五代十国の各政権


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〜華北五代政権〜


簡単ではありますが、五代十国という乱世を彩った諸国を紹介します。
国名をクリックすると、歴代皇帝(王)の略歴が見られます。

政権名興亡年内容
後梁907〜923黄巣の反乱軍から官軍に鞍替えした朱全忠(しゅぜんちゅう)が建国。運河や陸路の要衝地で、自分の本拠でもあった開封を都とする。基本的には唐の政策を覆し、旧朝の宦官や高官を排除した(例外もあり)。各地の有力藩鎮を王に封じていったが、蜀や晋ら反対勢力も多くおり、領土規模や支配に関しては他の五代王朝に比べて小さかった。後期は外戚や側近が跋扈し、10数年にわたる晋との争いに敗れる。廃された朱友珪を含めて3代の政権。
後唐923〜936建国者李存勗(りそんきょく)は、父李克用(りこくよう)の後を継いで晋王となり、後梁を滅ぼして建てた。後梁が潰しにかかった唐の様式を復興させ、唐の「東都」洛陽に遷都。前蜀を滅ぼし勢い盛んなるも、伶人(芸人)優遇などの虚飾政治に走る。2代目李嗣源(りしげん)は政策を180度転換。名臣馮道を登用し、臣下の意見によく耳を傾け、平和な治世であったが、李存勗の武官層冷遇に対してとった厚遇態度は、かえって軍士を驕慢にさせた。 4代で滅亡。
後晋936〜946後唐の武将石敬瑭 (せきけいとう)が、北方遊牧民族・契丹の力を借りて後唐を倒し、建国。都は開封。政権奪取の経緯から契丹(遼)に父子の礼をとるが、国粋主義の者からは異民族に頭を下げる愚か者として、「児皇帝」と呼ばれ、蔑まれた。いわゆる燕雲十六州の割譲はこの時代である。敬[王唐]の死後は対契丹強硬派が台頭、これまでの友好を反故にした。無礼な対応にいきりたった契丹は、南下してこれを滅ぼした。2代10年。
後漢947〜950「こうかん」と読む。後晋2代皇帝から冷遇を受けていた武将・劉知遠(りゅうちえん)が、契丹を追い出して建国。都は開封。契丹侵攻などにより紊乱の極にあった国を厳罰主義によって統治を強化せんとするが、功臣同士の対立に加え、内乱によりあっけなく滅亡。2代3年。
後周951〜960後漢の武将郭威(かくい)が、後漢の内乱を鎮め、建国。都は開封。節倹を旨とし、安定を図る。2代柴栄(さいえい)は積極的な外征を行い領土を拡大したほか、禁軍(近衛軍)の整備や、僧を多く還俗させ生産的労働に就かせたり、像を銭に替えたりという大規模な廃仏令により国力を増強した。しかし柴栄は夭折。後を継いだ柴宗訓が幼少であるため、国内で実力があった趙匡胤(ちょうきょういん)が担ぎ出され、ここに北宋王朝が誕生した。後周の皇族は、後々まで賓客として遇された。


〜周縁十国政権〜

政権名興亡年内容
902〜937戦災孤児(?)であった淮南(安徽)の楊行密(ようこうみつ)が建国。戦火によって灰塵に帰していた本拠地揚州近辺をよく治め、復旧に努めた。彼の直属部隊は、黒衣を身に纏った精鋭であり、「黒雲都(黒い雲の集団)」と呼ばれた。しかし、楊行密死後は派閥争いで衰退。権臣徐温(じょおん)が実権を握り、その養子の徐知誥(じょちこう)によって国を奪われる。
呉越907〜978両浙の任侠道あがり、銭鏐(せんりゅう)が、朱全忠より爵位を受け、建国。生まれ故郷の杭州を中心とした集団、「杭州八都」より身を起こし、地域密着型の内政を推進。運河交通が盛んで、水害の多いこの地域にあって、治水工事などに精力的であった。基本的に中原の五代王朝に従属し、対外戦争をなるたけ避けようとした。5代目銭叔は仏教の保護で有名。六和塔は彼の時代の仏教建築物。結局は北宋に降伏したが、その時も平和的に行われた。
南唐937〜975もと呉の臣である徐知誥が、呉の皇帝から禅譲を受け(もっとも、それは建前であるが)建国。金陵(南京)を根拠地とし、唐の皇族の末裔と称し、その後を継ぐに相応しい者と自認していた。豊かな国力で十国中最大の経済力、軍事力を有するも、英主柴栄の前に屈服し、南唐皇帝の地位は「江南国主」となる。それより後、北宋に降伏する。2代目李m(りけい)と3代目李U(りいく)は「南唐二主」と並称され、『浪淘沙令』(ろうとうされい)などの詞を残し、文学史上有名。
907〜951安徽の木工あがりの馬殷(ばいん)が、湖南に流れたのちに朱全忠から王位を賜る。本拠地は潭州(たんしゅう・湖南省長沙)。特産品の茶などの貿易で経済効果を得、焼き物も盛んであった(長沙窯として遺跡が発掘された)。子沢山で、家父長的政治体制を執ったが、兄弟間による王位争奪が激しくなり、内乱のうちに壊滅。6代。尚、一時期話題になった長沙馬王堆は、この楚王朝の遺跡であるという説もあったが、実際には漢代のものである。
(びん)909〜943福建にて唐の反乱軍を鎮め、名を挙げた王審知(おうしんち)が朱全忠から王位を授かる。福州が本拠地。領土が狭く、山間の地が多いため、主に海上貿易にて経済を発展させる。王審知自身は倹約主義であったが、その死後は中原王朝からの独立、そして過度の仏教保護や相続争いで国が乱れる。6代で南唐および呉越によって滅亡。
荊南(けいなん)907〜963南平(なんぺい)ともいう。開封の商人李七郎の家僮から成り上がった高季興(こうきこう)が、朱全忠より江陵一帯(湖北)を授かる。3州のみの小国で、節度使並の勢力だったが、中原・呉・楚・蜀などの緩衝地として仲介貿易(関税)、変転外交などでよく国を保った。5代56年で北宋に降伏。
前蜀907〜925もとは河南のごろつきで、軍功を挙げて四川に拠った王建が、朱全忠への対抗として皇帝を名乗る。都は成都府。唐の亡命貴族や宦官を匿い、唐代の宮廷文化を保護。また、仮子(養子のようなもの。有能な部下を息子扱いにしてしまおうといったところ)を多く作り、家父長的支配体制を固めた。しかし、2代目王衍(おうえん)は文弱におぼれ、おまけに国力豊かであったが為に、財政難に陥った軍事大国後唐に目をつけられ、いっきに滅ぼされてしまう。
後蜀934〜965もと後唐の武将で、功により蜀の節度使となっていた孟知祥(もうちしょう)が、本国のごたごたを契機に独立。前蜀のような唐風王朝を継承。ただし、孟知祥は即位半年も経たずに没。後を継いだ孟昶(もうちょう)はまたしても文弱者。北伐をしたものの、結局は北宋に敗れる。成都城の別名「芙蓉城」は、彼が由来となっている。
南漢909〜971広州で節度使となっていた劉陟(りゅうちょく)が建国。同所を本拠とする。南海貿易で巨万の富を獲得し、唐代において左遷の憂き目に遭っていた貴族たちを多く容れた。ただし、劉陟はじめ歴代の4人の皇帝は、刑罰を眺めては垂涎していた者、意にそぐわぬ親族をことごとく殺す者、というように暴君がよく輩出された。自らを中央の大朝廷と称し、中原の皇帝を「刺史」呼ばわりしていたことも。最後は北宋に降伏。
北漢951〜979劉知遠の弟、劉崇が、後周を建てた郭威に反抗し、もと拠点の太原にて自立する。後漢の後継者として、後周とは常に敵対関係にあり、背後の契丹族(遼)と手を結ぶ。しかし、その貢賦の多さにより、財政を圧迫。4代にして後周の後を継いだ北宋に敗れ、ここに実質上「五代十国」時代の幕が閉じられる。



他にも中小勢力がたくさん存在しておりますが、まずは上記の代表15国にとどめておきます。


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