幡多人物伝

北見志保子(きたみ しほこ)

出身:幡多郡宿毛町(現宿毛市)
生年月日:明治19年1月
歌人


 北見志保子・平城山(ならやま)と云っても知らない人が多い。戦前の著名人であり、平城山も歌われることが少なくなった。しかし、宿毛小学校出身者はこの歌碑を見たことがあるはずである。(この歌碑がなぜ小学校にあるのかは、碑の後に書かれている。)また、明治生まれの女性として、その生き方に共感する方もいるはずである。

やまかわよ
のよ あた
たかき ふるさとよ
こえあげて
なかむ
ながなりし
加奈
志保子

 昭和25年に宿毛に帰って際、生まれた歌であり「山川よ 野よ あたたかきふる里よ 声あげて 泣かん 長かりしかな」と詠まれている。宿毛を離れて生きている宿小出身者は、この碑を思い出し、この歌を口ずさみふる里を思い出しましょう。ふる里を歌とイメージで結ぶことができるとは幸せです。(^^; この歌碑は昭和28年に作られ、志保子自身は昭和30年5月4日、70歳で東京において没している。

 高知鏡川畔のある旅館で文人の客に揮毫をして貰っていたそうである。そこで、志保子が書き込んだのもこの詩であり、見つけられた方が額に入れて大事に扱ってくれている。
http://www2.inforyoma.or.jp/~kadota/Nakayama/Yuubaeno_michi2kan_1.htm

人戀ふはかなしきものと平城山にもとほりきつつ堪へがたかりき

古もつまを戀ひつつ越えしとふ平城山のみちに涙おとしぬ


 さて、「平城山」である。 「平城山」とは、京都盆地と境する奈良盆地の北側丘陵をいう。西半分が佐紀山、東半分が佐保山である。佐紀山に佐紀盾列古墳群があり、二重の堀で囲まれた盤之媛の平城坂上陵もそこにあり、夫仁徳天皇陵とは離れている。

 昭和9年(大正時代の可能性もある)、志保子は盤之媛命陵をテーマに短歌7首を詠んだ。この詩は、盤之媛の仁徳天皇への想いと自分のフランス留学中の夫への想いを重ね詠まれたと云われる。その翌昭和10年、7首のうち、上記ふたつに平井康三郎(高知県伊野町出身)が「平城山」の題名で曲をつけ、大ヒット。なお、歌曲「平城山」では、「古もつまに」になっている。

 ちなみに、平井・北見のコンビでは室戸岬水産高等学校校歌も作られている。(^^;

 志保子は、宿毛小学校の北側で生まれている。父川島享一郎は営林署に努めていたが自由民権運動のために奔走、家計は母勢津の賃仕事で支えられ、貧しさの中で育つ。宿毛小学校から中村の実科女学校(中国派遣教員養成所卒の記載もあり)へ進み、卒業後小学校教員をしていたが、17歳の時、上京。教員時代に知り合った橋田東声が上京後は、彼に学資援助を行い、大正2年結婚。彼の雑誌「珊瑚礁」「覇王樹」に短歌を発表した。

 戦後、昭和24年五島美代子らと「女人短歌会」を結成し、女流歌人の育成に努めた功績も大きい。

 上の写真のように、生誕地のすぐ南には宿毛小学校が見える。しかし、明治28年生まれと善意の転記ミスを役所にお願いする北見志保子さんは、信用できない人だった気もする。(^^;  男に惚れた女の可愛らしさと考えておこう。