呉の君主


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楊行密(ようこうみつ):852〜906
 廬州の人で、字は化源。もとの姓名を楊行愍といった。よく百斤の重きを挙げ、日に三百里の道を行くことが出来たという。貧しき孤児となっていたが、蔡州の賊・秦宗権を討伐するために地元の防衛兵となる。そこで戦功を立て、淮南節度使の高駢によって廬州刺史に任じられた。
 高駢が部下によって殺されると、これを討伐。ついで、秦宗権の部下であった孫儒が攻め寄せてくると、糧道を断って劣勢をはね返し、孫儒軍の精鋭5000人を抜擢した。黒装束を纏ったこの部隊は「黒雲都」と呼ばれた。
 天復二年(902)、唐の昭宗によって呉王に封じられる。北は朱全忠と接し、南で銭鏐と隣り合わせとなってこの両国と抗争を繰り広げる。戦乱にて領内は荒廃するも、優秀な文官を選んで農業生産の回復と流民の復帰を図った。その一方で、旗揚げ時の同胞ともよく争った。武帝と謚される。
楊渥(ようあく):886〜908
 楊行密の長子で、字は承天。猜疑心が強く、部将を統率する能力に欠けていた。自分の腹心である陳璠や范遇を信任する一方、擁立に功あった旧臣の徐温や張を遠ざけた。徐温らは陳璠らの専制に立腹してこれを殺害、ついで楊渥の寝首をかいた。景帝と謚される。
楊渭(ようい):897〜920
 楊隆演ともいう。楊行密の次子で、字は鴻源。国政を徐温に任せた。後梁の貞明五年(919)、徐温によって天子となり、元号も武義と改めた。しかし、楊渭自身はその気がなく、怏々として楽しまず、酒ばかりを飲んで食事をろくにとらず、病に倒れて死亡した。宣帝と謚される。
楊溥(ようふ):910〜937
 楊行密の四子。楊渭が没したとき、兄の楊濛が健在であるものの、徐温によって皇帝に祭り上げられる。呉の大和七年(935)、徐温は没するが、その仮子たる徐知誥の傀儡となる。天祚三年(937)、徐知誥(李昪)の即位によって潤州丹陽宮に身を遷される。この後、羽衣を纏い、同年12月に没した。睿帝と謚される。


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