2001年9・11ニューヨーク世界に暮らす > ニューヨークTOP > 2001年9・11ニューヨークこのページを、私の個人的な話から書き始めたいと思います。私の妻はニューヨークの国連機関のひとつで働いています。私が仕事で南米に3ヶ月ほど行っている間にニューヨークに単身赴任してきていた彼女は、7月30日に私たちの第一子、長男をマンハッタンの大学病院で出産しました。私は出産の時期をともに過ごすために、数ヶ月間自主的な育児休暇を宣言し、仕事をすべて断り、妻の住むニューヨークに滞在して、出産にも立ちあい、はさみでへその緒を切りました。 長男は3.8キロもある大きな赤ん坊で、しかも顔が少々おかしな方を向いたままで産道に降りてきてしまったために、出産には苦労が伴いました。痛み止めもうたず自然分娩を選択した妻は、難産というほどではありませんでしたが、途中でひっかかってしまって出てこない長男を産み落とすために苦闘し、顔にはうっ血のために吹き出物のようなものが見る見る内に出てきてしまうような状況でした。それは見ていて辛いと同時に、感動的な光景でした。 幸いにして苦労して生まれてきた長男は、産道で押されて頭が変形してはいたものの、とても元気で、生まれると同時に大きな泣き声をあげました。髪は既に黒々しており、病院の看護婦さんたちに驚かれました。妻のほうも縫合を受け、アメリカの病院は出産後2日で退院させられてしまうために、家に帰ってもしばらくトイレに立つのにも苦労していましたが、持ち前の体力からか回復は速く、ほっとしました。 私は大学を出て以来20年以上国際協力の仕事に携わっています。常々多くの途上国の人たちが直面する貧困や社会的不安定、紛争などに直面し、心を痛めてきました。私は、自分の息子に、20世紀の貧困や紛争を引きずらない、新たな世界の価値観の構築を託して、「いぶき」と名づけました。新しい世界、新しい世紀の息吹という意味です。 そして長男誕生から1ヶ月と少し経った9月11日の朝。妻と私はいつもどおり、目を覚ました長男におっぱいを飲ませたり、朝のお勤めを済ませた彼のおしめをかえたりしていました。その時、電話のベルが鳴りました。朝この時間帯に電話がかかってくることはまずありません。多分2日後に孫の顔を見にニューヨークに来る予定だった私の父母だろうと思って受話器を取ると、やはり電話をかけてきたのは父でした。出迎えの打合せかと思っていたら、父が言った言葉はまったく予期していなかったものでした。「世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んで炎上している。テレビを見ているうちにもう一機突っ込んだ」。二機も突っ込んでいるなら事故のはずはありません。「テロだ!」とすぐわかりました。 私たちが暮らす家はニューヨークとは言っても、崩れ落ちた世界貿易センタービルやセントラルパーク、ブロードウェイなどがある有名なマンハッタンの外、東側に広がるクイーンズという住宅地域にあります。マンハッタンからは川をひとつ隔てたところ、地下鉄一本で来ることができるところです。家の周辺からも貿易センタービルが良く見えていましたので、父からの連絡を受けたときも受話器を握り締めたまま、すぐに窓の外を見ました。するとものすごい黒煙がマンハッタンの南の方から立ち上がり、東方向へもうもうとたなびいているのが見えました。 あわてて寝室を出て階下に降り、テレビをつけてみると、どこの局でも煙をもうもうと上げる2本の高層ビルの映像、そして飛行機の突入の模様を繰り返し繰り返し放映していました。様子を見に家の外へ出てみると、普段は無愛想なお隣のおじさんが心配そうな顔で、「貿易センタービルが大変なことになっているな」と話し掛けてきました。家の近くの幹線道路を、サイレンを鳴らしながらひっきりなしにマンハッタンの方向へ走っていく緊急車両。少し離れてはいても、緊迫した雰囲気が感じられます。 結局このあたりからは煙に隠れてビルの状態は見ることができず、ふたたび家に戻ってテレビの生中継を見ていると、驚いたことに貿易センタービルのタワーが相次いで崩れていくではありませんか。計り知れない被害が出たに違いありません。この時私は、息子に託した平和な21世紀への夢も、いきなり障害にぶつかった、と感じていました。息子も多くの生命とともにビルが焼け落ちる煙の臭いを嗅ぎました。 インターネットで状況を調べてみようと接続してみると、マンハッタンにあるアクセスポイントには何事もなかったかのように簡単に繋がりました。メールをチェックしてみると、私がニューヨークにいることを知っている友人たちから安否を気遣うメールが多数入っています。しかしCNNやBBCなどのニュースサイトはまったく表示されません 。あきらめてテレビのショッキングな映像を見ていると、再び電話。今度はワシントンに住む友人からでした。以前からニューヨークに来たら連絡しあおう、と言っていたものの、そのままになっていたのが、安否を気遣って連絡を取ってきてくれたのでした。こちらからもマンハッタンで働く友人に連絡を取り、安否を確認しました。 それからこの文を書き始めるまでに約2週間がたちました。まだ現場からは煙が上がり、行方不明者5千人近くが既に絶望視されていますが、捜査活動は継続しています。この間にアメリカ政府は報復攻撃を行うことを決め、各国の政府や国民はそれぞれの反応を見せています。またアメリカの人々の反応も様々です。テレビなどのメディアはどこでも連日事件関連の報道を行っていますが、アメリカでの報道も、日本から来るアメリカやアフガニスタンに関するニュースも、ニューヨークにいる私にはかなり違和感があります。 私は過去にネパールとペルーで起きたテロで、友人・知人を二人亡くしています。またケニアとタンザニアで起きた米大使館爆破事件の時にはタンザニアに滞在していました。滞在している国でテロが起きるのは実は5度目です。そのためか私は今回の事件と、今後の世界のために何かしなくてはいけない、という気持ちを強く感じています。私個人にこうした痛ましいテロの再発を防ぐ力は到底ないでしょう。しかし、今回の事件を通して市民にできることも多いし、またそうした環境が段々整って来ていることも感じています。21世紀は国やテロ組織など、力を持った者同士が争うのではなく、世界中の人々がお互いに理解しあって共存していく世紀になって欲しいと心から望んでいます。国や宗教指導者ではなく、市民が共に自分たちの運命について話し合える社会を待ち望んでいます。 |