を焚き始めた。まだ夕方四時前である。

約一時間後、昼食と夕食を兼ねた食事をした。私たちは食事が無い時のためと非常食用にパンを持ち歩いていたが、せっかく用意してくれたのだからといただくことにした。ごはんと、ラッサムだ。ラッサムとは英語でペッパーウオーターと言うように、こしょうを大量に入れたスープのようなものである。にんにくと玉ねぎを炒め、こしょうやとうがらし、そして塩で味付けしたもので、チェンナイでは食事の後にもう一杯、という感覚で食事の締めくくりとして食べていた。そのラッサムが、とても辛かったのである。

これほどまでに辛いのには理由があった。おかずを作る余裕すらない村では、そしてこのように寒い時には、具が無くて辛いラッサムでご飯を流し込むのだと教えてくれた。辛いものを食べれば、体が温まるからである。

その晩、私たちは女性四人がくっついて眠った。外はまだ雨が降り続いている。ところが私たちは、真夜中に寒くて目が覚めた。しかも四人同時だった。土でできた床に直接寝ているためだろうか、その床が氷のように冷いのだ。私たちは震えながら、翌日着る服を着込んだ。とても寒くて眠るどころではない。私たちは眠る際、火事になるからと言って居間の中にある台所の火を消していたのだが、あまりにも寒いのでやはりつけようということになった。真っ暗闇の中を四つん這いになりながら、マッチがあるであろう方向に進む。そして手探りでマッチを探し、アルコールランプに火をつけた。

マッチ一本の明かりがこんなにも強いのかと思うほど、その光はあたりを明るく照らした。私たちは早速、火を焚き始めた。木が湿っているようである。火がつくものの、その火はすぐにふっと消えてしまう。何度か挑戦してみるが、うまくいかない。今度はノートをびりびりと破り、まずそこに点火するようにした。しかし木に移すと、火はそっと消えてしまう。私は、低い天井にかけてあったわらぶきを見つけた。私たちはそれをどんどん引っ張って抜き取り、そこに火をつけてみた。しかし燃えない。挙句の果てに私たちは、近くにあるアルコールランプの蓋を開け、中のアルコールを暖炉にぶちまけた。

暖を取るためなら、何でもできた。

翌日も寒い朝だった。昨日の寒さといい、夜の出来事といい、私たちは夢を見ているのだろうか。私たちは、蜂の巣を見せてもらった。大きな巣だった。ひょっとして彼らはここから蜜を採取するのだろうかと思い、聞いてみた。そういえばいつか、チェンナイの同居人が、この村から一リットルの蜂蜜をもらって帰って来たことがあった。「市販の蜂蜜には不純物が混ざっているんだ。これはピュアだ。ピュア、ピュア。」と言いながら、時々戸棚から出してはスプーン一杯ずつなめていた。私もこれをもらったことがあったが、それは甘ったるい甘さではなかった。さらっとしていて、しつこくない。 「そうか、これが『ピュア』なのか。」 と思いながら、彼がおごそかに手のひらに垂らしてくれた蜂蜜を、もったいぶって少しづつなめたことを思い出した。

非常に興味深かったのは、この村には女性からのダウリー(結婚持参金)が存在しないということだった。この村では女性が男性に支払うのではなく、男性側が、女性の家にいくらかのダウリーを払うのだ。結婚前に女性が男性の家に行き、共に生活をする。数ヶ月後、もしその家が嫌であれば、もしくは相手がその女性を気に入らなければ、その話はなかったことになる。だからと言って問題は無く、それぞれがまた別の人を探すことができるという。村のリーダーが情報を仕入れて面倒を見てくれるし、もし結婚後も相手を気に入らなければ、村のリーダーの仲立ちで解消することも可能だというのだ。どこにいっても、女性同士が集まれば結婚や子供の話になる。私も関心を持っていたため機会あるごとに話を聞いてきたが、こんな話は聞いたことがなかった。
「最悪な村」とは言うものの、もしかしたら最高の村かもしれない。病院や学校がないといったいくつかの問題を除いては……。


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