| 石敬瑭(せきけいとう):892〜942 |
| 突厥沙陀部の人。父の代から李克用一派に仕える。冷静沈着で口数少なく、兵法書を熟読、戦国時代趙の李牧や前漢の周亜夫の風格があったという。李嗣源に寵愛され、娘(永寧公主)を娶る。これより李嗣源の帳下に加わり、十余騎をもって後梁軍の囲みを解いたり、三百騎で先鋒として後梁の都・開封に入城するなどの功績を挙げる。 しかし、李嗣源の仮子である李従珂とは仲が悪く、従珂の即位後に左遷を命じられた。これを拒絶すると、仮子の身分で実子を殺したことを非難して挙兵、北方で力を付けてきた契丹と結んで後唐を滅ぼした。契丹の王・耶律徳光には、いわゆる燕雲十六州を割譲したり、毎年銀や絹を送りつけ、臣下の礼をとる、といった約束をしている。当の耶律徳光からは「児皇帝」と呼ばれるようになった。 簡素と倹約を好み、宴楽に耽ることを避け、公務が終わると論客らと民事や行政について語り合ったという。そして、契丹との盟約も遵守し続けた。ところが、「我ら華夏の民が蛮族に頭を下げることは我慢できない」という者もおり、敬瑭の死後に表面化してくる。 敬瑭の廟号は高祖。 |
| 石重貴(せきじゅうき):914〜964? |
| 父の石敬儒は敬瑭の兄で、李存勗の許で騎将を務めていたが、早世したため敬瑭に引き取られた。騎射に長けているが、反面学問には疎く、父から付けられた博士・王震から『礼記』を教わるも、「これは私がなすべきことではない」とはねのける。敬瑭の実子は六人いたが、うち五人が夭折する。残った石重睿は幼少であったため、重貴は敬瑭の死後に後を継ぐこととなった。 景延広はじめ、対契丹強硬派が台頭。大いに怒りし契丹(遼)からの南下を受け、都・開封が占領されてしまう。重貴は契丹に連行され、北方の地にて没す。出帝と謚される。 |