幡多人物伝

上田庄三郎

紹介:教育者
生誕地:幡多郡(現土佐清水市)三崎町
誕生日:1894年11月10日



山本大・千葉昌弘著
高知県の教育史
思文閣出版1990年
(上記出版物より)

 高知新聞社刊「土佐人物ものがたり」では、「日本最初の教育評論家」とされているが、子息上田耕一郎・不破哲三両氏を見ると評論家ではなく実践者として優れた方と考えられる。それで本サイトでは教育者とのみ紹介する。


益野児童共和国

 学校が兵営でない限り、学校がろう獄でない限り、学校は子ども達に最大の自由が認められ、最大の創造心を培う殿堂であらねばならない。

 幡多の先人たちが活躍した明治期、江戸幕府を倒した革新勢力も徐々に保守的となり、天皇を中心とする政治体制の確立を目論むようになる。明治維新が天皇親政をめざした以上、当然の方向と考えるべきである。また、政治体制を確固たるものにするには、文化大革命の紅衛兵やナチのヒットラー・ユーゲントをみても判るように、若者に対する教育が重要である。明治23年(1890)「教育ニ関スル勅語」が発布され、翌々年には各地の学校へ御真影の下賜と勅語謄本の交付が行われた。そのように「教育勅語」精神の浸透がはかられた。
 当時世界では、エレン・ケイ「児童の世紀」、J・デューイによる実験学校の創設など、いわゆる新教育運動・教育改革運動が展開されていた。その後、その思想や実践がわが国で大正デモクラシー運動を背景として、大正自由教育として花開く。

 大正3年師範学校卒業記念の短期現役兵入隊における会で、代表者となった庄三郎は師範学校の官僚主義と専制主義を激しく非難し問題となっている。その後、故郷渭南地区へ戻った庄三郎は小学校に勤務し青年教師のサークル「闡明会」を結成し、教育の自由を求め、教育革新を願う青年教師の集まりであった。雑誌「闡明」を機関誌としたが、同人はしばしば弾圧の対象となった。

 頭脳明晰で努力家、雄弁でどうどうの論陣を張る「上庄」は、大正10年(1921)4月益野小学校の校長に任命された。校舎が焼失していたため、村のお宮を校舎にみたて、そこに「益野児童共和国」の標札を掲げた。「自由」と「創造心」を奪われた学校は「兵営」や「ろう獄」にすぎないとする彼の強烈な主張に基づく自由学園を建設しようとしたのである。


地軸社

 庄三郎は師範学校で三年後輩の小砂丘(笹岡)忠義と地軸社を結成している。庄三郎の学校改革の主張と小砂丘の綴方教育が結びついたものである。機関誌「地軸」創刊号で巻頭言として「地軸」は出発するを書き、「童心こそ人類の地軸」と児童中心主義の教育思想の核心を述べている。その後、庄三郎は神奈川県雲雀ヶ岡「児童の村」小学校校長となり幡多を出、小砂丘は教育の世紀社での雑誌編集のため高知を離れた。しかし、昭和4年(1929)全国的な生活綴方教育運動の推進を意図した機関誌「綴方生活」の創刊に参加することによって二人は再び活動をともにすることになる。この生活綴方教育運動が大きな成果を挙げたのはご存知の通りである。


 「綴り方」という言葉が死んでいます、私より年輩の方はずいぶん馴染んだ言葉なのに。幡多の教育者たる先生方、このインターネットが発達し世界に向けて自己主張が行える世の中。幡多の子供たちがしっかりと考えることができ、自分を主張できる能力をつけることができるようにお願いいたします。日本語だけでなく英語・フランス語・中国語などもしっかりと教えてあげて下さい。

 日本共産党書記長不破哲三氏の父親だから偉いのではない!! 自分が活動し、その生き様をみた息子が立派に同じ考え方を持っているから偉いのだ。しかし、この点について本当に偉いのは上庄の奥さんでしょうね。彼女が「うちのお父さんは...」などと世間常識をのべる奥方だと不破哲三氏はなかったのでないでしょうか? (^^;

 また社会的に考えると共産主義は立派な思想なのでしょうが、人間という生物を考えると巧く行く実践思想とは思われません。それでも本当に人間には「自由」と「創造心」が大事です。