市民にできること世界に暮らす > ニューヨークTOP > 市民にできること私は市民のレベルでいくつかできることがあると考えています。個人的に最も重要だと思う二つを紹介したいと思います。 ひとつ目は、政府やマスメディアに頼らない市民の間の直接の情報交換です。今回の事件報道でますます明らかになったのは、マスメディアは、たとえ情報操作を意図しなくても、自らの興味に応じて情報や映像を選択して流し、その結果として偏ったイメージを植え付ける可能性が大きい、ということです。イスラム教徒として過激派や原理主義者の報道ばかりがあれば、市井の人の持つイスラムに対するイメージも、そうしたものになってしまうことでしょう。アメリカが攻撃を受けたことを喜ぶ人々の姿が放映されれば、パレスチナすべてがそうであるかの印象を受けてしまいます。報復攻撃について述べるブッシュ大統領や、はためく星条旗だけを放映していたら、アメリカ全土が戦争支持で固まっているかのように見えてしまいます。こうしたイメージはすべて間違いであることを、マスメディア以外に頼るものがない人たちは、どのように知ることができるでしょうか。 今回力を発揮したのは、インターネットによる情報交換でした。インターネットは、マスメディアであれ、個人であれ、ほとんど変わらない力を発揮できる媒体です。質の良い情報は転送され、多くの人たちに届きます。また、質の良いホームページは人気が集まり、相当数の人にメッセージを届けることが可能です。既存の放送局や新聞社、出版社に同じような方法を用いて対抗しようとしたら莫大な費用がかかり、とても市民の手におえることではなくなってしまいます。しかしインターネットならば、費用は微々たるもので済んでしまいます。まさに市民が情報発信や情報交換に使うにはうってつけの媒体と言うことができます。 しかし、考えなくてはいけないのは、やはり何かが起きてからでは遅い、ということです。マスメディアが送り出す、瞬時に目に飛び込む映像や、詳しい解説のついた新聞の記事などに、市民の自主的なメディアは追いつくことはできないでしょう。それどころか、市民の間を緊急に流されるメールは、内容的には玉石混交、デマが混じるものも多く見られました。ですから、むしろ市民のメディアは、事件報道や緊急情報ではなく、普段から情報を見抜く目を養うための情報を流すことが役割になると私は考えています。普段からアフガニスタンがどのような状況にあるか、パレスチナの過激派ではない市井の人たちは何を考えどのように暮らしているのか、娯楽と経済の中心以外のニューヨーク、つまり人々が暮らすニューヨークはどのようなところなのか、そうしたことがわかっていれば、あるいはどこにアクセスすれば質の高い情報が手に入るかがわかっていれば、マスコミによる報道も、市民による緊急の回覧メールも、どこまでが本当で、そこにもれているのは何かがおのずと見えてくるのではないでしょうか。 そして市民がお互いに情報を交換していれば、アラブやイスラムが決して過激派の巣窟であるわけでもなく、アメリカが悪魔の帝国であるわけでもなく、常識を持つごくごく普通の市民たちが大勢暮らしている場であるという、当たり前のことがお互いに認識できてくるのではないでしょうか。もちろん時間はかかることでしょう。アメリカはともかく、アラブ圏にはインターネットはまだまだ普及していませんし。しかし、そうしたお互いを理解しようという動きが広がれば、きっといつかはそれがそれぞれのリーダーを動かしたり、国の政策に反映されたりするときも来ることでしょう。私はそう信じています。 もうひとつは、特に発展途上国で行われている、貧困と不公正への戦いを支援することです。多くの国では市民は貧困から抜ける道を見出すことができず、身体の安全すら保証されない状態にあります。教育や医療へのアクセスも非常に限られたものです。こうした状況は社会不安を生み出し、武力抗争やテロの温床となっていることは間違いのないことでしょう。こうした基本認識はアメリカ政府も持ち始めているように見えますし、タリバン政権は、自分たちが抑圧者であるという自覚はないかもしれませんが、貧困がアフガニスタンにおける最大の問題であるという認識は持っているようです。 では最近の日本政府の対応はどうでしょうか?不況を理由に政府開発援助(ODA)の削減を決めています。その一方で、今回の事件を受けて、アフガニスタンやパキスタンに向けた緊急人道援助を行うことを決めています。この動きは矛盾していないでしょうか?かつて国連難民高等弁務官事務所代表の緒方貞子さんは、各地の難民の窮状を日本政府に訴え、ODAを減額しないように申し入れましたし、他の開発途上国からも「ODAを減らさないで欲しい」という要望があったにもかかわらず、政府は減額を決定しました。そして今回の緊急援助です。あの時緒方さんの要請に従っていれば、きっと今ごろはアメリカの尻を追いかけることなく「わが国はとっくにやっていますよ」と胸を張れたことでしょう。 アフガニスタンやパキスタンの状況は、事件が起きたから悪くなったのではなく、悪いまま放置されていたことが本来問題であったはずです。それに対してODAの削減は答えになっているでしょうか?もしODAに無駄があったり、成果が上がっていなかったりするのであれば、それは額の多さが問題なのではなく、使途に問題があったという構造が浮かび上がっては来ないでしょうか?そして、ODAは日本の安全保障と密接な繋がりがある、という外務省の主張は、今回の事件でも日本人に犠牲者が多く出ていること、そしてテロがどこで発生するかわからないことを考えれば、理由があることであることに気がつくはずです。この件に関しては日本の市民団体やマスコミにも責任があると思います。多くの場合ODAの無駄を指摘しても、ODAを無駄なく使う方策や使途を代替案として示すケースは限られていますから。しかし、残念なことに縦割り構造、既得権益が強い日本の仕組みでは、「ここを削ってここを増やして」ということが簡単ではありません。 では市民として何をしたら良いでしょうか?私は二つあるだろうと考えています。ひとつはNGOなどを通した直接支援への参加です。見捨てられていたかのようなアフガニスタン国内や、周辺地域でも、数多くのNGOが食料や教育、医療分野での支援を行うために働いていました。内戦が続くスーダン南部や、内戦後のコソボ、ありとあらゆるところでNGOは働いています。良いNGOを見出し、そこへ寄付することは、確実に援助に参加する最善の方法です。 もうひとつは、ODAなどの国際協力を内政と区別し、自分には関係のないことだと考えることをやめることです。ご存知のように日本の国会にはいわゆる「族議員」と呼ばれる人たちが大勢います。ところが国際協力の族議員というのは多分存在しません。何しろ票になりませんから。「アフガニスタンへの援助を公約します」と言う候補者よりも「新幹線を引っ張ってくるように努力します」という候補者に票が入るのはいたし方のないことですが、せめてその候補者の、国際協力に関する観点、関心度などをチェックして投票行動を決めるべきではないでしょうか?内政と外交とを明確に区別して語れるような時代は、すでに過去のものになっているように思います。 21世紀は、古い支配構造に頼ったり、単にそれを批判したりを繰り返すのではなく、世界中の市民が自分たちで作り上げていくものになってほしいと思っています。今までのようにテロや報復攻撃、そして貧困や不公正を、誰か他人のせいだと考えるのはやめて、私たち自身の責任だと考えるべき時に来ているのではないでしょうか。パラダイムシフトを求められているのは、アメリカ政府やイスラム教過激派ばかりではなく、私たち市民ではないでしょうか。 |