| クラブ名 |
Nottingham Forest ノッティンガム・フォレスト |
| ニックネーム |
@The Reds ザ・レッズ
AForest フォレスト |
| クラブ創立年 |
1865年 |
| ホームスタジアム |
City Ground シティ・グラウンド |
| 収容客数 |
30602人 |
| ライバルクラブ |
Derby County / Leicester City |
| クラブ公式HP |
http://www.nottinghamforest.co.uk/page/Welcome |
| ファンサイト |
Blooming Forest
Forest@Bugcafe
The City Ground in 3D |
所属ディヴィジョン
フットボールリーグの変遷はこちらで参照してください。 |
| 年 |
部 |
所属ディヴィジョン |
| 1892- |
1 |
Divison1 |
| 1906- |
2 |
Divison2 |
| 1907- |
1 |
Divison1 |
| 1911- |
2 |
Divison2 |
| 1922- |
1 |
Divison1 |
| 1925- |
2 |
Divison2 |
| 1949- |
3 |
Divison3 South |
| 1951- |
2 |
Divison2 |
| 1957- |
1 |
Divison1 |
| 1972- |
2 |
Divison2 |
| 1977- |
1 |
Divison1 |
| 1992- |
1 |
Premier League |
| 1993- |
2 |
Divison1 |
| 1994- |
1 |
Premier League |
| 1997- |
2 |
Divison1 |
| 1998- |
1 |
Premier League |
| 1999- |
2 |
Divison1 |
| 2004- |
2 |
FL Championship |
| 2005- |
3 |
FL 1 |
| 2008- |
2 |
FL Championship |
|
| 備考 |
ノッティンガムフォレストがノッティンガム地方のナンバーワンチームになるのにかかった時間は90年。
チームの創設は1865年。1898年と1959年にFAカップで優勝しているとはいえノッティンガム・フォレストが世界中に名前を知らしめたのは1970年代になってからだった。
ダービーカウンティの監督として名声を得たブライアン・クラフ(Brian Clough)が強烈なライバル関係にあるノッティンガムフォレストにやってきたのは1975年。チームはディビジョン2に低迷していた。
クラフはノッティンガムのサポーターに受け入れられたか? 答えはノーだった。
クラフがダービーの監督時代にフォレストのスター選手、イアン・ストレイ・ムーアを獲得しようと画策していたからだ。
しかしそんな逆境の中、クラフはどうしようもなかったメンバーをまとめ上げヨーロッパで最も面白くて成功したチームを作ったのだ。
1978-79シーズンにはクラブ史上初となるヨーロッパの大会(ヨーロピアンカップ)への出場を果たし、初出場ながら優勝してしまう。決勝の相手はスウェーデンのマルメだった(1-0の勝利)。これだけでも奇跡的な出来事であるが、なんと翌シーズンのヨーロピアンカップでもドイツのハンブルガーSVに1-0で勝利し、優勝したのである。
タイトルはそれだけではない。1977-78年から1980-81年までの3シーズンの間の成績を列挙するとこうなる。
1977-78:フットボールリーグディヴィジョン1優勝
1977-78:チャリティシールド優勝
1977-78:リーグカップ優勝
1979-80:ヨーロピアンカップ優勝
1979-80:リーグカップ優勝
1979-80:フットボールリーグディヴィジョン1準優勝
1980-81:ヨーロピアンカップ優勝
1980-81:ヨーロピアンスーパーカップ優勝
1980-81:リーグカップ準優勝
この黄金期を支えた選手はいずれもクラフ監督が見つけてきた選手ばかりだ。
フランク・クラーク(Frank Clark)はニューカッスル・ユナイテッドで長年活躍していたが、契約満了により居場所がなくなっていたところをクラフに拾われた。
ギャリー・バートルズ(Garry Birtles)はフォレストに加入するまではカーペット職人として働くかたわら、アマチュアリーグのロング・イートンでプレーしていた。
そしてラリー・ロイド(Larry Lloyd)はリバプールからコヴェントリーに放出され、気落ちしていたところをクラフに救われた。
クラフの下で働くナンバー2のピーター・テイラーはケニー・バーンズ(Kenny Burns)の獲得を希望していた。バーンズは点取り屋として有能だったがj独善的なプレーが目立つ選手だった。
クラフはテイラーに向かってこういった。
「忘れろ。私はトラブルメーカーなど欲しくはない」
結局バーンズを獲得したフォレストだったが、なんとクラフはバーンズをFWではなくDFとして起用した。20分ばかりバーンズと話をしてDFへのコンバートを決断したというのだ。
それから忘れてはいけない選手がジョン・ロバートソン(John Robertson)だ。
ロバートソンはクラフがフォレストの監督に就任したときにはすでにフォレストに加入していた。彼の背は小さく、見た目にもずんぐりしていて、華やかさとはまったく無縁の選手だった。すでに5年間をリザーブチームで過ごしていた。
クラフはロバートソンの隠れた才能に目をつけ、彼をウイングとして起用した。世界で最も足の遅いウィンガーが誕生した瞬間だった。
ロバートソンは左サイドをまるでペンギンの赤ちゃんのようによちよちと駆け上がるのだが、不思議なことにボールは彼の足に吸い付いてどんなDFでもボールを奪うことは容易ではなかった。
ロバートソンが繰り出す正確なクロスボールはこの時代のフォレストの最大の武器であった。
1979年のヨーロピアンカップの決勝では、ロバートソンのクロスから得点が生まれ、翌1980年のヨーロピアンカップの決勝では自ら得点を決めて見せた。
(1979年のロバートソンのクロスからトレバー・フランシスのゴールはここ)
(1980年のロバートソンのゴールの動画はここ)
こうしてロバートソンはノッティンガム・フォレストのサポーターにとって忘れられない選手となった。彼はフォレストで243試合連続出場(通算385試合出場)、スコットランド代表としても28試合に出場している。
クラフはロバートソンについて、ジョン・ロバートソンはまったく魅力のない若者だったが、ボールと芝生を与えてやればたちまちアーティストに変身した、と述べている。
またクラフは1977年にストークからGKのピーター・シルトン(Peter Shilton)を、1979年にクラブ史上最高額の移籍金で、バーミンガム・シティからストライカーのトレヴァー・フランシス(Trevor
Francis)を獲得している。
これらの選手たちがクラフの采配の下で輝きを見せ、ヨーロッパでナンバーワンのチームを作っていたのである。
輝かしい70年代のあと、1980年になってもノッティンガム・フォレストは2度のリーグカップ優勝、そして同じく2度のフルメンバーズカップ優勝(フルメンバーズカップはヘイゼルの悲劇によりイングランドのクラブがヨーロッパの大会の参加資格を剥奪されていたことにより行われた国内の大会)を成し遂げている。
ただし1984年のUEFAカップでは、審判の不可解な判定のためアンデルレヒトに決勝で敗退している(この審判は賄賂を受け取っていたことが後に発覚する)。
クラフ監督は1993年に監督を辞任する頃には重度のアルコール依存症を患っていた。しかしメディアに登場すれば辛辣かつ毒舌なコメントで人々を楽しませてくれた。
クラフ政権後、ノッティンガム・フォレストはほんの少しの間、プレミアリーグに所属していた時期もあるが、悪夢のような3部ディヴィジョン降格も経験している。
とはいえ、古豪という呼び方が最も相応しいクラブのうちのひとつであることは間違いないだろう。
イングランド代表のDFであり「サイコ」というニックネームが有名なスチュアート・ピアース(Stuart Pearce)は1985年にノティンガム・フォレストと契約するまでの5年間はアマチュアリーグでプレーしていた経験を持っている。
フォレストで401試合、イングランド代表として78試合に出場する超一流の選手になろうとは誰も予想できなかっただろう。
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| 画像 |
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| クラブエンブレム |
John Robertson |
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ユニフォーム |
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